影の中心を抜けるのに、前より時間がかかった。車内の灰色が剥がれ始めるまでに、こよいは三十を数えた。 南で最後にくぐった影の中心では、十五ほどで色が戻り始めていた。 倍近い時間がかかっている。だが、抜けた後の灰色は薄かった。窓硝子に映った自分の顔が、前回よりはっきり見えた。
「影が長くなったけど、薄くなった」
こよいが窓の外を見た。
灰色がまだらに剥がれ、下の色が露出していく。 いつもなら全面が灰色に覆われるのに、今回は最初から斑になっていた。 影の力が均一でない。まるで布が擦り切れて、そこから向こう側が見えるような薄さだった。
「北に来るほど、影の密度が下がる」
久遠が目録を確認した。
灰色に覆われる頁も少なかった。 金色の筋は一段と明るくなっている。影の中にいても金色が消えなかったのは、今回が初めてだった。
「理の監視網が薄いんだ。南では隙間なく張り巡らされていた網が、ここでは穴だらけだ」
久遠の声には、分析の硬さの下に、微かな感慨が混じっていた。網の目を数えながら旅をしてきた記録者にとって、穴だらけの空は、初めて見る種類の空だった。
あさひは座席に深く腰を沈め、大剣を膝に横たえていた。剣の柄に添えた手の力が、いつもより緩んでいる。
「薄いのはいいことなのか」
「両面がある。理の監視が薄ければ、俺たちは動きやすい。だが——」
久遠は窓の外を見た。義眼の蒼光が霧の奥を探り、何も掴めずに戻ってくる。
霧の中に、何もない空間が断続的に広がっている。 建物の跡もなく、石畳もなく、ただ白い虚空が霧の向こうに口を開けている。虚空の縁は滲んでいて、霧との境界が定かではない。そこにあるべきものが消えた跡ではなく、最初から何もなかった場所。存在の空白。
「保護もない。名前の凍結を維持する力も弱い。だから星降町では氷に罅が入っていた。凍結が解けかけている」
「解けたら、どうなる」
「名前が氷から出る。出た名前は、理の保護がなければ、そのまま散逸する。消えるのではなく、薄まる。空気に溶けて、二度と集まらなくなる」
こよいが巾着を見た。布越しに、雨の神の温もりが指先に伝わっている。その温もりが、久遠の言葉を聞いた瞬間、僅かに揺らいだ。
「この子たちも?」
「巾着の中にいる限りは、こよいの温もりが保護になっている。だが、もし巾着の外に出れば——」
久遠は言わなかった。
言う必要がなかった。こよいは巾着を両手で包み直した。手のひらの温度を、少しでも多く伝えるように。 窓の外の風景が変わった。霧の中に、細い木が見えた。 枝に葉はないが、幹が生きている。 銀灰色の樹皮が薄い光を帯びて、霧の中に立っている。幹の表面に細かな凹凸があり、生きた木の質感が硝子越しに伝わってきた。
こよいは目を瞠った。
「木。こんなに近くで見るの、初めてだ」
声が少しだけ上ずっていた。石と紙と氷ばかりだった視界の中に、生きて立っているものがある。それだけのことが、胸の真ん中を柔らかく叩いた。
忘却の海の北岸で遠くに森を見たことはあった。だが、こうして一本一本の幹の質感が見える距離は初めてだった。
こよいは窓に手を当て、硝子越しに木の方へ指を伸ばした。触れられないと分かっていても、指先を向けずにはいられなかった。
「理の制御が薄い証拠だ」
久遠が息と一緒に言った。声に、わずかな感慨が混じっていた。
「理は情報を管理する。石と霧と名前。それが理の管轄だ。だが、植物は情報ではない。理の制御が弱い場所では、理の管轄外のものが育つ」
「管轄外」
「最初の神が名前を凍結する前の、この世界の本来の姿かもしれない。名前も理も観測者もなかった頃の」
木がまた見えた。
今度は二本。
枝が絡み合って、霧の中でアーチを作っている。枝の先に、芽のような小さな膨らみがあった。葉が出る前の、固く閉じた芽。生きているものだけが持つ、時間の約束がそこにあった。
こよいは窓に手を当てた。 硝子越しに、木の生きた気配が伝わってきた。 温かいのではない。
ただ、そこにある。
石と霧とは違う、確かな存在感だった。
列車が速度を落とした。あさひが立ち上がった。膝の上の大剣を肩に担ぎ直す動作に、いつもの鋭さが戻っている。
「もう一つ、町があるのか」
「星野」
久遠がその名を口にしたとき、目録の金色の筋が、頁の上で一度だけ強く光った。地名に、目録のほうが反応している。
久遠が答えた。
「星降町の北にある集落だ。目録に記述はほとんどない。名前だけが残っている」
白い灯が見えた。
だが、灯の間隔が広い。
行灯の数が少ない。列車が止まった。 扉が開いた。風が入ってきた。 冷たいが、乾いているだけではない。
土の匂いがした。
生きた土の、湿った匂い。雨上がりの畑の匂いに似ている。だがもっと深い。地面の何層も下から、長い時間をかけて滲み出してきた匂いだった。
こよいは深く息を吸った。 石と紙と墨の匂いしかなかった旅の中で、初めて嗅ぐ土の匂いだった。巾着が温かく脈打った。近い、と神々が言っている気がした。 おたまが誰より先にホームへ降り、湿った土の上に、迷わず腹ばいになった。土に頬を付け、目を閉じる。長い旅の果てに、懐かしいものへ辿り着いた者の仕草だった。北のこの土を、猫は知っている——そんな気がして、こよいは声をかけられなかった。
