第261話 忘却の海の深層
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第261話 忘却の海の深層

第9章 地図の折返し

北の腕の只中で、足元が変わった。  金色の霧(きり)が薄れ、地面だと思って踏んでいた白い層が、ふいに緩い斜面になった。滑り落ちたのではない。道そのものが、海の底へ向かって沈み込んでいた。気づいたときには、引き返すための上りが、もう霧(きり)に消えていた。

深い。

忘却(ぼうきゃく)の海の底は、こういう色をしていた。

白ではない。白は上層の色だった。ここまで降りると、色そのものがない。闇でもない。闇には黒がある。ここには黒すらなかった。視界に映るのは、何かが「あるべき場所」の輪郭(りんかく)だけだ。空気が透明すぎて、奥行きが掴(つか)めない。

「これが深層(しんそう)か」

あさひが呟(つぶや)いた。声は届いた。だが、反響しなかった。音が壁に当たらず、どこまでも直線に飛んでいく。返ってこない声。

久遠(くおん)の義眼(ぎがん)が蒼く灯(とも)った。目録(もくろく)を開く。頁(ページ)の光が周囲を照らすはずだった。だが、光が拡散しない。蒼白い光は頁(ページ)の表面だけを照らし、五寸先で消えた。

「光が届かない。忘却(ぼうきゃく)が光を吸っている」

久遠(くおん)が目録(もくろく)を持つ手に力を込めた。義眼(ぎがん)が明滅する。頁(ページ)の文字がちらつき、配列が崩れかけている。

「目録(もくろく)がおかしい」

「文字の結合が弱まっている。ここでは記録を維持する力そのものが削がれる。長くはもたない」

こよいは巾着(きんちゃく)を握った。神々は熱かった。南の町を歩いていたときの温もりとは違う。指先を焼くような、鋭い熱。

それは突然だった。

こよいの頭の中から、何かが抜け落ちた。穴が空いたのではない。最初からなかったように、すとんと消えた。

自分の名前が出てこない。

口を開いた。喉(のど)が動いた。だが音にならなかった。言おうとした音が、舌の上で霧散する。「こ」まで出て、次が続かない。次の音が何だったのか、思い出せない。

巾着(きんちゃく)が燃えた。比喩(ひゆ)ではなく、布越しに肌が焼けるほどの熱が走った。神々が沸騰(ふっとう)するように脈打ち、こよいの掌(てのひら)を内側から叩(たた)いた。

名前が戻った。こよい。ぼくの名前は、こよい。

膝が笑い、その場にしゃがみ込んだ。呼吸が乱れている。額に汗が浮いている。忘却(ぼうきゃく)の海の深層(しんそう)は冷えているはずなのに、全身が熱かった。

「こよい」

あさひの声が上から降ってきた。こよいは顔を上げた。あさひが剣の柄(つか)を握ったまま、こちらを見下ろしている。

「大丈夫か」

「——うん。大丈夫。今、一瞬だけ、自分の名前が分からなくなった」

あさひの目が鋭くなった。

久遠(くおん)が目録(もくろく)から顔を上げた。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)がちらつき、安定しない。

「名前の概念(がいねん)が溶け始めている。ここは忘却(ぼうきゃく)の海の最深部だ。上層では忘れられた名前が沈む。だが深層(しんそう)では、名前という仕組みそのものが機能しない」

