第262話 罅割れた井戸
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第262話 罅割れた井戸

第9章 地図の折返し

深層から這い上がった三人を、忘却(ぼうきゃく)の海は元の岸へ吐き戻していた。金色の霧(きり)はもう失せ、白い霧(きり)の切れた先にあったのは、見覚えのある黒い石畳——星降町(ほしふりまち)の北の外れだった。海が渡らせてくれるのは、夜明けの間だけらしい。次の夜明けを待つあいだに、確かめておきたい場所があった。

星降町(ほしふりまち)の井戸(いど)は、通りの行き止まりにあった。黒い石で組まれた円形の井戸(いど)。前に訪れた、南の外れの砂と水の境の井戸(いど)とは別の——町の理(ことわり)の中心にあたる井戸(いど)だと、久遠(くおん)は言った。南の町々の井戸(いど)とほぼ同じ形だったが、一つだけ違うことがあった。

蓋(ふた)がなかった。

南の井戸(いど)には厚い氷の蓋(ふた)があり、覗き込むにも蒼光(そうこう)を当てるにも手間がかかった。だがここでは、井戸(いど)の口がそのまま開いている。黒い石の縁(ふち)が、行灯(あんどん)の白い光を映して鈍く光り、その内側はただ暗い。蓋(ふた)がないことで、井戸(いど)の中から立ち昇る空気が直接顔に触れた。

「蓋(ふた)が要らないほど、氷が弱いのか」

あさひが井戸(いど)の縁(ふち)に手を掛けた。黒い石が冷たい。だが、井戸(いど)の中から上がってくる空気は、冷たさの中に微かな温もりを含んでいた。地下から吹き上がる息のような温もりだった。

「凍結(とうけつ)が不完全だ」

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)で井戸(いど)の内部を照らした。蒼光(そうこう)が壁面を下り、石の継ぎ目を一つずつ通過して、底に届いた。壁面の石にも罅(ひび)が走り、黒い石の隙間から微かな光が漏れていた。底の氷は、南の井戸(いど)と全く違っていた。南の井戸(いど)の氷は堅く、青黒く、名前は完全に封じ込められていた。

だがここの氷は白く、薄い。そして——罅(ひび)が入っていた。

「割れてる」

こよいが井戸(いど)の縁(ふち)から身を乗り出した。両手で石の縁を掴み、上半身を井戸(いど)の上に傾ける。蒼光(そうこう)に照らされた氷の表面に、蜘蛛の巣のように細い罅(ひび)が走っている。罅(ひび)の奥から、名前の光が漏れていた。微かだが、確かに光っている。氷の表面に映る光が揺らいでいる。動いているのだ。

南の井戸(いど)では氷の奥深くに沈んで見えなかった光が、ここでは氷の表面近くまで浮き上がっていた。氷と光の距離が近い。手を伸ばせば触れられそうなほどに。

「名前が動いてる」

久遠(くおん)が蒼光(そうこう)の角度を変えた。氷の中で、光の粒が緩やかに漂(ただよ)っている。完全に凍りついていない。半ば溶けかけた氷の中を、泳ぐように動いている。一つの光が氷の罅(ひび)に近づき、罅(ひび)の縁に触れては離れを繰り返していた。

「南の井戸(いど)とは氷の質が違う。ここの氷は、名前自身の意志で凍った氷だ」

「意志?」

「自発的な凍結(とうけつ)。最初の神の呼びかけに応じて、自分から名前を差し出した者たちだ。強制ではなく、選んだ凍結(とうけつ)は、氷が脆(もろ)い」

久遠(くおん)は目録(もくろく)の経蔵(きょうぞう)記述を確認した。頁(ページ)の灰色が薄く、文字が鮮明に浮かんでいる。北に近づいた影響が、ここでも出ていた。

「経蔵(きょうぞう)の記録と一致する。凍結(とうけつ)命令には二種類あった。『命じた凍結(とうけつ)』と『従った凍結(とうけつ)』。命じたのは最初の神。従ったのは、集められた神々の中で、最初に応じた者たちだ」

「応じた者と、応じなかった者がいた」

あさひが言葉を落とした。声は低く、石の壁に反響せずに沈んだ。

「応じなかった者は、後に強制された。その氷は堅い。応じた者の氷は、こうなる」

久遠(くおん)が井戸(いど)の壁を指した。罅(ひび)が一つ、目の前でわずかに広がった。広がる瞬間、小さな音がした。氷が割れる音ではなく、もっと繊細な——糸が切れるような音だった。名前の光が隙間から溢れ、井戸(いど)の内壁を淡く照らした。黒い石が、一瞬だけ温かい色に染まった。

こよいは井戸(いど)の縁(ふち)に両手を置いた。石越しに、底の温もりが伝わってくる。巾着(きんちゃく)も温かい。同じ周期で脈打っている。

井戸(いど)の中の名前と、巾着(きんちゃく)の中の神々が、呼吸を合わせていた。呼吸と呼ぶには静かすぎる脈動だったが、二つの温もりが同期しているのは確かだった。

「帰りたいんだね」

こよいが井戸(いど)に言った。罅(ひび)が、また一つ広がった。今度は音がしなかった。静かに、自然に、氷が開いていく。

「こよい」

久遠(くおん)が制した。

「感情を向けるな。不安定な氷に感情が伝われば、一気に崩壊(ほうかい)する。名前が氷の外に出てしまえば、この場所では理(ことわり)の保護もない。消える」

こよいは手を離した。だが、指先に残った温もりは消えなかった。石の冷たさの中に、名前の温度だけが指に染み込んでいる。

「でも、この子たち、自分で戻ろうとしてる。自分の意志で凍ったなら、自分の意志で溶けられるんでしょ」

久遠(くおん)は答えなかった。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が井戸(いど)の底を照らし続けている。光の粒が一つ、罅(ひび)の近くで止まり、まるで三人を見上げているように浮かんでいた。しばらくして、久遠(くおん)が小さく言った。

「理論上は」

あさひが井戸(いど)を見下ろした。

「理論はいい。実際に罅(ひび)が入ってる。この氷は、長くは持たない」

井戸(いど)の底で、名前の光が一つ、水面の直下まで浮き上がった。氷の薄い膜(まく)一枚を隔てて、こよいの目と光が向き合った。温かかった。すぐに沈んだ。

だが、浮き上がったという事実が残った。

おたまが井戸(いど)の縁(ふち)に跳び乗った。すると、氷の下の光がいくつか、ゆっくりと猫の真下へ集まってきた。薄い氷を挟んで、名前たちと猫が、しばらく静かに向き合っていた。おたまは急かさなかった。ただ、そこにいた。

こよいは巾着(きんちゃく)を握った。神々が応えるように脈打った。空から、また星が一つ落ちてきた。井戸(いど)の縁(ふち)に触れて、消えた。消えた場所の石が、ほんの一瞬だけ温かくなった。

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