第276話 影の中心
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第276話 影の中心

第9章 地図の折返し

静かだった。

記録の氷河のゼロ地点とは、質が違う。あそこでは音が凍っていた。今度は、音が必要なくなっている。

列車がかげの中に入ったとき、車輪の音が途切れた。途切れたのではなく、音を出す理由が消えた。車輪は回っている。線路に触れている。だが、その接触が情報として成立していない。触れているという事実だけが残り、音という結果が生まれない。

あさひが指で座席をたたいた。音がなかった。だが前回と違い、振動もなかった。指先が座席に当たった事実だけが残り、それ以外のすべてがはぶかれている。あさひは指先を見た。座席に触れた感触はある。だが触れたことの意味が、空白になっている。

こよいは口を開いた。声を出そうとした。だが、声を出したいという衝動しょうどうそのものが薄い。黙っていることに不安を感じない。声を出す必要がないと、体が知っている。唇が開いたまま、声にならない息だけが漏れて、それすらも空気に溶けて消えた。

久遠くおん目録もくろくを開いた。ページが見える。文字がある。だが読もうとする意志が立ち上がらない。文字は文字として存在しているが、意味を持とうとしない。文字が意味を拒んでいるのではなく、意味という機能そのものが休止している。

久遠くおんページを見つめたまま、しばらく動かなかった。義眼ぎがん蒼光そうこうが点いている。だが走査そうさをしていない。光がページの上で止まったまま、読むことを忘れたように静止していた。

ゼロ地点では、情報が凍結とうけつされていた。動けなかった。だが今度は違う。凍結とうけつされていない。止められていない。ただ、動く必要がない。

すべてが、完全に静止している。

完全な静止は、完全な平和に似ていた。争いがない。欠損がない。痛みがない。何も足りないものがなく、何も過剰なものがない。この静止の中にいれば、名前を失う恐怖もない。名前という概念がいねんそのものが不要になるからだ。

こよいは巾着きんちゃくに手を伸ばした。神々は脈打っていなかった。前回は凍っていた。今回は、脈打つ必要がないと判断したかのように、静かだった。

温もりはあった。冷たくはない。だが温もりの意味が変わっている。温もりは生きているあかしのはずだった。だがこの静止の中では、生きているか死んでいるかという区分くぶんそのものが消えている。温もりは温もりでしかなく、そこに意味を読み取る力が休んでいる。

こよいは巾着きんちゃくを握った。握る力がいつもより弱い。力を込める理由が見つからない。

あさひが立ち上がった。

そのとき、おたまが毛づくろいを始めた。  理由なんて何もない、いつもの毛づくろい。この完全な静止の中で、最初に動いたのは、もともと理由で動いていない生き物だった。舌が毛並みを撫でる仕草だけが、意味の消えた車内で、意味を求めもせずに続いていた。  あさひの目が、それを見ていた。長いこと、見ていた。

立ち上がるだけのことに、時間がかかった。立つ理由を体が探している。見つからないまま、意志だけで膝を伸ばした。膝が伸びるとき、関節の音がしなかった。音が必要ないから。

あさひは大剣のつかを握った。握っても何も起きない。斬るものがない。守るものがない。この静止の中では、剣を握ることに意味がない。

だがあさひは握り続けた。理由がなくても握る。それがあさひだった。

あさひが一歩踏み出した。床を踏んだ。音はない。振動もない。だが、あさひの体が空間の中で位置を変えた。それだけの事実が、この完全な静止の中に、最初の変化を刻んだ。

もう一歩。

もう一歩。

あさひが車両の端まで歩いた。扉の前に立った。扉を開けようとした。開かなかった。だが、開けようとした事実が残った。

こよいは巾着きんちゃくを握る手に力を込めた。理由はまだ見つからない。だが、あさひが動いた。動くことはできる。理由がなくても。

こよいは立ち上がった。

巾着きんちゃくの中で、雨の神が一つ、脈打った。弱い脈動だった。だが脈打った。静止の中で、脈打つ理由を見つけたのではない。理由なく脈打った。それだけのことだった。だがその一打が、巾着きんちゃくの中に小さな波紋はもんを作り、温もりの質が僅かに変わった。

久遠くおん目録もくろくを閉じた。停車場の石畳いしだたみにしていたように文字を書こうとしたが、車内にその面はなかった。代わりに、自分のひざの上に指で文字を書いた。誰にも読めない文字を。記録のためではなく、書くという行為を止めないために。指先が布の上を滑り、見えない文字の跡を残していく。

列車が動き始めた。いつ動き始めたのか分からなかった。景色が変わり始めたことで、動いていたと分かった。

灰色が少しずつ色を帯びた。白が戻ってきた。白に灰色が混じり、灰色に青が差し、青の中に遠いきりの粒子が浮かんだ。

音が戻った。

車輪が線路をむ音。窓枠がきしむ音。こよいの呼吸の音。音があるということが、こんなにも豊かだったのかと、こよいは思った。

巾着きんちゃくが脈打った。今度は強く。取り戻すように。静止の中で手放しかけた何かを、急いで抱え直すように。

こよいは巾着きんちゃくを胸に押し当てた。温かかった。さっきと同じ温もりのはずなのに、意味が違っていた。生きている。動いている。必要がなくても動いている。

あさひが座席に腰を下ろした。

「あれが一番きつい」

声が出た。声が出ることが嬉しかった。

久遠くおん目録もくろくを開き直した。ページに目を落とし、一行書いた。

「何と書いた」

あさひがいた。

「『完全な静止に、理由なく抗った。記録に値する』」

あさひが鼻で笑った。久遠くおんにしては、感傷的な一文だった。  斬れる敵より、凍る音より、動く理由が消える静けさのほうが、ずっときつい。あさひの言葉に、誰も反論しなかった。反論できる者は、この車内にいなかった。窓の外では、灰色が剥がれ、北の霧が戻り始めていた。その奥に、山の裾野すそのの影が、さっきより近くなっていた。

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