北の腕の只中で、足元が変わった。 金色の霧が薄れ、地面だと思って踏んでいた白い層が、ふいに緩い斜面になった。滑り落ちたのではない。道そのものが、海の底へ向かって沈み込んでいた。気づいたときには、引き返すための上りが、もう霧に消えていた。
深い。
忘却の海の底は、こういう色をしていた。
白ではない。白は上層の色だった。ここまで降りると、色そのものがない。闇でもない。闇には黒がある。ここには黒すらなかった。視界に映るのは、何かが「あるべき場所」の輪郭だけだ。空気が透明すぎて、奥行きが掴めない。
「これが深層か」
あさひが呟いた。声は届いた。だが、反響しなかった。音が壁に当たらず、どこまでも直線に飛んでいく。返ってこない声。
久遠の義眼が蒼く灯った。目録を開く。頁の光が周囲を照らすはずだった。だが、光が拡散しない。蒼白い光は頁の表面だけを照らし、五寸先で消えた。
「光が届かない。忘却が光を吸っている」
久遠が目録を持つ手に力を込めた。義眼が明滅する。頁の文字がちらつき、配列が崩れかけている。
「目録がおかしい」
「文字の結合が弱まっている。ここでは記録を維持する力そのものが削がれる。長くはもたない」
こよいは巾着を握った。神々は熱かった。南の町を歩いていたときの温もりとは違う。指先を焼くような、鋭い熱。
それは突然だった。
こよいの頭の中から、何かが抜け落ちた。穴が空いたのではない。最初からなかったように、すとんと消えた。
自分の名前が出てこない。
口を開いた。喉が動いた。だが音にならなかった。言おうとした音が、舌の上で霧散する。「こ」まで出て、次が続かない。次の音が何だったのか、思い出せない。
巾着が燃えた。比喩ではなく、布越しに肌が焼けるほどの熱が走った。神々が沸騰するように脈打ち、こよいの掌を内側から叩いた。
名前が戻った。こよい。ぼくの名前は、こよい。
膝が笑い、その場にしゃがみ込んだ。呼吸が乱れている。額に汗が浮いている。忘却の海の深層は冷えているはずなのに、全身が熱かった。
「こよい」
あさひの声が上から降ってきた。こよいは顔を上げた。あさひが剣の柄を握ったまま、こちらを見下ろしている。
「大丈夫か」
「——うん。大丈夫。今、一瞬だけ、自分の名前が分からなくなった」
あさひの目が鋭くなった。
久遠が目録から顔を上げた。義眼の蒼光がちらつき、安定しない。
「名前の概念が溶け始めている。ここは忘却の海の最深部だ。上層では忘れられた名前が沈む。だが深層では、名前という仕組みそのものが機能しない」
「仕組み?」
「名前とは、存在に付けられた標だ。標を維持するには、覚えている者が必要になる。深層には覚えている者がいない。だから標が外れる」
こよいは巾着に手を当てた。神々の熱が引いていく。だが脈動は強い。見張っているように、規則正しく、強く打っている。
「神々が教えてくれた。名前を忘れかけたとき、熱くなって」
「神々だからな。名前の欠片だ。名前が消えかかると反応する」
あさひが、こよいの腕を掴んで引き起こした。
「立て。しゃがんでると沈む」
「沈む?」
「勘だ。でも、ここは底にいるやつを引きずり込む場所だろ。立ってるほうがまだいい」
こよいは立ち上がった。足の感覚が薄い。地面を踏んでいるのか、宙に浮いているのか、判別がつかない。
久遠が目録の頁を閉じようとして、止まった。
「待て。一行だけ、まだ読める」
蒼光が揺れる頁を照らした。文字の配列が崩れかけている中に、かろうじて一文が残っていた。
「『忘却の海は、理の産物にあらず。理に先行して存在す』」
あさひが眉を寄せた。
「理の前から、ここがあったってことか」
「そうだ。忘却の海は観測者が作ったものではない。理という仕組みが世界に組み込まれる前から、名前が忘れられる場所は存在していた。観測者はこれを利用しただけだ」
「利用?」
「名前を凍結して、忘却の海に沈める。自然の忘却に任せれば、いずれ名前は完全に消える。観測者は氷で保存したが、氷が溶ければ同じことだ」
こよいは深層の空気を見つめた。色のない空間。名前の概念が溶ける場所。これは誰かが作ったのではない。世界が最初から持っていた穴だ。名前を呼ばなければ消える。覚えていなければ沈む。誰のせいでもない。ただ、そうなっている。
「だったら——名前を忘れないためには、呼び続けるしかないんだね」
こよいが言った。
久遠は目録を閉じた。文字がこれ以上崩れる前に。
「ここを出る。深層に長居すれば、目録が壊れる」
「もう少し——」
「駄目だ。こよい、お前の名前が一度消えた。次は消えたまま戻らないかもしれない」
こよいは口を閉じた。
あさひがこよいの名前を呼んだ。
「こよい」
ただ呼んだだけだった。意味はない。用事もない。ただ名前を声にして、空気に刻んだ。
「——うん」
「返事ができるうちは大丈夫だ。行くぞ」
三人は上層へ向かって歩き始めた。深層の空気が足首に絡む。粘るのではない。引力があるのだ。沈んだものを手放さない、静かで絶対的な引力。
こよいは巾着を握り、神々の熱を確かめた。まだ温かい。名前はまだここにある。
背後を振り返ると、深層は何も映さない透明のまま広がっていた。あの中に、どれだけの名前が沈んだのだろう。観測者に凍結される前から、誰にも呼ばれなかった名前が、音もなく溶けていったのだろう。
あさひが再び呼んだ。
「こよい。前を向け」
「うん」
こよいは前を向いた。上層の白い霧が見えてきた。あの白が、今は安心に思える。白には色がある。色があるということは、何かが在るということだ。
久遠は目録を胸に抱えていた。義眼の蒼光が安定を取り戻しつつある。深層から離れれば、文字も戻る。記録は壊れていない。
「覚えておけ」
久遠が歩きながら言った。
「忘却の海は、敵ではない。世界の構造だ。水が低きに流れるのと同じで、名前は呼ばれなければ沈む。観測者を倒しても、忘却の海は消えない」
「消えなくていい」
こよいが答えた。
「名前を呼べばいいんだ。沈まないように。忘れないように。ずっと呼び続ければいい」
あさひが鼻を鳴らした。
「ずっとは長えぞ」
「だから三人いるんでしょ。一人が忘れても、誰かが覚えてる」
上りの道を見つけたのは、おたまだった。無色の中でも、猫の三毛の輪郭だけはまるで薄れなかった。その色を目印に、三人は登った。
白い霧に包まれた。深層の透明な空気が背後に退き、見慣れた忘却の海の白が戻ってくる。
こよいは自分の名前を、声に出さずに唇だけで確かめた。こよい。まだある。まだ消えていない。
神々が穏やかに脈打った。答えるように。覚えているよ、と言うように。
