第274話 あさひの鍛冶場
274

第274話 あさひの鍛冶場

第9章 地図の折返し

鍛冶場(かじば)は、星野(ほしの)の森の奥にあった。泥の境の向こうの、あの誰にも記録されていない森ではない。人の暮らしの記憶が残る、こちら側の森だ。  苔(こけ)むした石の壁に囲まれた小屋が、古い木の根元に半ば埋もれるように建っている。屋根の板が朽(く)ちかけ、隙間から蔓(つる)が垂れ下がっていた。蔓(つる)の先に、小さな白い花が一つだけ咲いている。  近づくと、熱が頬を打った。炉(ろ)の熱だ。壁の石の隙間から、赤い光が漏れていた。中で火が燃えている。誰も焚(く)べていないはずの火が。

「……ここ、誰が使ってるの?」

こよいが訊くと、久遠(くおん)は目録(もくろく)を開かずに言った。

「使ってない。……残ってるだけだ。記録として」

記録としての炉(ろ)の火。かつて鍛冶師(かじし)がここで何かを打った記憶が、火の形で残り続けている。消えるべき火が消えない。それは記録が生きている証だった。

あさひは迷わず扉を押した。木の扉は蝶番(ちょうつがい)が錆(さ)びていたが、あさひの力で軋(きし)みながら開いた。

中には、金床(かなとこ)と、槌(つち)と、冷えた水桶(みずおけ)。  あさひの足が、敷居の上で一瞬だけ止まった。  道具の置き方に、見覚えがあったのだ。金床の向き。槌の掛け方。水桶の位置。——師匠の鍛冶場と、同じ流儀だった。山の鍛冶はどこでも同じ並べ方をするのか。それとも。あさひは何も言わず、その先を考えるのをやめた顔で、中へ入った。  そして、壁に掛けられた無数の札。

札は道標(みちしるべ)じゃない。名前だ。  短い名前。削れかけた名前。一枚ずつが異なる筆跡で書かれている。鍛冶場(かじば)を訪れた者たちが、自分の名前を壁に残していった。札の木は乾き切って白くなっているが、墨(すみ)の黒だけがくっきりと残っていた。

あさひが剣を抜き、刃を金床(かなとこ)に置いた。

「……直す」

久遠(くおん)が眉を寄せる。

「ここで?」

「ここで。……俺の剣は、名前で重くなる。だから、名前で焼き直す」

あさひは札を一枚、両手で外した。壁から離すとき、木の裏側に小さな虫食いの穴があった。札は古い。だが名前の文字だけは、虫にも食われずに残っている。  炉(ろ)の火に、札をかざした。燃やすためではない。温めるために。  すると札の文字が淡く光り、光の一筋だけが札を離れて、刃へ流れた。名前そのものは、札に残ったままだった。名前が、光を貸したのだ。この鍛冶場を使う者に力を貸すために、訪れた者たちが札を残していった——そういう仕組みなのだと、あとから久遠(くおん)が言った。  光が金属の表面を走り、亀裂(きれつ)の底に沈んでいった。あさひは札を、元の壁の、元の釘に、丁寧に戻した。

こよいは息を呑(の)んだ。

「そんなこと、できるんだ」

あさひは槌(つち)を握り、金床(かなとこ)に横たえた刃の峰(みね)を、静かに叩いた。強打ではない。歪みを起こさない、確かめるような軽い打ち。

乾いた音。音が、霧(きり)を切る。  叩くたびに、刃の上の線が少しだけ整う。  迷いの線が、道の線に変わっていく。一打ごとに、鋼(はがね)の中の歪(ひず)みが伸ばされ、名前の光が均一に広がっていく。

久遠(くおん)が小さく言った。

「鍛冶場(かじば)は、武器を作る場所じゃない。……意志を形にする場所だ」

こよいは巾着(きんちゃく)を抱えた。  神々が、炉(ろ)の熱に反応して、少しだけ温もりを増す。名前たちが炉(ろ)の火に共鳴(きょうめい)している。壁の札の名前と、巾着(きんちゃく)の中の名前が、同じ熱に触れて脈動を揃えた。

あさひは槌(つち)を置いた。

剣を持ち上げ、刃を見る。  わずかに軽く見えた。軽いのではない。重さの向きが、揃(そろ)ったのだ。今まで四方に散っていた重心が、刃の中心線に寄った。振ったとき、手に返る力が変わるだろう。

だが、あさひは首を振った。

「……違うな」

刃を金床(かなとこ)に戻す。

久遠(くおん)が訊いた。

「不満か」

「不満じゃねえ。こいつが、まだ決めてない」

あさひは剣の刃に指を添えた。  罅(ひび)の奥に、結晶が覗(のぞ)いている。名前を吸った結晶が、微かに光を帯びていた。  光は脈打つように明滅する。一定のリズムではなく、迷っているような不規則な明滅だった。

まだ形が定まっていない。

この鍛冶場(かじば)は古かった。  壁の石は観測者(かんそくしゃ)が記録を始めるよりも前から積まれている。  金床(かなとこ)の角が丸く磨り減り、槌(つち)の柄(え)には無数の手の跡が刻まれていた。何人もの鍛冶師(かじし)が、同じ槌(つち)を握り、同じ金床(かなとこ)を叩いてきた。その手の跡が柄(え)の木を削り、持ち手の形を変えてきた。あさひが握った槌(つち)は、無数の手の記憶を宿した道具だった。

あさひは槌(つち)を置いたまま、炉(ろ)の前に座った。

叩くのをやめ、ただ聴いた。

炉(ろ)の熱が、金床(かなとこ)を通して剣に伝わっている。  振動がある。微かだが確かに。  鍛冶場(かじば)が語りかけるように、熱と振動で刃を包んでいた。炉(ろ)の火が揺れ、その揺れに合わせて剣の結晶が明滅する。火と結晶が、言葉のない会話を交わしていた。

「……こいつは、直すもんじゃなかった」

あさひが低く言った。

「壊れたんじゃねえ。変わりかけてるんだ。前の形が終わって、次の形が始まる途中だ」

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を細めた。

「剣が、自分で形を選ぶと?」

「俺が決めることじゃねえ。こいつが決めるまで、俺は待つだけだ」

あさひは剣を金床(かなとこ)から持ち上げ、丁寧に布で巻いた。布が鋼(はがね)に触れるたびに、かすかな熱が指先を伝った。炉(ろ)の火が映り込んだ刃の表面に、名前の光の残像がちらついている。  罅(ひび)の奥の結晶が、まだ脈打っている。  完成していない。だが、壊れてもいない。

「まだ早い。こいつが決めるまで待つ」

炉(ろ)の前では、おたまが香箱(こうばこ)を組んでいた。誰も焚(く)べない火の、いちばん温かい距離を正確に選んで。猫は最初からこの場所を知っていたような顔で、赤い光に目を細めていた。あさひが戸口へ向かうと、猫は名残惜しげに一度だけ火を振り返り、それから静かに立ち上がった。

あさひは剣を背に負い、鍛冶場(かじば)を出た。

振り返らなかった。剣は打ち直されなかった。けれど、無駄足ではなかった。迷いの線が道の線に変わる感触を、あさひの腕は覚えた。次にここへ来るときは、剣が形を決めたときだ。

炉(ろ)の火は、誰も焚(く)べていないのに消えなかった。赤い光が石壁に揺れ、鍛冶場(かじば)の影を深くしている。  次の鍛冶師(かじし)が来るまで、待っているように。

お読みいただきありがとうございます

4つの小説投稿サイトでお読みいただけます