翌朝、三人は泥を落とした靴で宿を出た。久遠の目録に残る細い線を追い、朝霧の町を西へ抜ける。線は、星野の外れにある一つの井戸で止まった。かつて降りた月影井戸とは別の、苔に隠れた古井戸だった。
その井戸には、蓋がなかった。 蓋どころか、氷もなかった。土の窪みの中に、水が溜まっていた。 透明な水。
石組みの縁はあるが、氷はない。縁の石は苔に覆われ、角が丸く削れている。何百年もの雨を受けてきた石の、穏やかな形だった。 水面に薄い湯気が立っている。白い湯気が空気に溶けていく速度が遅く、水面の上に薄い霧の層を作っていた。
「温かい」
こよいが縁に膝をついた。膝の下の苔が冷たく湿っているのに、井戸の方からは確かに温もりが上がってくる。
水面に手をかざすと、湯気が指先に触れた。 温かい。体温よりは低いが、冬の朝に手に息を吹きかけたときの温もりに似ている。
名前を凍結する井戸のはずなのに、ここには氷がない。
「凍結が完全に解けている」
久遠が義眼で水面を照らした。 蒼光が水の中を透過し、底まで届いた。水が澄んでいるから、蒼い光が底まで一直線に落ちていく。 底は浅い。
腕を伸ばせば届くほどだった。底に、光が見えた。名前だった。 だが、凍りついていない。
水の中を、ゆっくりと動いている。 光の粒が底に沈んだり浮かんだりしながら、緩やかに回っていた。回る軌道は一定ではなく、一つ一つが気ままに漂っている。魚のように。
「泳いでる」
こよいが水面を覗き込んだ。水面に顔が映り、その奥に光が揺れている。自分の顔と名前の光が、薄い水の層を隔てて重なった。 光の粒は十ほどあった。
それぞれが違う色を持ち、違う速度で動いている。淡い金、薄い青、かすかな朱。色の違いは名前の違いなのだと、こよいは直感した。 一つが水面近くまで浮き上がり、また沈んだ。浮き上がるとき、光が一瞬だけ強くなる。
「自由に動いている。だが、出られない」
久遠が水面の縁を見た。
石組みの内側に、微かな文字が刻まれている。 古い文字だった。苔の下に隠れるように刻まれ、蒼光を当てなければ見えない。文字の線は細く、刃物ではなく、硬い爪のようなもので刻まれていた。
「封印だ。水からは出られない。氷がなくても、石の文字が名前を留めている。だが、凍結はされていない。生きたまま、ここにいる」
巾着が激しく脈打った。
こよいは驚いて巾着に手を当てた。 神々が暴れていた。
熱い。
今まで感じたことのない強さで脈動している。脈動が手のひらを叩くように伝わり、指先まで振動が走った。 布越しに光が漏れていた。巾着の縫い目から細い金色の光が溢れ、井戸の水面を照らしている。
「知ってる。この子たち、この名前を知ってる」
井戸の中の光の粒が、巾着の光に反応した。 一斉に水面に浮き上がり、巾着の方を向いた。 向く、という表現が正しいのかは分からない。
だが、光が巾着の方角に集まった。十の光が一つの方向に揃い、水面の直下で密集している。
「呼び合ってる」
あさひが井戸を見下ろしていた。光の粒が水面の直下で揺れている。 巾着の光も揺れている。
同じ周期だった。
こよいは巾着の口を少し開けた。 神々の光が細い筋になって溢れ、井戸の水面に触れた。水面が波立った。光の粒が一つ、水面を突き破ろうとした。水が盛り上がり、光の球が薄い水の膜を押し上げる。 一瞬だけ、薄い光の球が水の上に現れた。
だが石の文字が光り、名前は引き戻された。文字の光は冷たい白で、神々の金色とは全く異なる色だった。
「出たがってる」
こよいの声が震えた。
「出してあげたい」
「駄目だ」
久遠の声が硬かった。
「ここは理の保護がない。封印の外に出れば、名前は散逸する。凍結されていないということは、保護もないということだ。空気に溶けて消える」
こよいは巾着の口を閉じた。 光の筋が途絶え、井戸の中の名前がゆっくりと底に沈んでいった。一つずつ、順番に。最後の一つが沈むまで、こよいは井戸の縁から目を離さなかった。 巾着の脈動も徐々に収まったが、温もりは高いままだった。
「でも、ここにいても——」
「ここにいれば、少なくとも存在し続ける。石の封印が持つ限りは」
久遠は石組みの文字を読んだ。 義眼が細かく動いた。一文字ずつを丁寧に追い、筆跡の特徴を記録している。
「この封印を刻んだのは——」
久遠の声が止まった。
蒼光が強くなり、文字を何度も照らし直した。確認するように。信じられないものを見たときの、久遠の癖だった。
「最初の神だ。この封印の文字は、経蔵の原本と同じ筆跡だ」
あさひが腕を組んだ。
「最初の神がここに来たのか」
「来た。そして、この名前たちを封印した。凍結ではなく、封印。殺さずに留めた。なぜだ」
久遠は自分に問いかけるように呟いた。
おたまが縁石に前脚をかけ、首を伸ばして——水を、ひと舐めした。 こよいが止める間もなかった。だが、何も起きなかった。波紋が一つ広がり、底の光たちがその波紋に集まって、猫の舌が作った小さな揺れの中で、くるくると回った。怖がっていない。じゃれている。封印の水は、猫の喉を普通の水のように潤して、それきりだった。
「……この井戸、怒らないんだ」
こよいが言うと、久遠は「猫だからな」とも「猫でも、か」ともつかない顔で、記録の筆を走らせた。
こよいは井戸の水面を見つめた。 光の粒が底で静かに回っている。 温かい水の中で、凍りもせず、消えもせず、ただ留められている。最初の神は、この名前たちを守ったのかもしれない。
凍結すれば堅い氷に閉じ込められる。 散逸すれば消える。
どちらでもない場所として、この温かい水の中に留めた。巾着の中で、雨の神が一つ、ゆっくりと脈打った。悲しいのか、安心しているのか、分からない温もりだった。
こよいは石の文字を指でなぞり、巾着の四柱に場所を覚えていてと頼んだ。今、封印を壊せば名前たちが消える。それなら、散逸させずに連れ出す方法を見つけて、必ず戻る。 雨の神の脈が、今度は迷わず一度だけ掌を叩いた。
