第275話 座標の嵐
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第275話 座標の嵐

第9章 地図の折返し

星野ほしの停車場ていしゃじょうに、北へ向かう霧列車きりれっしゃが現れたのは、鍛冶場かじばから戻った翌朝だった。定期便のない北の鉄路で、乗るべき者の前にだけ、列車は来る。目指すのはさらに北——神々の脈が指し続ける、山の方角だった。

列車が止まった。

止まったのではなかった。進めなくなった。窓の外が灰色に塗り変わり、車体が振動し、座席がきしむ。車輪が線路の上で空転くうてんする高い音がした。金属と金属が噛み合わずに滑る、耳の奥に刺さるような音。

「またかげか」

あさひが立ち上がりかけて、止まった。窓の外を見ている。目を細め、何かを見定めようとしている。

灰色ではなかった。今度は白い。窓の外が真白で、何も見えない。灰色のかげ中心ちゅうしんを通ったときとは違う。あのときは色が失われた。今度は色どころか、形が失われている。輪郭りんかくがない。遠近がない。窓の外が、どこまでも均一な白で満たされていた。

座標ざひょうの嵐だ」

久遠くおん目録もくろくを開いた。ページの上を金色の筋が激しく明滅している。明滅の周期が不規則で、久遠くおん義眼ぎがんが筋を追いきれていない。

「前に通った座標ざひょうのずれとは規模が違う。局所的なずれではなく、この一帯の座標ざひょうそのものが回転している」

「回転?」

「東が北になり、北が下になる。方角が固定されていない。だからこの白だ。空間の上下左右が一定しないから、目が何も捉えられない」

列車が大きく傾いた。座席が滑り、こよいの体が横に投げ出された。床が壁になったような感覚。あさひが片手でこよいの腕をつかみ、もう片手で座席のふちを掴んで二人の体を支えた。あさひの握力が腕に食い込む。痛いが、その痛みが今ここにいる証だった。

こよいは巾着きんちゃくを胸に押し当てた。神々が暴れている。北を向こうとしているが、北がどこか分からない。脈動が四方に散り、集まり、また散る。巾着きんちゃくの布越しに、光が不規則に明滅していた。

「方角が分からない。神々が迷ってる」

久遠くおん目録もくろくの金色の筋を見た。筋も同じだった。一方向を指せずに、ページの上で円を描いている。円の速度が上がったり落ちたりしている。

原本げんぽんの方角が特定できない。嵐が座標ざひょう攪拌かくはんしている」

列車がまた揺れた。今度は上下に。天井に頭をぶつけそうになるほどの衝撃だった。こよいの体が浮き上がり、あさひの腕だけが繋ぎ止めている。窓硝子まどがらすひびが入った。ひび隙間すきまから、白い空気が車内に入ってきた。空気は白い糸のように細く、ゆっくりと車内に垂れ下がった。

白い空気は冷たくなかった。温かくもなかった。触れた瞬間、こよいは指先の感覚が消えたことに気づいた。痛みがない。熱がない。何も感じない。指先が存在しているのかどうかすら、分からなくなった。

「触れるな。座標ざひょうが不確定な空気だ。触れた部分の空間情報が曖昧あいまいになる」

久遠くおん目録もくろくひび隙間すきまふさいだ。目録もくろくの表面が白い空気に触れると、金色の筋が一瞬強く光り、空気を弾いた。白い糸が散り、消えた。

目録もくろく座標ざひょうを持っている。だから弾ける」

あさひがこよいの腕を握ったまま言った。

「つまり、名前を持ってるものは弾けるんだな」

理屈りくつとしてはそうだ」

「じゃあ耐えればいい。名前がある限り、嵐には呑まれない」

列車がまた傾いた。座席が床から浮きかけた。重力の方向が変わっている。天井が下になり、床が横になり、また戻った。体が宙に浮く感覚と、座席に押し付けられる感覚が交互に来る。

こよいは巾着きんちゃくを両手で抱えた。神々の脈動が散り続けている。北が分からない。だが神々は消えていない。散っても散っても、脈動は止まらない。

「ぼくの名前は——」

こよいは言いかけて、止まった。声が出ない。喉の奥に何かが引っかかっている。白い空気の中で息を吸うたびに、肺の中の空間が狭くなっていく。巾着きんちゃくを握る指が震えていた。震えがてのひらから腕へ、腕から肩へ、肩から喉へと伝わっていく。

「——こよい」

白い空気の中に、声が落ちた。声は消えなかった。跳ね返りもしなかった。ただ、こよいの立っている場所の空気が、ほんの少しだけ濃くなった。名前が、自分の周りに小さな重さを作っている。回転していた白が、その重さの周りでだけ、回るのをためらった。

声に出した。理由は分からない。ただ、自分の名前を言いたかった。座標ざひょうが回転する白い空間の中で、自分がどこにいるかを、自分の声で確かめたかった。声が車内に響き、白い空気を押し退けるように広がった。

巾着きんちゃくの脈動が、少し整った。まだ北は分からない。だが散っていた脈動が、こよいの声に反応して、胸の方向に集まった。

「あさひ」

あさひが自分の名前を言った。短く。無造作に。だが、その声が車内の空気を微かに震わせた。声に含まれた名前の重みが、白い空間にいかりを打つように沈んだ。

久遠くおん

久遠くおんも名を告げた。目録もくろくの金色の筋が、三人の名前に反応するように、一瞬だけ方向を定めた。  チリン、と鈴が鳴った。名を声にできないものが、それでも自分の音を持っている。おたまの鈴の一音が、三つの名前の隣に、四つ目のいかりとして沈んだ。

北。

一瞬だけだったが、確かに北を指した。

列車がきしみながら動き始めた。嵐はまだ続いている。白い空間は消えていない。だが列車は、三人の名前が指した北に向かって、少しずつ進み始めていた。

車体は揺れ続けた。座席の下から振動が骨に響く。窓の外は白いままだった。だが三人は座席に座り、名前を繰り返し唱え続けた。列車が揺れるたびに、あさひが剣の柄を握り直し、久遠くおん目録もくろくを胸に抱え直し、こよいが巾着きんちゃくをさらに強く押し当てた。名前の重さで座標ざひょうを一つずつ釘付けにしながら、嵐の白を押し分けて進んだ。

白が薄れ始めたのは、こよいが震える唇で百を数え終わる頃だった。灰色が戻り、灰色の中に線路の影が浮かんだ。窓の外に、きりの底が見えた。

嵐を抜けた。窓の外に、薄い色が戻り始めている。線路の銀色が、きりの底で細く光っていた。

巾着きんちゃくが、深く、一つだけ脈打った。北。もう迷っていなかった。  窓の外の霧の奥に、これまでより高いものの気配があった。まだ形は見えない。だが、そこに山があることを、車内の全員が知っていた。

巾着きんちゃくの中で、神々が一斉に北を向いた。今まで散っていた脈動が、山の方向へ一筋に収束しゅうそくしている。それはただの反応ではなかった。神々が、何かに呼ばれている。

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