次の夜明け、三人は忘却の海の北の腕を、今度こそひと息に渡り終えた。 対岸の岸辺から、石の段が霧の上へ続いていた。南で登った理の階段と同じ拵えの、双子のような段。ただし今度の段は、登る者に別の代価を求めた。
階段の文字が、消えていく速度を久遠は計っていた。
一段登るごとに、蒼光で照らした石の表面を読む。読み終えた文字が灰色に褪せ、やがて白に変わる。読むという行為が、消去の引き金になっている。
「読まなければ残るのか」
久遠は自分に問いかけた。だが読まなければ記録できない。記録しなければ意味がない。そして読んだ瞬間に、理が漂白を始める。
八段目の文字が消えた。久遠の義眼が捉えてから、白くなるまで四秒。七段目では六秒だった。上に行くほど速くなっている。
「久遠」
あさひの声が上から降ってきた。
「足が止まってるぞ」
「分かっている」
久遠は足を運んだ。九段目。文字に蒼光を当てる。三秒で白くなった。十段目。二秒半。
「速すぎる」
久遠の声は平坦だったが、指先が小さく震えている。目録に書き写す時間がない。読んだ端から消えていく。義眼の記憶領域に焼き付けようとするが、漂白は義眼の中にまで浸食してくる。記録した文字が、記録した先で薄れていく。
こよいは久遠の後ろを歩いていた。階段の幅は前に歩いたときと同じように狭い。だが今回は、狭さより久遠の背中が気になった。
久遠の肩が強張っている。いつもなら頁をめくる手は滑らかなのに、今は文字を追いかける目の動きが荒い。義眼の蒼光が頬骨の辺りまで青白く照り返し、その横顔に刻まれた影が深い。焦っている。久遠が焦るのを、こよいは初めて見た。
「久遠、読まなくていいよ」
「黙れ」
短い拒絶だった。だが声に怒りはなかった。自分自身への命令だった。読め。記録しろ。消される前に。
十五段目。蒼光を当てた文字が、照らした瞬間に白くなった。一秒もなかった。
久遠が足を止めた。
目録を膝に当て、頁を開く。書き写した文字を確認する。半分が薄れかけていた。記録したはずの文字が、目録の中でも消えようとしている。
「……持たない」
久遠が呟いた。こよいの知らない声だった。敗北に近い声。
あさひが三段上から振り返った。
「持たないなら、やめろ」
「やめたら何も残らない」
「お前が残る」
あさひの声は短く、硬かった。久遠が顔を上げた。義眼の蒼光が不安定に明滅している。
「ここの文字は、読む者の負荷として消費される。お前が読むたびに、お前自身の記録容量が削られてる。気づいてないのか」
「気づいている」
「気づいてて読んでんのか」
久遠は目録を胸に引き寄せた。
「記録者が記録をやめたら、ただの目撃者だ」
「目撃者で十分だ。生きてる目撃者のほうが、壊れた記録より役に立つ」
こよいは二人の間に立っていた。階段の段差に立つと、ちょうど久遠の目線と同じ高さだった。
義眼の蒼光が弱っている。いつもの精確な光ではなく、灯が揺れる蝋燭のような頼りなさがある。
こよいは巾着に手を当てた。神々が温かい。前の階段では神々は圧迫されて弱っていたが、今回は違う。温かさがある。
「久遠。ぼくが覚える」
「何を」
「文字。読んでくれたら、ぼくが覚える。目録じゃなくて、ぼくの中に」
久遠の義眼がこよいを見た。蒼い光の中に、疑念と、それ以上の疲労が浮かんでいた。
「お前に記録能力はない」
「ないよ。でも覚えることはできる。声に出して読んで。ぼくが聞く。聞いた言葉は消えない。漂白されるのは文字だけでしょう。声は」
久遠が目を細めた。蒼光が揺れる。反論を探しているようだった。だが見つからなかったらしい。
「……根拠がない」
「根拠がなくても、試せる」
こよいの声は震えていたが、目は逸らさなかった。巾着を握る掌に汗が滲み、布越しに雨の神の温もりが指の間を伝っていた。
あさひが鞘を指で弾いた。乾いた音が階段に響いた。
「言い合ってる暇があるなら試せ。登りながらやれ」
久遠は目録を閉じた。閉じたまま、階段を一段登った。次の段の文字に、蒼光を当てた。
文字が現れ、消え始める。
久遠が声に出した。
「『記す者、歩む者、聴く者。三つ揃えば道になる』」
こよいは聞いた。声を、胸の中に落とした。文字は白くなった。だが久遠の声は、こよいの中に残った。 チリ、と鈴が鳴った。段の先で、おたまが振り返っている。記す者、歩む者、聴く者——数えられていない四つ目の何かが、いつも一段先を歩いていることを、階段の文字は書いていなかった。
次の段。次の文字。
「『理は終わりを書くが、終わりの先を書かない』」
こよいは繰り返さなかった。ただ聞いた。聞いて、巾着の温もりと一緒に、胸の底にしまった。
三人は登り続けた。久遠が読み、こよいが聞き、あさひが道を開く。文字は消えた。だが声は階段の上に残り、こよいの足跡と一緒に、霧の中に細い道を作った。 久遠の息は荒く、義眼の光は細い。それでも読むことをやめなかった。記録が消える場所で読み続けることが、記録者にできる唯一の抵抗だった。声で聞き継ぐという新しいやり方を、三人はこの階段で覚えた。消える文字と、消えない声。理に拾われない場所に、言葉を移し替えていく。 段の上の霧が、少しずつ薄くなっていった。
