星野の停車場に、北へ向かう霧列車が現れたのは、鍛冶場から戻った翌朝だった。定期便のない北の鉄路で、乗るべき者の前にだけ、列車は来る。目指すのはさらに北——神々の脈が指し続ける、山の方角だった。
列車が止まった。
止まったのではなかった。進めなくなった。窓の外が灰色に塗り変わり、車体が振動し、座席が軋む。車輪が線路の上で空転する高い音がした。金属と金属が噛み合わずに滑る、耳の奥に刺さるような音。
「また影か」
あさひが立ち上がりかけて、止まった。窓の外を見ている。目を細め、何かを見定めようとしている。
灰色ではなかった。今度は白い。窓の外が真白で、何も見えない。灰色の影の中心を通ったときとは違う。あのときは色が失われた。今度は色どころか、形が失われている。輪郭がない。遠近がない。窓の外が、どこまでも均一な白で満たされていた。
「座標の嵐だ」
久遠が目録を開いた。頁の上を金色の筋が激しく明滅している。明滅の周期が不規則で、久遠の義眼が筋を追いきれていない。
「前に通った座標のずれとは規模が違う。局所的なずれではなく、この一帯の座標そのものが回転している」
「回転?」
「東が北になり、北が下になる。方角が固定されていない。だからこの白だ。空間の上下左右が一定しないから、目が何も捉えられない」
列車が大きく傾いた。座席が滑り、こよいの体が横に投げ出された。床が壁になったような感覚。あさひが片手でこよいの腕を掴み、もう片手で座席の縁を掴んで二人の体を支えた。あさひの握力が腕に食い込む。痛いが、その痛みが今ここにいる証だった。
こよいは巾着を胸に押し当てた。神々が暴れている。北を向こうとしているが、北がどこか分からない。脈動が四方に散り、集まり、また散る。巾着の布越しに、光が不規則に明滅していた。
「方角が分からない。神々が迷ってる」
久遠が目録の金色の筋を見た。筋も同じだった。一方向を指せずに、頁の上で円を描いている。円の速度が上がったり落ちたりしている。
「原本の方角が特定できない。嵐が座標を攪拌している」
列車がまた揺れた。今度は上下に。天井に頭をぶつけそうになるほどの衝撃だった。こよいの体が浮き上がり、あさひの腕だけが繋ぎ止めている。窓硝子に罅が入った。罅の隙間から、白い空気が車内に入ってきた。空気は白い糸のように細く、ゆっくりと車内に垂れ下がった。
白い空気は冷たくなかった。温かくもなかった。触れた瞬間、こよいは指先の感覚が消えたことに気づいた。痛みがない。熱がない。何も感じない。指先が存在しているのかどうかすら、分からなくなった。
「触れるな。座標が不確定な空気だ。触れた部分の空間情報が曖昧になる」
久遠が目録で罅の隙間を塞いだ。目録の表面が白い空気に触れると、金色の筋が一瞬強く光り、空気を弾いた。白い糸が散り、消えた。
「目録は座標を持っている。だから弾ける」
あさひがこよいの腕を握ったまま言った。
「つまり、名前を持ってるものは弾けるんだな」
「理屈としてはそうだ」
「じゃあ耐えればいい。名前がある限り、嵐には呑まれない」
列車がまた傾いた。座席が床から浮きかけた。重力の方向が変わっている。天井が下になり、床が横になり、また戻った。体が宙に浮く感覚と、座席に押し付けられる感覚が交互に来る。
こよいは巾着を両手で抱えた。神々の脈動が散り続けている。北が分からない。だが神々は消えていない。散っても散っても、脈動は止まらない。
「ぼくの名前は——」
こよいは言いかけて、止まった。声が出ない。喉の奥に何かが引っかかっている。白い空気の中で息を吸うたびに、肺の中の空間が狭くなっていく。巾着を握る指が震えていた。震えが掌から腕へ、腕から肩へ、肩から喉へと伝わっていく。
「——こよい」
白い空気の中に、声が落ちた。声は消えなかった。跳ね返りもしなかった。ただ、こよいの立っている場所の空気が、ほんの少しだけ濃くなった。名前が、自分の周りに小さな重さを作っている。回転していた白が、その重さの周りでだけ、回るのをためらった。
声に出した。理由は分からない。ただ、自分の名前を言いたかった。座標が回転する白い空間の中で、自分がどこにいるかを、自分の声で確かめたかった。声が車内に響き、白い空気を押し退けるように広がった。
巾着の脈動が、少し整った。まだ北は分からない。だが散っていた脈動が、こよいの声に反応して、胸の方向に集まった。
「あさひ」
あさひが自分の名前を言った。短く。無造作に。だが、その声が車内の空気を微かに震わせた。声に含まれた名前の重みが、白い空間に錨を打つように沈んだ。
「久遠」
久遠も名を告げた。目録の金色の筋が、三人の名前に反応するように、一瞬だけ方向を定めた。 チリン、と鈴が鳴った。名を声にできないものが、それでも自分の音を持っている。おたまの鈴の一音が、三つの名前の隣に、四つ目の錨として沈んだ。
北。
一瞬だけだったが、確かに北を指した。
列車が軋みながら動き始めた。嵐はまだ続いている。白い空間は消えていない。だが列車は、三人の名前が指した北に向かって、少しずつ進み始めていた。
車体は揺れ続けた。座席の下から振動が骨に響く。窓の外は白いままだった。だが三人は座席に座り、名前を繰り返し唱え続けた。列車が揺れるたびに、あさひが剣の柄を握り直し、久遠が目録を胸に抱え直し、こよいが巾着をさらに強く押し当てた。名前の重さで座標を一つずつ釘付けにしながら、嵐の白を押し分けて進んだ。
白が薄れ始めたのは、こよいが震える唇で百を数え終わる頃だった。灰色が戻り、灰色の中に線路の影が浮かんだ。窓の外に、霧の底が見えた。
嵐を抜けた。窓の外に、薄い色が戻り始めている。線路の銀色が、霧の底で細く光っていた。
巾着が、深く、一つだけ脈打った。北。もう迷っていなかった。 窓の外の霧の奥に、これまでより高いものの気配があった。まだ形は見えない。だが、そこに山があることを、車内の全員が知っていた。
巾着の中で、神々が一斉に北を向いた。今まで散っていた脈動が、山の方向へ一筋に収束している。それはただの反応ではなかった。神々が、何かに呼ばれている。
