星野の停車場は、屋根がなかった。
四本の石柱が立っているだけだった。柱の間に板が渡され、それが座席になっている。壁もなく、天井もなく、ただ柱と板だけが線路の脇に置かれていた。板の表面は風雨に晒されて白く褪せ、座ると微かに軋む音がした。
「停車場というより、目印だな」
あさひが柱の一本を見た。石に文字が刻まれている。「星野」の二文字。それだけだった。文字の溝は浅く、長い年月で角が丸くなっている。指でなぞると、石の粒子が僅かに剥がれた。
空が見えた。霧が薄い。南の町では見上げても灰色しかなかったが、ここでは霧の向こうに暗い空が透けている。完全には見えないが、空があることだけは分かった。空の存在を忘れかけていた目に、その暗さは不思議と安堵を与えた。
光が落ちてくる。星降町よりも多い。一つ、二つ、三つ。絶え間なく、小さな光の粒が空から降り注いでいた。光の密度が高い。空から雨のように降るのではなく、四方八方から、角度も速度も異なる光が交差しながら落ちていく。
「名前の雨だ」
久遠が空を見上げた。義眼の蒼光が空に向かって細い筋を伸ばし、落ちてくる光の一つを追いかける。だが光の方が速く、蒼い筋が追いつく前に地面に触れて消えた。
「凍結が維持できなくなった名前が、大量に零れている。ここでは日常的に起きているらしい」
光は地面に触れると消えた。だが、消える直前に微かな温もりを残していた。石畳ではなく土の地面に落ちた光は、一瞬だけ土を温めてから消えた。光が消えた場所の土が、ほんの少しだけ色が濃くなっている。名前の温度が、土に吸い込まれていく。
こよいは停車場から歩き出した。足元が違った。石畳がない。土だった。固く踏み締められた土の道が、細い線路に沿って北へ伸びている。道の両側に銀灰色の木が点在していた。葉のない木だが、幹は太く、根が深い。根の一部が地表に露出し、道の端を持ち上げている。この土地に長く根を下ろしていることが分かった。
「建物が少ない」
久遠が周囲を見渡した。道の左手に小さな石造りの家が三つ並んでいるが、それ以外に建物は見えない。南の町には商家や宿があったが、ここにはそれがない。家の壁は低く、屋根は石を並べただけの簡素なものだった。
「人がいない」
「いたことはある。家がある。……いや」
あさひが一つの家の入口を覗いた。扉はなく、中は暗い。床は土間で、簡素な竈が隅にある。竈の石は冷たいが——灰が、新しかった。白く軽い灰が、崩れずに山の形を保っている。数日のうちに、誰かが火を使っている。
「……今も、いるのかもしれない。だが、姿が見えない」
「理の辺境では、人は定住しにくい」
久遠が言葉を落とした。声が家の中に反響し、暗闇の奥で小さく消えた。
「存在の土台が不安定だ。建物が消える。道が消える。ここに住む者たちも——半分ほど消えながら、まだ暮らしているのかもしれない。名を薄くしたまま、見えにくくなって」
名前の光が、また降ってきた。一つがこよいの肩の近くを掠め、地面に落ちて消えた。消える直前、光が微かに形を持った。文字の形——名前の一画のように見えた。横に引いた線が、最後に跳ねる。はねの先が光に溶けて消えた。
巾着が強く脈打った。こよいは足を止めた。
「ねえ」
巾着に話しかけた。布越しに、月の神の光が漏れている。
「この子たちの名前、分かる?」
神々は答えなかった。だが脈動が速くなった。落ちてくる光の一つに反応しているように。巾着の布が内側から押されるように膨らみ、光が縫い目の隙間から細い線になって漏れた。
「知り合い、たくさんいるんだね」
こよいの声が小さくなった。こんなにたくさんの名前が、毎日のように降って、消えている。助けを求める声すら出せないまま。一瞬だけ光って、誰にも触れられずに消えていく。
あさひがこよいの肩に手を置いた。重い手だった。だが温かかった。掌の厚みが、こよいの肩を覆うように乗っている。
「泣くなよ。まだ消えてない。落ちてるだけだ。拾いに来たんだろ」
こよいは頷いた。涙を拭わなかった。拭っている暇があるなら、前を向く。
道は北へ続いていた。銀灰色の木の間を、土の道が真っ直ぐに伸びている。名前の光が、道を照らすように降り続けていた。
久遠が不意に足を止めた。目録を抱える手が、微かに震えている。
「……開いた」
こよいとあさひが振り返った。久遠の目録が、風もないのに頁をめくっている。金色の筋が走る頁の奥——封じられていた一頁が、自ら綴じ糸をほどくように開いた。
「八重の定理だ。最後の一つ。封が解けた」
久遠は義眼を細め、開いた頁を読んだ。書かれていたのは、たった一行だった。
『名前は凍っても死なない。溶ければ、また歩き出す。』
あさひが鼻で笑った。
「簡単じゃねえか」
「簡単だから、誰も証明しなかった」
久遠が目録を閉じた。閉じた表紙の上で、金色の筋が静かに脈打っている。定理の頁が自ら開いたのは、偶然ではないのだろう。読むべき時に、読むべき場所で、開いた。
こよいは巾着を胸に寄せた。雨の神が一つ、穏やかに脈打った。
おたまが、空き家の軒先で足を止めていた。誰もいないはずの戸口に向かって、猫はゆっくりと瞬きをする。猫の挨拶だ。姿の見えない誰かへの。それから何事もなかったように、道へ戻ってきた。見えない住人と、見える猫。この土地の薄い暮らしに、猫だけが普通に礼を通していた。
定理は証明を待っている。この道の先に、証明がある。名前は凍っても死なない。溶ければ、また歩き出す——八重の最後の定理が、名前の雨の降る道の先で、確かめられるのを待っていた。
