第270話 泥の境
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第270話 泥の境

第9章 地図の折返し

その境界きょうかいも、線としては見えなかった。  海図のかいずのまちの港で渡った、あの水の境と同じように。けれど足裏は、確かに線を踏んだ。

締まった土の道が、ある地点から急に色を失う。  灰色は銀に寄り、銀は白へ寄る。  色の変化はゆっくりなのに、体の感覚だけが急に切り替わる。

息が変わる。吸う空気の密度が違う。南の空気は重く湿っていたが、ここでは乾いて軽い。肺に入る空気の量が増えた気がした。

影の濃さが変わる。足元に落ちる自分の影が、一歩前と比べて薄くなっている。光源が変わったのではない。影そのものの密度が下がっている。

音の反響が、違う場所のものになる。靴底が地面を叩く音の残響が、壁のない空間に吸い込まれていく。

久遠くおんは歩幅を変えずに、数を数えていた。足を運ぶたびに、唇だけが微かに動く。

「……三百」

こよいはその数字に、理由もなく背筋が伸びた。

「何かあるの?」

「あるさ。節目ふしめってのは、ことわりが好きな言葉だ。……ここは、折り返しの折り返しだ。境界きょうかいの厚みが、いちばん薄い」

あさひが足を止め、靴のかかとで地面を強く踏み鳴らした。

くぐもった音がした。布包みの剣の先が石に触れた瞬間、音が地面を伝って遠くへ走り、きりの奥で消えた。南では壁に当たって返ってきた音が、ここではどこまでも真っ直ぐ飛んでいく。

「薄いなら、切れるってことか」

「切れるし、切られる」

久遠くおんの声は冷たかった。義眼ぎがん蒼光そうこうが一瞬だけ強くともり、境界きょうかいの空気を走査そうさした。何かを確認して、光を落とした。

こよいは巾着きんちゃくを抱え、神々の温もりに耳を澄ませた。

神々は、いつもよりゆっくり脈打っている。  怖がっているのではない。

慎重になっている。脈動の間隔が広がり、一打ごとの温もりが深くなっていた。速く打つのではなく、一つずつを確かめるように、丁寧に脈を刻んでいる。

境界きょうかいの上に立つと、空が少しだけ近く見えた。  近いのに、触れない。  なのに、触れてくる。きりの粒子が肌に当たる感触が、南とは違う。当たるというより、馴染もうとしている。肌の表面で弾かれるのではなく、毛穴の一つ一つにみ込んでくるような感触。

「……帰れる境界きょうかいじゃないんだね」

こよいが言うと、あさひは鼻で笑った。

「帰るための線じゃない。越えるための線だ」

久遠くおん目録もくろくを開かずに、胸の上を指でなぞった。目録もくろくの中の金色の筋の位置を、布越しに確かめている。筋が強く脈動しているのが、指先に伝わっているはずだった。

「俺たちは、線を渡る。線の向こうで、名前を拾う。……それだけだ」

こよいは頷いた。

境界きょうかいは見えない。  だからこそ、越えた事実だけが残る。

三人は同じタイミングで、次の一歩を踏み出した。誰が合図したわけでもない。ただ三人の呼吸が、その瞬間だけ揃った。

足裏の感触が変わった。

土の道が尽きた先、境界の帯そのものは、黒い泥だった。凍りかけては緩む、どちらつかずの泥。靴が沈み、引き抜くたびに重い音が返る。泥の境——名のないこの境界を、こよいは胸の中でそう呼んだ。  泥の帯を渡りきると、今度は柔らかく湿った腐葉土ふようどが、靴底を包むように沈んだ。踏みしめるたびに、土の中に閉じ込められていた匂いが立ち上る。枯れた葉と、水と、微生物の息遣い。生きている場所の匂いだった。

木が増えている。

銀灰色だった幹が、ここでは暗い緑のこけおおわれていた。こけの表面に水滴が並び、光を含んで小さな宝石のように光っている。  枝には葉がある。南では一度も見なかった、生きた葉だ。  薄く透ける葉脈ようみゃくが、名前の光を受けて微かに輝いている。

「……森だ」

こよいが息をんだ。

銀灰色の荒野しか知らない目には、それだけで異界に映った。  木と木の間に闇が溜まり、奥へ行くほど幹が太く、根が複雑に絡み合っている。根の表面にもこけが生え、地面と根の境界が分からないほどに融合ゆうごうしていた。

久遠くおん目録もくろくを開いた。

ページをめくる。もう一頁ページ。もう一頁ページ。紙が擦れる音が、森の静寂に小さく響いた。

手が止まった。

「……白い」

開いたページに、何も書かれていなかった。  金色の筋は走っている。ページは生きている。  だが文字がない。記録がない。

久遠くおんページてのひらを当てた。

「温かい」

義眼ぎがんを細める。蒼光そうこうが白いページを照らすと、紙の繊維せんいの一本一本が金色に縁取られて浮かび上がった。書かれるのを待っている紙。

「死んだページじゃない。書かれる前のページだ。……ここから先は、まだ誰にも記録されていない」

あさひが腰の大剣に手を添えた。  抜くためではない。

剣が震えている。

微かに、だが確かに。つかを通しててのひらに伝わる振動が、足裏から伝わる地面の振動と同じ周波数しゅうはすうだった。

「こいつ、地面と話してやがる」

あさひが低く言った。

こよいは巾着きんちゃくを胸に押し当てた。

神々が脈打っている。  だが、いつもの訴えかけるような脈動ではなかった。

もっと深い。もっと遅い。

何かと合わせている。

地面の下から、何かが脈打っていた。  鼓動のような律動りつどう。遠く、深く、だが確かに。  巾着きんちゃくの中の神々が、その律動りつどうと同期していた。

「……心臓だ」

こよいがささやいた。

「この森の下に、何かの心臓がある」

久遠くおんは白いページを閉じなかった。  あさひは剣から手を離さなかった。

だが、今日はここまでだった。

「日が落ちる。誰にも記録されていない森に、夜のうちに入るのは自殺だ」

久遠くおんが言い、あさひもうなずいた。入口は見つけた。地の底の心臓の律動りつどうも、神々が覚えた。本当に踏み込むのは、支度を整えてからだ。  三人は森の入口に小さな石を三つ積み、来た道を星野ほしのの家並みへ引き返した。  おたまだけが、しばらく森の奥を見ていた。呼ばれているような、確かめているような目だった。  背中の奥で、地の底の鼓動が、ずっと続いていた。名前のない神の領域は、そこで待っている。

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