第263話 階段の漂白
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第263話 階段の漂白

第9章 地図の折返し

次の夜明け、三人は忘却(ぼうきゃく)の海の北の腕を、今度こそひと息に渡り終えた。  対岸の岸辺から、石の段が霧(きり)の上へ続いていた。南で登った理(ことわり)の階段と同じ拵(こしら)えの、双子のような段。ただし今度の段は、登る者に別の代価を求めた。

階段の文字が、消えていく速度を久遠(くおん)は計っていた。

一段登るごとに、蒼光(そうこう)で照らした石の表面を読む。読み終えた文字が灰色に褪(あ)せ、やがて白に変わる。読むという行為が、消去の引き金になっている。

「読まなければ残るのか」

久遠(くおん)は自分に問いかけた。だが読まなければ記録できない。記録しなければ意味がない。そして読んだ瞬間に、理(ことわり)が漂白(ひょうはく)を始める。

八段目の文字が消えた。久遠(くおん)の義眼(ぎがん)が捉えてから、白くなるまで四秒。七段目では六秒だった。上に行くほど速くなっている。

「久遠(くおん)」

あさひの声が上から降ってきた。

「足が止まってるぞ」

「分かっている」

久遠(くおん)は足を運んだ。九段目。文字に蒼光(そうこう)を当てる。三秒で白くなった。十段目。二秒半。

「速すぎる」

久遠(くおん)の声は平坦だったが、指先が小さく震えている。目録(もくろく)に書き写す時間がない。読んだ端から消えていく。義眼(ぎがん)の記憶領域に焼き付けようとするが、漂白(ひょうはく)は義眼(ぎがん)の中にまで浸食(しんしょく)してくる。記録した文字が、記録した先で薄れていく。

こよいは久遠(くおん)の後ろを歩いていた。階段の幅は前に歩いたときと同じように狭い。だが今回は、狭さより久遠(くおん)の背中が気になった。

久遠(くおん)の肩が強張(こわば)っている。いつもなら頁(ページ)をめくる手は滑らかなのに、今は文字を追いかける目の動きが荒い。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が頬骨(ほおぼね)の辺りまで青白く照り返し、その横顔に刻まれた影が深い。焦っている。久遠(くおん)が焦るのを、こよいは初めて見た。

「久遠(くおん)、読まなくていいよ」

「黙れ」

短い拒絶だった。だが声に怒りはなかった。自分自身への命令だった。読め。記録しろ。消される前に。

十五段目。蒼光(そうこう)を当てた文字が、照らした瞬間に白くなった。一秒もなかった。

久遠(くおん)が足を止めた。

目録(もくろく)を膝(ひざ)に当て、頁(ページ)を開く。書き写した文字を確認する。半分が薄れかけていた。記録したはずの文字が、目録(もくろく)の中でも消えようとしている。

「……持たない」

久遠(くおん)が呟(つぶや)いた。こよいの知らない声だった。敗北に近い声。

あさひが三段上から振り返った。

「持たないなら、やめろ」

「やめたら何も残らない」

「お前が残る」

あさひの声は短く、硬かった。久遠(くおん)が顔を上げた。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が不安定に明滅している。

「ここの文字は、読む者の負荷(ふか)として消費される。お前が読むたびに、お前自身の記録容量が削られてる。気づいてないのか」

「気づいている」

「気づいてて読んでんのか」

久遠(くおん)は目録(もくろく)を胸に引き寄せた。

「記録者(きろくしゃ)が記録をやめたら、ただの目撃者だ」

「目撃者で十分だ。生きてる目撃者のほうが、壊れた記録より役に立つ」

こよいは二人の間に立っていた。階段の段差に立つと、ちょうど久遠(くおん)の目線と同じ高さだった。

義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が弱っている。いつもの精確な光ではなく、灯(ひ)が揺れる蝋燭(ろうそく)のような頼りなさがある。

こよいは巾着(きんちゃく)に手を当てた。神々が温かい。前の階段では神々は圧迫されて弱っていたが、今回は違う。温かさがある。

「久遠(くおん)。ぼくが覚える」

「何を」

「文字。読んでくれたら、ぼくが覚える。目録(もくろく)じゃなくて、ぼくの中に」

久遠(くおん)の義眼(ぎがん)がこよいを見た。蒼い光の中に、疑念と、それ以上の疲労が浮かんでいた。

「お前に記録能力はない」

「ないよ。でも覚えることはできる。声に出して読んで。ぼくが聞く。聞いた言葉は消えない。漂白(ひょうはく)されるのは文字だけでしょう。声は」

久遠(くおん)が目を細めた。蒼光(そうこう)が揺れる。反論を探しているようだった。だが見つからなかったらしい。

「……根拠がない」

「根拠がなくても、試せる」

こよいの声は震えていたが、目は逸(そ)らさなかった。巾着(きんちゃく)を握る掌(てのひら)に汗が滲(にじ)み、布越しに雨の神の温もりが指の間を伝っていた。

あさひが鞘(さや)を指で弾いた。乾いた音が階段に響いた。

「言い合ってる暇があるなら試せ。登りながらやれ」

久遠(くおん)は目録(もくろく)を閉じた。閉じたまま、階段を一段登った。次の段の文字に、蒼光(そうこう)を当てた。

文字が現れ、消え始める。

久遠(くおん)が声に出した。

「『記す者、歩む者、聴く者。三つ揃(そろ)えば道になる』」

こよいは聞いた。声を、胸の中に落とした。文字は白くなった。だが久遠(くおん)の声は、こよいの中に残った。  チリ、と鈴が鳴った。段の先で、おたまが振り返っている。記す者、歩む者、聴く者——数えられていない四つ目の何かが、いつも一段先を歩いていることを、階段の文字は書いていなかった。

次の段。次の文字。

「『理(ことわり)は終わりを書くが、終わりの先を書かない』」

こよいは繰り返さなかった。ただ聞いた。聞いて、巾着(きんちゃく)の温もりと一緒に、胸の底にしまった。

三人は登り続けた。久遠(くおん)が読み、こよいが聞き、あさひが道を開く。文字は消えた。だが声は階段の上に残り、こよいの足跡(あしあと)と一緒に、霧(きり)の中に細い道を作った。  久遠(くおん)の息は荒く、義眼(ぎがん)の光は細い。それでも読むことをやめなかった。記録が消える場所で読み続けることが、記録者にできる唯一の抵抗だった。声で聞き継ぐという新しいやり方を、三人はこの階段で覚えた。消える文字と、消えない声。理(ことわり)に拾われない場所に、言葉を移し替えていく。  段の上の霧(きり)が、少しずつ薄くなっていった。

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