第269話 八重の最終定理、解禁
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第269話 八重の最終定理、解禁

第9章 地図の折返し

星野ほしの停車場ていしゃじょうは、屋根がなかった。

四本の石柱が立っているだけだった。柱の間に板が渡され、それが座席になっている。壁もなく、天井もなく、ただ柱と板だけが線路の脇に置かれていた。板の表面は風雨にさらされて白くせ、座ると微かにきしむ音がした。

停車場ていしゃじょうというより、目印だな」

あさひが柱の一本を見た。石に文字が刻まれている。「星野」の二文字。それだけだった。文字の溝は浅く、長い年月で角が丸くなっている。指でなぞると、石の粒子が僅かに剥がれた。

空が見えた。きりが薄い。南の町では見上げても灰色しかなかったが、ここではきりの向こうに暗い空が透けている。完全には見えないが、空があることだけは分かった。空の存在を忘れかけていた目に、その暗さは不思議と安堵あんどを与えた。

光が落ちてくる。星降町ほしふりまちよりも多い。一つ、二つ、三つ。絶え間なく、小さな光の粒が空から降り注いでいた。光の密度が高い。空から雨のように降るのではなく、四方八方から、角度も速度も異なる光が交差しながら落ちていく。

「名前の雨だ」

久遠くおんが空を見上げた。義眼ぎがん蒼光そうこうが空に向かって細い筋を伸ばし、落ちてくる光の一つを追いかける。だが光の方が速く、蒼い筋が追いつく前に地面に触れて消えた。

凍結とうけつが維持できなくなった名前が、大量にこぼれている。ここでは日常的に起きているらしい」

光は地面に触れると消えた。だが、消える直前に微かな温もりを残していた。石畳いしだたみではなく土の地面に落ちた光は、一瞬だけ土を温めてから消えた。光が消えた場所の土が、ほんの少しだけ色が濃くなっている。名前の温度が、土に吸い込まれていく。

こよいは停車場ていしゃじょうから歩き出した。足元が違った。石畳いしだたみがない。土だった。固く踏み締められた土の道が、細い線路に沿って北へ伸びている。道の両側に銀灰色の木が点在していた。葉のない木だが、幹は太く、根が深い。根の一部が地表に露出し、道の端を持ち上げている。この土地に長く根を下ろしていることが分かった。

「建物が少ない」

久遠くおんが周囲を見渡した。道の左手に小さな石造りの家が三つ並んでいるが、それ以外に建物は見えない。南の町には商家や宿があったが、ここにはそれがない。家の壁は低く、屋根は石を並べただけの簡素なものだった。

「人がいない」

「いたことはある。家がある。……いや」

あさひが一つの家の入口をのぞいた。扉はなく、中は暗い。床は土間で、簡素なかまどが隅にある。かまどの石は冷たいが——灰が、新しかった。白く軽い灰が、崩れずに山の形を保っている。数日のうちに、誰かが火を使っている。

「……今も、いるのかもしれない。だが、姿が見えない」

ことわり辺境へんきょうでは、人は定住しにくい」

久遠くおんが言葉を落とした。声が家の中に反響し、暗闇の奥で小さく消えた。

「存在の土台が不安定だ。建物が消える。道が消える。ここに住む者たちも——半分ほど消えながら、まだ暮らしているのかもしれない。名を薄くしたまま、見えにくくなって」

名前の光が、また降ってきた。一つがこよいの肩の近くをかすめ、地面に落ちて消えた。消える直前、光が微かに形を持った。文字の形——名前の一画のように見えた。横に引いた線が、最後に跳ねる。はねの先が光に溶けて消えた。

巾着きんちゃくが強く脈打った。こよいは足を止めた。

「ねえ」

巾着きんちゃくに話しかけた。布越しに、月の神の光が漏れている。

「この子たちの名前、分かる?」

神々は答えなかった。だが脈動が速くなった。落ちてくる光の一つに反応しているように。巾着きんちゃくの布が内側から押されるようにふくらみ、光が縫い目の隙間から細い線になって漏れた。

「知り合い、たくさんいるんだね」

こよいの声が小さくなった。こんなにたくさんの名前が、毎日のように降って、消えている。助けを求める声すら出せないまま。一瞬だけ光って、誰にも触れられずに消えていく。

あさひがこよいの肩に手を置いた。重い手だった。だが温かかった。てのひらの厚みが、こよいの肩を覆うように乗っている。

「泣くなよ。まだ消えてない。落ちてるだけだ。拾いに来たんだろ」

こよいは頷いた。涙をぬぐわなかった。ぬぐっている暇があるなら、前を向く。

道は北へ続いていた。銀灰色の木の間を、土の道が真っ直ぐに伸びている。名前の光が、道を照らすように降り続けていた。

久遠くおんが不意に足を止めた。目録もくろくを抱える手が、微かに震えている。

「……開いた」

こよいとあさひが振り返った。久遠くおん目録もくろくが、風もないのにページをめくっている。金色の筋が走るページの奥——封じられていた一頁いっぺーじが、自ら綴じ糸をほどくように開いた。

八重やえ定理ていりだ。最後の一つ。封が解けた」

久遠くおん義眼ぎがんを細め、開いたページを読んだ。書かれていたのは、たった一行だった。

『名前は凍っても死なない。溶ければ、また歩き出す。』

あさひが鼻で笑った。

「簡単じゃねえか」

「簡単だから、誰も証明しなかった」

久遠くおん目録もくろくを閉じた。閉じた表紙の上で、金色の筋が静かに脈打っている。定理の頁が自ら開いたのは、偶然ではないのだろう。読むべき時に、読むべき場所で、開いた。

こよいは巾着きんちゃくを胸に寄せた。雨の神が一つ、穏やかに脈打った。

おたまが、空き家の軒先で足を止めていた。誰もいないはずの戸口に向かって、猫はゆっくりと瞬きをする。猫の挨拶だ。姿の見えない誰かへの。それから何事もなかったように、道へ戻ってきた。見えない住人と、見える猫。この土地の薄い暮らしに、猫だけが普通に礼を通していた。

定理ていりは証明を待っている。この道の先に、証明がある。名前は凍っても死なない。溶ければ、また歩き出す——八重やえの最後の定理が、名前の雨の降る道の先で、確かめられるのを待っていた。

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