「仕組み?」

「名前とは、存在に付けられた標(しるし)だ。標を維持するには、覚えている者が必要になる。深層(しんそう)には覚えている者がいない。だから標が外れる」

こよいは巾着(きんちゃく)に手を当てた。神々の熱が引いていく。だが脈動は強い。見張っているように、規則正しく、強く打っている。

「神々が教えてくれた。名前を忘れかけたとき、熱くなって」

「神々だからな。名前の欠片(かけら)だ。名前が消えかかると反応する」

あさひが、こよいの腕を掴(つか)んで引き起こした。

「立て。しゃがんでると沈む」

「沈む?」

「勘だ。でも、ここは底にいるやつを引きずり込む場所だろ。立ってるほうがまだいい」

こよいは立ち上がった。足の感覚が薄い。地面を踏んでいるのか、宙に浮いているのか、判別がつかない。

久遠(くおん)が目録(もくろく)の頁(ページ)を閉じようとして、止まった。

「待て。一行だけ、まだ読める」

蒼光(そうこう)が揺れる頁(ページ)を照らした。文字の配列が崩れかけている中に、かろうじて一文が残っていた。

「『忘却(ぼうきゃく)の海は、理(ことわり)の産物にあらず。理(ことわり)に先行して存在す』」

あさひが眉を寄せた。

「理(ことわり)の前から、ここがあったってことか」

「そうだ。忘却(ぼうきゃく)の海は観測者(かんそくしゃ)が作ったものではない。理(ことわり)という仕組みが世界に組み込まれる前から、名前が忘れられる場所は存在していた。観測者(かんそくしゃ)はこれを利用しただけだ」

「利用?」

「名前を凍結(とうけつ)して、忘却(ぼうきゃく)の海に沈める。自然の忘却(ぼうきゃく)に任せれば、いずれ名前は完全に消える。観測者(かんそくしゃ)は氷で保存したが、氷が溶ければ同じことだ」

こよいは深層(しんそう)の空気を見つめた。色のない空間。名前の概念(がいねん)が溶ける場所。これは誰かが作ったのではない。世界が最初から持っていた穴だ。名前を呼ばなければ消える。覚えていなければ沈む。誰のせいでもない。ただ、そうなっている。

「だったら——名前を忘れないためには、呼び続けるしかないんだね」

こよいが言った。

久遠(くおん)は目録(もくろく)を閉じた。文字がこれ以上崩れる前に。

「ここを出る。深層(しんそう)に長居すれば、目録(もくろく)が壊れる」

「もう少し——」

「駄目だ。こよい、お前の名前が一度消えた。次は消えたまま戻らないかもしれない」

こよいは口を閉じた。

あさひがこよいの名前を呼んだ。

「こよい」

ただ呼んだだけだった。意味はない。用事もない。ただ名前を声にして、空気に刻んだ。

「——うん」

「返事ができるうちは大丈夫だ。行くぞ」

三人は上層へ向かって歩き始めた。深層(しんそう)の空気が足首に絡む。粘るのではない。引力があるのだ。沈んだものを手放さない、静かで絶対的な引力。

こよいは巾着(きんちゃく)を握り、神々の熱を確かめた。まだ温かい。名前はまだここにある。

背後を振り返ると、深層(しんそう)は何も映さない透明のまま広がっていた。あの中に、どれだけの名前が沈んだのだろう。観測者(かんそくしゃ)に凍結(とうけつ)される前から、誰にも呼ばれなかった名前が、音もなく溶けていったのだろう。

あさひが再び呼んだ。

「こよい。前を向け」

「うん」

こよいは前を向いた。上層の白い霧(きり)が見えてきた。あの白が、今は安心に思える。白には色がある。色があるということは、何かが在るということだ。

久遠(くおん)は目録(もくろく)を胸に抱えていた。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が安定を取り戻しつつある。深層(しんそう)から離れれば、文字も戻る。記録は壊れていない。

「覚えておけ」

久遠(くおん)が歩きながら言った。

「忘却(ぼうきゃく)の海は、敵ではない。世界の構造だ。水が低きに流れるのと同じで、名前は呼ばれなければ沈む。観測者(かんそくしゃ)を倒しても、忘却(ぼうきゃく)の海は消えない」

「消えなくていい」

こよいが答えた。

「名前を呼べばいいんだ。沈まないように。忘れないように。ずっと呼び続ければいい」

あさひが鼻を鳴らした。

「ずっとは長えぞ」

「だから三人いるんでしょ。一人が忘れても、誰かが覚えてる」

上りの道を見つけたのは、おたまだった。無色の中でも、猫の三毛の輪郭(りんかく)だけはまるで薄れなかった。その色を目印に、三人は登った。

白い霧(きり)に包まれた。深層(しんそう)の透明な空気が背後に退き、見慣れた忘却(ぼうきゃく)の海の白が戻ってくる。

こよいは自分の名前を、声に出さずに唇だけで確かめた。こよい。まだある。まだ消えていない。

神々が穏やかに脈打った。答えるように。覚えているよ、と言うように。

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