焚き火の光が、あさひの手元を橙に染めていた。
星野の夜は静かだ。風が木の葉を鳴らす音が、砂の地を歩いていた頃には聞けなかった種類の音だった。生きている葉が擦れる音。乾いていない世界の音。
あさひは大剣を膝に載せ、布で拭っていた。だが途中で手が止まった。
「……なんだ、これ」
刃の中ほどを走る亀裂。経蔵の鉱脈と同じ鉱石から鍛えられたその剣は、砂の境を越えた頃から罅が深くなっていた。それは知っていた。だが今、焚き火の光に透かして見ると、亀裂の底に何かが光っている。
最初に気づいていたのは、おたまだったのかもしれない。猫は焚き火の輪の外から、さっきからじっと剣を見ていた。
こよいが毛布にくるまったまま身を起こした。
「あさひ、どうしたの」
「来い。見ろ」
あさひの声には怒りがなかった。それが珍しくて、こよいは素直に近寄った。
亀裂の隙間に、小さな結晶が並んでいた。焚き火に照らされて、淡い緑色に瞬いている。こよいは息を呑んだ。星野に入ってから見てきた木々の樹皮に浮く結晶と、同じ色だった。
こよいは顔を近づけた。結晶は小さく、爪の先ほどもない。けれど焚き火の揺れに合わせて、光の芯がゆっくり明滅している。鉱物の光り方ではなかった。呼吸に近い。
「生きてる……?」
「知るか。だが、こいつは割れてるんじゃねえ。中から何か、生えてやがる」
久遠が目録を閉じ、義眼の焦点を剣に合わせた。蒼白い光が刃の表面を這うように走る。久遠は長い間黙っていた。焚き火が一度弾けて、火の粉が夜空に散った。
「……仮説だが」
「言え」
「その鉱石は、星野の地層と同じ組成を含んでいる可能性がある。経蔵の基盤鉱脈は、もともとこの地域から採掘されたものだったと考えれば辻褄が合う」
久遠は義眼を細め、目録に走り書きを始めた。
「理が世界を管理する以前、この土地には鉱石と植物が区別なく存在していた。鉱物が結晶を育て、結晶が根を張り、根が名前を運ぶ。その循環の一部を切り出して鍛えたものが、あの剣だとすれば——」
「鍛冶が間違えたってのか」
あさひの声に棘が混じった。久遠は首を横に振った。
「間違えたのではない。用途を変えたんだ。本来は武器として使うべきものではなかった。あの鉱石は、世界の循環そのものの断片だ」
沈黙が降りた。
世界の循環の断片で、あさひは何百と斬ってきた。守るために。生き延びるために。その事実が、火の粉と一緒に三人の間に落ちて、しばらく誰も拾えなかった。
焚き火の音だけが続いた。遠くで星野の木々が風に揺れ、葉擦れの音が波のように寄せては返した。こよいは巾着を胸に抱いたまま、あさひの横顔を見ていた。
あさひは剣を膝から下ろさなかった。結晶の緑が揺れる光の中で明滅している。握りしめた右手の指が白くなっていた。
「……あさひ」
「黙ってろ」
だが、声は荒くなかった。こよいは口を閉じた。
長い時間が流れた。焚き火が一段低くなり、炭が赤く脈打つだけになっても、あさひは動かなかった。久遠は目録を閉じ、義眼の光を落として目を伏せていた。待っているのだと、こよいには分かった。
やがて、あさひが口を開いた。
「久遠」
「なんだ」
「こいつが武器じゃなかったとして。じゃあ何だったんだ」
「分からない。記録にない。理以前の世界の断片だ」
あさひは鼻で短く息を吐いた。それから剣を持ち上げ、結晶の光る亀裂に指を沿わせた。触れる指先に、微かな振動が伝わっているのをこよいは見た。
「道具は使い手が決める」
あさひの声は低く、静かだった。斬る道具として使ってきた。それを悔いる言い方ではなかった。使い方を変えるかもしれない。それを恐れる言い方でもなかった。ただ、これからのことを決めるのは自分と剣だと、静かに宣言する声だった。
「こいつが何になりたいかは、俺が聞く」
それだけ言って、あさひは布を広げ、丁寧に剣を包み始めた。普段の荒っぽさはなかった。結晶に触れないよう、亀裂を避けるように、一巻きごとに手の位置を確かめながら。
こよいは巾着の中で、神々がかすかに震えるのを感じた。星野の地面から伝わる振動と同じ周波数で。土の奥に眠る記憶が、剣の鉱石を通してあさひの手に届いている。
「……あさひ」
「なんだよ」
「その剣、前より少し温かくない?」
あさひは布を巻く手を止めなかった。だが口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「気のせいだろ」
久遠が目録を開き直し、義眼に淡い光を灯した。
「気のせいではない。星野の地中温度と同期している。剣の鉱石が、元の土地の温度を思い出しているんだ」
「思い出す鉱石なんてあるかよ」 あさひの声に棘はなかった。
「理以前の世界には、あったのかもしれない」
あさひは包み終えた剣を背中に戻し、革紐で締めた。立ち上がり、焚き火の向こうに広がる星野の森を見た。生きた木々が夜風に揺れている。砂ばかりの道を歩いてきた目には、その緑が信じられないほど深く見えた。
「寝ろ。明日も歩く」
「あさひは」
「俺は最後でいい」
こよいは毛布に深く潜り込んだ。目を閉じる前に、あさひが焚き火の傍に座り直し、背中の剣に片手を添えているのが見えた。まるで何かに耳を澄ませているような横顔だった。
おたまが、あさひの隣に音もなく座った。猫もまた、包まれた剣の方へ耳を向けている。剣と、土と、猫。同じ山の記憶を持つものたちが、焚き火のそばで同じ夜を聴いていた。
星野の夜は深く、生きた土の温もりが地面から立ち昇っていた。
