第267話 理の辺境
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第267話 理の辺境

第9章 地図の折返し

影(かげ)の中心(ちゅうしん)を抜けるのに、前より時間がかかった。車内の灰色が剥(は)がれ始めるまでに、こよいは三十を数えた。  南で最後にくぐった影(かげ)の中心(ちゅうしん)では、十五ほどで色が戻り始めていた。  倍近い時間がかかっている。だが、抜けた後の灰色は薄かった。窓硝子(まどがらす)に映った自分の顔が、前回よりはっきり見えた。

「影が長くなったけど、薄くなった」

こよいが窓の外を見た。

灰色がまだらに剥(は)がれ、下の色が露出していく。  いつもなら全面が灰色に覆(おお)われるのに、今回は最初から斑(まだら)になっていた。  影の力が均一でない。まるで布が擦り切れて、そこから向こう側が見えるような薄さだった。

「北に来るほど、影の密度が下がる」

久遠(くおん)が目録(もくろく)を確認した。

灰色に覆(おお)われる頁(ページ)も少なかった。  金色の筋は一段と明るくなっている。影の中にいても金色が消えなかったのは、今回が初めてだった。

「理(ことわり)の監視網が薄いんだ。南では隙間なく張り巡らされていた網が、ここでは穴だらけだ」

久遠(くおん)の声には、分析の硬さの下に、微かな感慨が混じっていた。網の目を数えながら旅をしてきた記録者にとって、穴だらけの空は、初めて見る種類の空だった。

あさひは座席に深く腰を沈め、大剣を膝(ひざ)に横たえていた。剣の柄(つか)に添えた手の力が、いつもより緩んでいる。

「薄いのはいいことなのか」

「両面がある。理(ことわり)の監視が薄ければ、俺たちは動きやすい。だが——」

久遠(くおん)は窓の外を見た。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が霧(きり)の奥を探り、何も掴めずに戻ってくる。

霧(きり)の中に、何もない空間が断続的に広がっている。  建物の跡もなく、石畳(いしだたみ)もなく、ただ白い虚空(こくう)が霧(きり)の向こうに口を開けている。虚空(こくう)の縁(ふち)は滲(にじ)んでいて、霧(きり)との境界が定かではない。そこにあるべきものが消えた跡ではなく、最初から何もなかった場所。存在の空白。

「保護もない。名前の凍結(とうけつ)を維持する力も弱い。だから星降町(ほしふりまち)では氷に罅(ひび)が入っていた。凍結(とうけつ)が解けかけている」

「解けたら、どうなる」

「名前が氷から出る。出た名前は、理(ことわり)の保護がなければ、そのまま散逸(さんいつ)する。消えるのではなく、薄まる。空気に溶けて、二度と集まらなくなる」

こよいが巾着(きんちゃく)を見た。布越しに、雨の神の温もりが指先に伝わっている。その温もりが、久遠(くおん)の言葉を聞いた瞬間、僅かに揺らいだ。

「この子たちも?」

「巾着(きんちゃく)の中にいる限りは、こよいの温もりが保護になっている。だが、もし巾着(きんちゃく)の外に出れば——」

久遠(くおん)は言わなかった。

言う必要がなかった。こよいは巾着(きんちゃく)を両手で包み直した。手のひらの温度を、少しでも多く伝えるように。  窓の外の風景が変わった。霧(きり)の中に、細い木が見えた。  枝に葉はないが、幹が生きている。  銀灰色の樹皮が薄い光を帯びて、霧(きり)の中に立っている。幹の表面に細かな凹凸があり、生きた木の質感が硝子(ガラス)越しに伝わってきた。

こよいは目を瞠(みは)った。

「木。こんなに近くで見るの、初めてだ」

声が少しだけ上ずっていた。石と紙と氷ばかりだった視界の中に、生きて立っているものがある。それだけのことが、胸の真ん中を柔らかく叩いた。

忘却(ぼうきゃく)の海の北岸で遠くに森を見たことはあった。だが、こうして一本一本の幹の質感が見える距離は初めてだった。

こよいは窓に手を当て、硝子(ガラス)越しに木の方へ指を伸ばした。触れられないと分かっていても、指先を向けずにはいられなかった。

「理(ことわり)の制御が薄い証拠だ」

久遠(くおん)が息と一緒に言った。声に、わずかな感慨(かんがい)が混じっていた。

「理(ことわり)は情報を管理する。石と霧(きり)と名前。それが理(ことわり)の管轄だ。だが、植物は情報ではない。理(ことわり)の制御が弱い場所では、理(ことわり)の管轄外のものが育つ」

「管轄外」

「最初の神が名前の凍結(とうけつ)を命じる前の、この世界の本来の姿かもしれない。名前も理(ことわり)も観測者(かんそくしゃ)もなかった頃の」

木がまた見えた。

今度は二本。

枝が絡み合って、霧(きり)の中でアーチを作っている。枝の先に、芽のような小さな膨らみがあった。葉が出る前の、固く閉じた芽。生きているものだけが持つ、時間の約束がそこにあった。

こよいは窓に手を当てた。  硝子(ガラス)越しに、木の生きた気配が伝わってきた。  温かいのではない。

ただ、そこにある。

石と霧(きり)とは違う、確かな存在感だった。

列車が速度を落とした。あさひが立ち上がった。膝(ひざ)の上の大剣を肩に担ぎ直す動作に、いつもの鋭さが戻っている。

「もう一つ、町があるのか」

「星野(ほしの)」

久遠(くおん)がその名を口にしたとき、目録(もくろく)の金色の筋が、頁(ページ)の上で一度だけ強く光った。地名に、目録のほうが反応している。

久遠(くおん)が答えた。

「星降町(ほしふりまち)の北にある集落だ。目録(もくろく)に記述はほとんどない。名前だけが残っている」

白い灯(ひ)が見えた。

だが、灯(ひ)の間隔が広い。

行灯(あんどん)の数が少ない。列車が止まった。  扉が開いた。風が入ってきた。  冷たいが、乾いているだけではない。

土の匂いがした。

生きた土の、湿った匂い。雨上がりの畑の匂いに似ている。だがもっと深い。地面の何層も下から、長い時間をかけて滲み出してきた匂いだった。

こよいは深く息を吸った。  石と紙と墨(すみ)の匂いしかなかった旅の中で、初めて嗅(か)ぐ土の匂いだった。巾着(きんちゃく)が温かく脈打った。近い、と神々が言っている気がした。  おたまが誰より先にホームへ降り、湿った土の上に、迷わず腹ばいになった。土に頬を付け、目を閉じる。長い旅の果てに、懐かしいものへ辿り着いた者の仕草だった。北のこの土を、猫は知っている——そんな気がして、こよいは声をかけられなかった。

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