第268話 あさひの剣の行方、ふたたび
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第268話 あさひの剣の行方、ふたたび

第9章 地図の折返し

焚き火の光が、あさひの手元を橙(だいだい)に染めていた。

星野(ほしの)の夜は静かだ。風が木の葉を鳴らす音が、砂の地を歩いていた頃には聞けなかった種類の音だった。生きている葉が擦(こす)れる音。乾いていない世界の音。

あさひは大剣を膝(ひざ)に載せ、布で拭(ぬぐ)っていた。だが途中で手が止まった。

「……なんだ、これ」

刃の中ほどを走る亀裂(きれつ)。経蔵(きょうぞう)の鉱脈(こうみゃく)と同じ鉱石から鍛(きた)えられたその剣は、砂の境(さかい)を越えた頃から罅(ひび)が深くなっていた。それは知っていた。だが今、焚き火の光に透かして見ると、亀裂(きれつ)の底に何かが光っている。

最初に気づいていたのは、おたまだったのかもしれない。猫は焚き火の輪の外から、さっきからじっと剣を見ていた。

こよいが毛布にくるまったまま身を起こした。

「あさひ、どうしたの」

「来い。見ろ」

あさひの声には怒りがなかった。それが珍しくて、こよいは素直に近寄った。

亀裂(きれつ)の隙間(すきま)に、小さな結晶が並んでいた。焚き火に照らされて、淡い緑色に瞬(またた)いている。こよいは息を呑(の)んだ。星野(ほしの)に入ってから見てきた木々の樹皮に浮く結晶と、同じ色だった。

こよいは顔を近づけた。結晶は小さく、爪の先ほどもない。けれど焚き火の揺れに合わせて、光の芯がゆっくり明滅している。鉱物の光り方ではなかった。呼吸に近い。

「生きてる……?」

「知るか。だが、こいつは割れてるんじゃねえ。中から何か、生えてやがる」

久遠(くおん)が目録(もくろく)を閉じ、義眼(ぎがん)の焦点を剣に合わせた。蒼白い光が刃の表面を這(は)うように走る。久遠(くおん)は長い間黙っていた。焚き火が一度弾けて、火の粉が夜空に散った。

「……仮説だが」

「言え」

「その鉱石は、星野(ほしの)の地層と同じ組成を含んでいる可能性がある。経蔵(きょうぞう)の基盤鉱脈(きばんこうみゃく)は、もともとこの地域から採掘(さいくつ)されたものだったと考えれば辻褄(つじつま)が合う」

久遠(くおん)は義眼(ぎがん)を細め、目録(もくろく)に走り書きを始めた。

「理(ことわり)が世界を管理する以前、この土地には鉱石と植物が区別なく存在していた。鉱物が結晶を育て、結晶が根を張り、根が名前を運ぶ。その循環(じゅんかん)の一部を切り出して鍛(きた)えたものが、あの剣だとすれば——」

「鍛冶(かじ)が間違えたってのか」

あさひの声に棘(とげ)が混じった。久遠(くおん)は首を横に振った。

「間違えたのではない。用途を変えたんだ。本来は武器として使うべきものではなかった。あの鉱石は、世界の循環(じゅんかん)そのものの断片だ」

沈黙が降りた。

世界の循環の断片で、あさひは何百と斬ってきた。守るために。生き延びるために。その事実が、火の粉と一緒に三人の間に落ちて、しばらく誰も拾えなかった。

焚き火の音だけが続いた。遠くで星野(ほしの)の木々が風に揺れ、葉擦(はず)れの音が波のように寄せては返した。こよいは巾着(きんちゃく)を胸に抱いたまま、あさひの横顔を見ていた。

あさひは剣を膝(ひざ)から下ろさなかった。結晶の緑が揺れる光の中で明滅している。握りしめた右手の指が白くなっていた。

「……あさひ」

「黙ってろ」

だが、声は荒くなかった。こよいは口を閉じた。

長い時間が流れた。焚き火が一段低くなり、炭が赤く脈打つだけになっても、あさひは動かなかった。久遠(くおん)は目録(もくろく)を閉じ、義眼(ぎがん)の光を落として目を伏せていた。待っているのだと、こよいには分かった。

やがて、あさひが口を開いた。

「久遠(くおん)」

「なんだ」

「こいつが武器じゃなかったとして。じゃあ何だったんだ」

「分からない。記録にない。理(ことわり)以前の世界の断片だ」

あさひは鼻で短く息を吐いた。それから剣を持ち上げ、結晶の光る亀裂(きれつ)に指を沿わせた。触れる指先に、微かな振動が伝わっているのをこよいは見た。

「道具は使い手が決める」

あさひの声は低く、静かだった。斬る道具として使ってきた。それを悔いる言い方ではなかった。使い方を変えるかもしれない。それを恐れる言い方でもなかった。ただ、これからのことを決めるのは自分と剣だと、静かに宣言する声だった。

「こいつが何になりたいかは、俺が聞く」

それだけ言って、あさひは布を広げ、丁寧に剣を包み始めた。普段の荒っぽさはなかった。結晶に触れないよう、亀裂(きれつ)を避けるように、一巻きごとに手の位置を確かめながら。

こよいは巾着(きんちゃく)の中で、神々がかすかに震えるのを感じた。星野(ほしの)の地面から伝わる振動と同じ周波数で。土の奥に眠る記憶が、剣の鉱石を通してあさひの手に届いている。

「……あさひ」

「なんだよ」

「その剣、前より少し温かくない?」

あさひは布を巻く手を止めなかった。だが口元が、ほんの少しだけ緩(ゆる)んだ。

「気のせいだろ」

久遠(くおん)が目録(もくろく)を開き直し、義眼(ぎがん)に淡い光を灯(とも)した。

「気のせいではない。星野(ほしの)の地中温度と同期している。剣の鉱石が、元の土地の温度を思い出しているんだ」

「思い出す鉱石なんてあるかよ」  あさひの声に棘(とげ)はなかった。

「理(ことわり)以前の世界には、あったのかもしれない」

あさひは包み終えた剣を背中に戻し、革紐(かわひも)で締めた。立ち上がり、焚き火の向こうに広がる星野(ほしの)の森を見た。生きた木々が夜風に揺れている。砂ばかりの道を歩いてきた目には、その緑が信じられないほど深く見えた。

「寝ろ。明日も歩く」

「あさひは」

「俺は最後でいい」

こよいは毛布に深く潜り込んだ。目を閉じる前に、あさひが焚き火の傍(そば)に座り直し、背中の剣に片手を添えているのが見えた。まるで何かに耳を澄ませているような横顔だった。

おたまが、あさひの隣に音もなく座った。猫もまた、包まれた剣の方へ耳を向けている。剣と、土と、猫。同じ山の記憶を持つものたちが、焚き火のそばで同じ夜を聴いていた。

星野(ほしの)の夜は深く、生きた土の温もりが地面から立ち昇っていた。

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