第272話 封印の井戸
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第272話 封印の井戸

第9章 地図の折返し

翌朝、三人は泥を落とした靴で宿を出た。久遠くおん目録もくろくに残る細い線を追い、朝霧の町を西へ抜ける。線は、星野ほしのの外れにある一つの井戸いどで止まった。かつて降りた月影井戸とは別の、こけに隠れた古井戸だった。

その井戸には、ふたがなかった。  ふたどころか、氷もなかった。土のくぼみの中に、水が溜まっていた。  透明な水。

石組みのふちはあるが、氷はない。ふちの石はこけに覆われ、角が丸く削れている。何百年もの雨を受けてきた石の、穏やかな形だった。  水面に薄い湯気が立っている。白い湯気が空気に溶けていく速度が遅く、水面の上に薄いきりの層を作っていた。

「温かい」

こよいが縁に膝をついた。膝の下のこけが冷たく湿っているのに、井戸いどの方からは確かに温もりが上がってくる。

水面に手をかざすと、湯気が指先に触れた。  温かい。体温よりは低いが、冬の朝に手に息を吹きかけたときの温もりに似ている。

名前を凍結とうけつする井戸いどのはずなのに、ここには氷がない。

凍結とうけつが完全に解けている」

久遠くおん義眼ぎがんで水面を照らした。  蒼光そうこうが水の中を透過し、底まで届いた。水が澄んでいるから、蒼い光が底まで一直線に落ちていく。  底は浅い。

腕を伸ばせば届くほどだった。底に、光が見えた。名前だった。  だが、凍りついていない。

水の中を、ゆっくりと動いている。  光の粒が底に沈んだり浮かんだりしながら、緩やかに回っていた。回る軌道は一定ではなく、一つ一つが気ままにただよっている。魚のように。

「泳いでる」

こよいが水面を覗き込んだ。水面に顔が映り、その奥に光が揺れている。自分の顔と名前の光が、薄い水の層を隔てて重なった。  光の粒は十ほどあった。

それぞれが違う色を持ち、違う速度で動いている。淡い金、薄い青、かすかなあけ。色の違いは名前の違いなのだと、こよいは直感した。  一つが水面近くまで浮き上がり、また沈んだ。浮き上がるとき、光が一瞬だけ強くなる。

「自由に動いている。だが、出られない」

久遠くおんが水面の縁を見た。

石組みの内側に、微かな文字が刻まれている。  古い文字だった。こけの下に隠れるように刻まれ、蒼光そうこうを当てなければ見えない。文字の線は細く、刃物ではなく、硬い爪のようなもので刻まれていた。

封印ふういんだ。水からは出られない。氷がなくても、石の文字が名前を留めている。だが、凍結とうけつはされていない。生きたまま、ここにいる」

巾着きんちゃくが激しく脈打った。

こよいは驚いて巾着きんちゃくに手を当てた。  神々が暴れていた。

熱い。

今まで感じたことのない強さで脈動している。脈動が手のひらを叩くように伝わり、指先まで振動が走った。  布越しに光が漏れていた。巾着きんちゃくの縫い目から細い金色の光が溢れ、井戸いどの水面を照らしている。

「知ってる。この子たち、この名前を知ってる」

井戸いどの中の光の粒が、巾着きんちゃくの光に反応した。  一斉に水面に浮き上がり、巾着きんちゃくの方を向いた。  向く、という表現が正しいのかは分からない。

だが、光が巾着きんちゃくの方角に集まった。十の光が一つの方向に揃い、水面の直下で密集している。

「呼び合ってる」

あさひが井戸いどを見下ろしていた。光の粒が水面の直下で揺れている。  巾着きんちゃくの光も揺れている。

同じ周期だった。

こよいは巾着きんちゃくの口を少し開けた。  神々の光が細い筋になって溢れ、井戸いどの水面に触れた。水面が波立った。光の粒が一つ、水面を突き破ろうとした。水が盛り上がり、光の球が薄い水のまくを押し上げる。  一瞬だけ、薄い光の球が水の上に現れた。

だが石の文字が光り、名前は引き戻された。文字の光は冷たい白で、神々の金色とは全く異なる色だった。

「出たがってる」

こよいの声が震えた。

「出してあげたい」

「駄目だ」

久遠くおんの声が硬かった。

「ここはことわりの保護がない。封印ふういんの外に出れば、名前は散逸さんいつする。凍結とうけつされていないということは、保護もないということだ。空気に溶けて消える」

こよいは巾着きんちゃくの口を閉じた。  光の筋が途絶え、井戸いどの中の名前がゆっくりと底に沈んでいった。一つずつ、順番に。最後の一つが沈むまで、こよいは井戸いどの縁から目を離さなかった。  巾着きんちゃくの脈動も徐々に収まったが、温もりは高いままだった。

「でも、ここにいても——」

「ここにいれば、少なくとも存在し続ける。石の封印ふういんが持つ限りは」

久遠くおんは石組みの文字を読んだ。  義眼ぎがんが細かく動いた。一文字ずつを丁寧に追い、筆跡ひっせきの特徴を記録している。

「この封印ふういんを刻んだのは——」

久遠くおんの声が止まった。

蒼光そうこうが強くなり、文字を何度も照らし直した。確認するように。信じられないものを見たときの、久遠くおんの癖だった。

「最初の神だ。この封印ふういんの文字は、経蔵きょうぞうの原本と同じ筆跡ひっせきだ」

あさひが腕を組んだ。

「最初の神がここに来たのか」

「来た。そして、この名前たちを封印ふういんした。凍結とうけつではなく、封印ふういん。殺さずに留めた。なぜだ」

久遠くおんは自分に問いかけるように呟いた。

おたまが縁石に前脚をかけ、首を伸ばして——水を、ひと舐めした。  こよいが止める間もなかった。だが、何も起きなかった。波紋が一つ広がり、底の光たちがその波紋に集まって、猫の舌が作った小さな揺れの中で、くるくると回った。怖がっていない。じゃれている。封印の水は、猫ののどを普通の水のように潤して、それきりだった。

「……この井戸、怒らないんだ」

こよいが言うと、久遠くおんは「猫だからな」とも「猫でも、か」ともつかない顔で、記録の筆を走らせた。

こよいは井戸いどの水面を見つめた。  光の粒が底で静かに回っている。  温かい水の中で、凍りもせず、消えもせず、ただ留められている。最初の神は、この名前たちを守ったのかもしれない。

凍結とうけつすれば堅い氷に閉じ込められる。  散逸さんいつすれば消える。

どちらでもない場所として、この温かい水の中に留めた。巾着きんちゃくの中で、雨の神が一つ、ゆっくりと脈打った。悲しいのか、安心しているのか、分からない温もりだった。

こよいは石の文字を指でなぞり、巾着きんちゃく四柱よはしらに場所を覚えていてと頼んだ。今、封印ふういんを壊せば名前たちが消える。それなら、散逸さんいつさせずに連れ出す方法を見つけて、必ず戻る。  雨の神の脈が、今度は迷わず一度だけてのひらを叩いた。

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