深層から這い上がった三人を、忘却の海は元の岸へ吐き戻していた。金色の霧はもう失せ、白い霧の切れた先にあったのは、見覚えのある黒い石畳——星降町の北の外れだった。海が渡らせてくれるのは、夜明けの間だけらしい。次の夜明けを待つあいだに、確かめておきたい場所があった。
星降町の井戸は、通りの行き止まりにあった。黒い石で組まれた円形の井戸。前に訪れた、南の外れの砂と水の境の井戸とは別の——町の理の中心にあたる井戸だと、久遠は言った。南の町々の井戸とほぼ同じ形だったが、一つだけ違うことがあった。
蓋がなかった。
南の井戸には厚い氷の蓋があり、覗き込むにも蒼光を当てるにも手間がかかった。だがここでは、井戸の口がそのまま開いている。黒い石の縁が、行灯の白い光を映して鈍く光り、その内側はただ暗い。蓋がないことで、井戸の中から立ち昇る空気が直接顔に触れた。
「蓋が要らないほど、氷が弱いのか」
あさひが井戸の縁に手を掛けた。黒い石が冷たい。だが、井戸の中から上がってくる空気は、冷たさの中に微かな温もりを含んでいた。地下から吹き上がる息のような温もりだった。
「凍結が不完全だ」
久遠が義眼で井戸の内部を照らした。蒼光が壁面を下り、石の継ぎ目を一つずつ通過して、底に届いた。壁面の石にも罅が走り、黒い石の隙間から微かな光が漏れていた。底の氷は、南の井戸と全く違っていた。南の井戸の氷は堅く、青黒く、名前は完全に封じ込められていた。
だがここの氷は白く、薄い。そして——罅が入っていた。
「割れてる」
こよいが井戸の縁から身を乗り出した。両手で石の縁を掴み、上半身を井戸の上に傾ける。蒼光に照らされた氷の表面に、蜘蛛の巣のように細い罅が走っている。罅の奥から、名前の光が漏れていた。微かだが、確かに光っている。氷の表面に映る光が揺らいでいる。動いているのだ。
南の井戸では氷の奥深くに沈んで見えなかった光が、ここでは氷の表面近くまで浮き上がっていた。氷と光の距離が近い。手を伸ばせば触れられそうなほどに。
「名前が動いてる」
久遠が蒼光の角度を変えた。氷の中で、光の粒が緩やかに漂っている。完全に凍りついていない。半ば溶けかけた氷の中を、泳ぐように動いている。一つの光が氷の罅に近づき、罅の縁に触れては離れを繰り返していた。
「南の井戸とは氷の質が違う。ここの氷は、名前自身の意志で凍った氷だ」
「意志?」
「自発的な凍結。最初の神に倣って、自分から名前を差し出した者たちだ。強制ではなく、選んだ凍結は、氷が脆い」
久遠は目録の経蔵記述を確認した。頁の灰色が薄く、文字が鮮明に浮かんでいる。北に近づいた影響が、ここでも出ていた。
「経蔵の記録と一致する。凍結命令には二種類あった。『命じた凍結』と『従った凍結』。命じたのは最初の神。従ったのは、集められた神々の中で、最初に応じた者たちだ」
「応じた者と、応じなかった者がいた」
あさひが言葉を落とした。声は低く、石の壁に反響せずに沈んだ。
「応じなかった者は、後に強制された。その氷は堅い。応じた者の氷は、こうなる」
久遠が井戸の壁を指した。罅が一つ、目の前でわずかに広がった。広がる瞬間、小さな音がした。氷が割れる音ではなく、もっと繊細な——糸が切れるような音だった。名前の光が隙間から溢れ、井戸の内壁を淡く照らした。黒い石が、一瞬だけ温かい色に染まった。
こよいは井戸の縁に両手を置いた。石越しに、底の温もりが伝わってくる。巾着も温かい。同じ周期で脈打っている。
井戸の中の名前と、巾着の中の神々が、呼吸を合わせていた。呼吸と呼ぶには静かすぎる脈動だったが、二つの温もりが同期しているのは確かだった。
「帰りたいんだね」
こよいが井戸に言った。罅が、また一つ広がった。今度は音がしなかった。静かに、自然に、氷が開いていく。
「こよい」
久遠が制した。
「感情を向けるな。不安定な氷に感情が伝われば、一気に崩壊する。名前が氷の外に出てしまえば、この場所では理の保護もない。消える」
こよいは手を離した。だが、指先に残った温もりは消えなかった。石の冷たさの中に、名前の温度だけが指に染み込んでいる。
「でも、この子たち、自分で戻ろうとしてる。自分の意志で凍ったなら、自分の意志で溶けられるんでしょ」
久遠は答えなかった。義眼の蒼光が井戸の底を照らし続けている。光の粒が一つ、罅の近くで止まり、まるで三人を見上げているように浮かんでいた。しばらくして、久遠が小さく言った。
「理論上は」
あさひが井戸を見下ろした。
「理論はいい。実際に罅が入ってる。この氷は、長くは持たない」
井戸の底で、名前の光が一つ、水面の直下まで浮き上がった。氷の薄い膜一枚を隔てて、こよいの目と光が向き合った。温かかった。すぐに沈んだ。
だが、浮き上がったという事実が残った。
おたまが井戸の縁に跳び乗った。すると、氷の下の光がいくつか、ゆっくりと猫の真下へ集まってきた。薄い氷を挟んで、名前たちと猫が、しばらく静かに向き合っていた。おたまは急かさなかった。ただ、そこにいた。
こよいは巾着を握った。神々が応えるように脈打った。空から、また星が一つ落ちてきた。井戸の縁に触れて、消えた。消えた場所の石が、ほんの一瞬だけ温かくなった。
