その境界も、線としては見えなかった。 海図の町の港で渡った、あの水の境と同じように。けれど足裏は、確かに線を踏んだ。
締まった土の道が、ある地点から急に色を失う。 灰色は銀に寄り、銀は白へ寄る。 色の変化はゆっくりなのに、体の感覚だけが急に切り替わる。
息が変わる。吸う空気の密度が違う。南の空気は重く湿っていたが、ここでは乾いて軽い。肺に入る空気の量が増えた気がした。
影の濃さが変わる。足元に落ちる自分の影が、一歩前と比べて薄くなっている。光源が変わったのではない。影そのものの密度が下がっている。
音の反響が、違う場所のものになる。靴底が地面を叩く音の残響が、壁のない空間に吸い込まれていく。
久遠は歩幅を変えずに、数を数えていた。足を運ぶたびに、唇だけが微かに動く。
「……三百」
こよいはその数字に、理由もなく背筋が伸びた。
「何かあるの?」
「あるさ。節目ってのは、理が好きな言葉だ。……ここは、折り返しの折り返しだ。境界の厚みが、いちばん薄い」
あさひが足を止め、靴の踵で地面を強く踏み鳴らした。
くぐもった音がした。布包みの剣の先が石に触れた瞬間、音が地面を伝って遠くへ走り、霧の奥で消えた。南では壁に当たって返ってきた音が、ここではどこまでも真っ直ぐ飛んでいく。
「薄いなら、切れるってことか」
「切れるし、切られる」
久遠の声は冷たかった。義眼の蒼光が一瞬だけ強く灯り、境界の空気を走査した。何かを確認して、光を落とした。
こよいは巾着を抱え、神々の温もりに耳を澄ませた。
神々は、いつもよりゆっくり脈打っている。 怖がっているのではない。
慎重になっている。脈動の間隔が広がり、一打ごとの温もりが深くなっていた。速く打つのではなく、一つずつを確かめるように、丁寧に脈を刻んでいる。
境界の上に立つと、空が少しだけ近く見えた。 近いのに、触れない。 なのに、触れてくる。霧の粒子が肌に当たる感触が、南とは違う。当たるというより、馴染もうとしている。肌の表面で弾かれるのではなく、毛穴の一つ一つに沁み込んでくるような感触。
「……帰れる境界じゃないんだね」
こよいが言うと、あさひは鼻で笑った。
「帰るための線じゃない。越えるための線だ」
久遠は目録を開かずに、胸の上を指でなぞった。目録の中の金色の筋の位置を、布越しに確かめている。筋が強く脈動しているのが、指先に伝わっているはずだった。
「俺たちは、線を渡る。線の向こうで、名前を拾う。……それだけだ」
こよいは頷いた。
境界は見えない。 だからこそ、越えた事実だけが残る。
三人は同じタイミングで、次の一歩を踏み出した。誰が合図したわけでもない。ただ三人の呼吸が、その瞬間だけ揃った。
足裏の感触が変わった。
土の道が尽きた先、境界の帯そのものは、黒い泥だった。凍りかけては緩む、どちらつかずの泥。靴が沈み、引き抜くたびに重い音が返る。泥の境——名のないこの境界を、こよいは胸の中でそう呼んだ。 泥の帯を渡りきると、今度は柔らかく湿った腐葉土が、靴底を包むように沈んだ。踏みしめるたびに、土の中に閉じ込められていた匂いが立ち上る。枯れた葉と、水と、微生物の息遣い。生きている場所の匂いだった。
木が増えている。
銀灰色だった幹が、ここでは暗い緑の苔に覆われていた。苔の表面に水滴が並び、光を含んで小さな宝石のように光っている。 枝には葉がある。南では一度も見なかった、生きた葉だ。 薄く透ける葉脈が、名前の光を受けて微かに輝いている。
「……森だ」
こよいが息を呑んだ。
銀灰色の荒野しか知らない目には、それだけで異界に映った。 木と木の間に闇が溜まり、奥へ行くほど幹が太く、根が複雑に絡み合っている。根の表面にも苔が生え、地面と根の境界が分からないほどに融合していた。
久遠が目録を開いた。
頁をめくる。もう一頁。もう一頁。紙が擦れる音が、森の静寂に小さく響いた。
手が止まった。
「……白い」
開いた頁に、何も書かれていなかった。 金色の筋は走っている。頁は生きている。 だが文字がない。記録がない。
久遠は頁に掌を当てた。
「温かい」
義眼を細める。蒼光が白い頁を照らすと、紙の繊維の一本一本が金色に縁取られて浮かび上がった。書かれるのを待っている紙。
「死んだ頁じゃない。書かれる前の頁だ。……ここから先は、まだ誰にも記録されていない」
あさひが腰の大剣に手を添えた。 抜くためではない。
剣が震えている。
微かに、だが確かに。柄を通して掌に伝わる振動が、足裏から伝わる地面の振動と同じ周波数だった。
「こいつ、地面と話してやがる」
あさひが低く言った。
こよいは巾着を胸に押し当てた。
神々が脈打っている。 だが、いつもの訴えかけるような脈動ではなかった。
もっと深い。もっと遅い。
何かと合わせている。
地面の下から、何かが脈打っていた。 鼓動のような律動。遠く、深く、だが確かに。 巾着の中の神々が、その律動と同期していた。
「……心臓だ」
こよいが囁いた。
「この森の下に、何かの心臓がある」
久遠は白い頁を閉じなかった。 あさひは剣から手を離さなかった。
だが、今日はここまでだった。
「日が落ちる。誰にも記録されていない森に、夜のうちに入るのは自殺だ」
久遠が言い、あさひも頷いた。入口は見つけた。地の底の心臓の律動も、神々が覚えた。本当に踏み込むのは、支度を整えてからだ。 三人は森の入口に小さな石を三つ積み、来た道を星野の家並みへ引き返した。 おたまだけが、しばらく森の奥を見ていた。呼ばれているような、確かめているような目だった。 背中の奥で、地の底の鼓動が、ずっと続いていた。名前のない神の領域は、そこで待っている。
