森の入口から星野へ戻ったのは、日暮れだった。 昼には空に見えた家並みの一つに、夕刻、灯が点っていた。名を半分手放した宿の主が、何も訊かずに三人を泊めてくれた。姿が見えにくいだけで、暮らしは続いていたのだ。 そして、朝——
泥だった。
星野の地面が、朝の日差しで緩んでいた。凍っていた表層が溶け、黒い土が露出している。こよいは宿の戸口に立ち、その光景を眺めた。砂でも岩でもない。水を含んだ土。靴底で踏めば、じわりと沈む種類の地面。
通りの向こうで、影が動いた。
「……久遠くん、あれ」
「見えている」
久遠は宿の柱に背を預け、目録を膝に広げていた。義眼が微かに蒼く灯る。
影の人たちが、泥の上に集まっていた。
星野に残る住人の多くは、もう輪郭が薄い。名前を半分失った者、声を手放した者、身体の一部が透けている者。それでも彼らは、泥の上に円を描くように並び、足を踏み鳴らし始めた。
音はなかった。
踏み鳴らしているはずの足が地面を叩く音が、こよいの耳に届かない。影の人たちは確かに動いている。泥を跳ね上げ、腕を振り、身体を回している。だが音だけが、欠けていた。
「祝祭だ」
宿の主が後ろから声をかけた。老婆の声は掠れていたが、芯がある。
「地が緩む日に踊る。昔からそうだった。名前があった頃も、なくなってからも」
「音が聞こえないんですけど」
「声と一緒に持っていかれたからね。でも足は残った。足があるうちは踊れる」
老婆はそれだけ言って、奥に引っ込んだ。
こよいは戸口から一歩出た。靴の下で泥がぬるりと動く。朝の光が泥の表面を照らし、黒い土の粒が一つひとつ光を含んで輝いていた。その感触に、胸の奥が震えた。巾着が微かに唸る。低い、遠い振動。聞こえるか聞こえないかの境にある音。
あさひが宿の壁に寄りかかったまま、腕を組んで見ていた。
「行くのか」
「行く」
こよいは靴を脱いだ。
裸足で泥を踏んだ瞬間、温かさが足裏から上がってきた。地表の泥は冷たいはずだった。だが数寸の深さに、確かな熱がある。地中の奥の、何かが生きている温度。星野の木々の根が張り巡らされた、その下の層から立ち昇る熱。
こよいは影の人たちの輪に入った。
誰も驚かなかった。透けた顔がこよいを見たが、拒みもせず、招きもしなかった。輪郭の薄い瞳が、光を通して向こう側の景色を映している。ただ踊りの輪が少し広がって、一人分の隙間ができた。
こよいは足を踏んだ。
泥が跳ねた。巾着が震えた。今度は聞こえた——小さな音。こよいの足だけが、泥を踏む音を出している。影の人たちの無音の踊りの中に、ひとつだけ、湿った音が混じった。
それだけのことだった。だが影の一人が、口の形だけで笑った。 チリン、と続いて鈴が鳴った。おたまが輪の中へ入ってきたのだ。泥を踏んでも猫の足は音を立てないのに、首の小鈴だけが、踊りの拍に合わせて鳴る。こよいの足音と、おたまの鈴。無音の祝祭に、音が二つになった。影の人たちの踊りが、心なしか少しだけ速くなった。
久遠は目録を開いたまま、その光景を記録していた。文字ではなく、線で。影の人たちの足の軌跡を、円と弧の連なりとして写し取っていく。義眼の蒼光が一定の間隔で明滅する。
「記録するのか」
「形を残す。音がなくても形は在る。それが目録の仕事だ」
久遠の筆が止まらない。頁の端に日付を入れ、気温と湿度を書き添える。泥の色、影の濃さ、踊りの速度。久遠にとって祝祭とは、観測すべき事象だった。それは冷たさではなく、久遠なりの敬意だとこよいは知っている。
泥の中で踊りながら、こよいはあさひの方を見た。
あさひは壁に寄りかかったまま動かない。腕を組み、片足を壁に立てかけ、表情を読ませない顔で輪を見ている。
長い時間が過ぎた。
影の人たちの踊りが緩やかになり、輪が少しずつ崩れ始めた頃だった。あさひが壁から背を離した。三歩、歩いた。泥の手前で止まった。
こよいは見ていた。久遠も筆を止めて見ていた。
あさひは右足を持ち上げ、一度だけ、泥の上に強く踏み下ろした。
べちゃり、と盛大な音がした。泥が飛び散って、あさひの脛を汚した。
「参加」
一言だけ言って、あさひは踵を返した。壁に戻り、また腕を組んだ。それだけだった。
だが影の人たちの輪が、一瞬だけ揺れた。無音のまま、身体を揺らすように。笑っているのだと、こよいは思った。
巾着の中の神々が、泥の熱に呼応するように、ゆっくりと脈打っていた。
久遠は目録に一行だけ書き足した。
「……何て書いたの」
「事実だ。『あさひ、参加。一歩。以上。』」
こよいは泥だらけの足で笑った。星野の空は、砂の道では見えなかった色をしていた。雲が白い。ただ白いだけの雲が、こんなに美しいとは思わなかった。
空の色が橙に傾き始めた頃、泥の表面に長い影が伸びた。こよいの影と影の人たちの影が重なり、区別がつかなくなる瞬間があった。
泥の祝祭は、日が傾く前に静かに終わった。影の人たちは一人、また一人と輪を離れ、通りの奥へ消えていった。足跡だけが泥の上に残り、夕方の風が少しずつそれを均していく。
こよいは宿の水甕で足を洗い、靴を履き直した。足裏にまだ泥の温かさが残っている。地面の下の、生きているものの温度。
「明日も踊るのかな」
「知るか。だが泥は明日も緩んでるだろ」
あさひの声に、棘がなかった。
こよいは戸口から、均されていく足跡を見ていた。無数の薄い足跡の中に、こよいの足跡と、あさひの一歩と——足跡のない鈴の音の記憶が混じっている。名前を半分失っても、足は残った。足が残っているうちは、踊れる。老婆の言葉が、泥の温かさと一緒に、足裏にまだ残っていた。 地の底では、あの心臓が脈打ち続けている。祝祭の足踏みは、あの鼓動への返事だったのかもしれない。
