第260話 海の夜明け
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第260話 海の夜明け

第9章 地図の折返し

星降町ほしふりまちの夜は、眠らせてくれなかった。空から落ちてくるのは星ではなく、凍結とうけつしきれなかった名前の欠片かけらだ。またたいて、落ちて、石畳いしだたみの上で消える。そのたびに、町のどこかで誰かが息を呑むような音がした気がした。

こよいは停車場ていしゃじょう軒下のきしたに座り、巾着きんちゃくひざに乗せていた。背中を黒い石の壁に預けている。壁の冷たさが背骨を通して全身に染みてくるが、巾着きんちゃくの温もりがそれを相殺そうさいしていた。

神々は静かだった。静かだけれど、冷えてはいない。熱を持っていない分、目を凝らせば、きっと言葉の形が見える気がした。月の神の光が巾着きんちゃくの布を薄く透かして、こよいの膝の上に小さな影を落としている。

「夜明けって、来るのかな」

こよいがつぶやくと、久遠くおんは壁の留め金の跡を見つめたまま答えた。義眼ぎがん蒼光そうこうが壁の傷を照らし、石の変色の境界を辿たどっている。

「来る。だが、南の夜明けとは違う。ここでの夜明けは、光が増えるんじゃない。『落ちる名前の数が減る』」

義眼ぎがんの蒼い光が、空を一度だけく。きりの向こうで、名前の欠片かけらがまた一つまたたいて消えた。

「落ちるのが止まると、何が起きるの?」

「静かになる。静かになった場所から、次の地図が引ける。だから、夜明けは都合がいい」

あさひは停車場ていしゃじょうの柱にもたれ、剣のさやを指で弾いた。乾いた金属音が黒い石の壁に反射し、硬い残響を返す。

「都合がいいなら、来い。来ないなら、こっちで作る」

乱暴な言い方に、こよいは少し笑った。笑うと息が白くなり、名前の光と一瞬だけ似た色になった。

直後、空が白んだ。きりが薄くなったのではない。ただ、落ちていた光が、落ちなくなった。石畳いしだたみに残っていた冷たいきらめきが一斉に沈み、町は急に「普通の夜」の顔をやめた。静寂が、質を変えた。名前が落ちる音がなくなっただけなのに、空気の密度そのものが変わったように感じる。

代わりに、遠くの行灯あんどんがひとつ、火の色を変えた。白い火が、ほんのりと薄いだいだいを帯びる。冷たい白の中に、初めて暖色が差した。行灯あんどん硝子ガラスの表面に、だいだいの光が結露のようににじんでいる。

こよいは息を吸った。冷たい空気が肺に入る。だが、さっきまでの刃物のような冷たさではない。冬の朝の、目覚める直前の空気に似ていた。

「……これが、夜明け」

久遠くおんが小さくうなずく。壁から背を離し、目録もくろくを懐にしまう動作に、いつもの正確さが戻っていた。

「行ける。今なら、境界きょうかいがまだ固い」

あさひが先に歩き出す。柱から背を離す動きによどみがなかった。こよいは巾着きんちゃくの温もりを確かめ、立ち上がった。ひざが少し強張こわばっていた。黒い石の上に長く座っていたせいだ。

星降町ほしふりまちの夜明けは、まぶしくない。ただ、落ちるものが止まる。その静けさが、次の一歩のための合図だった。

三人は町の北端へ向かった。石畳いしだたみが途切れ、道が土に変わる。黒い石の町が背後に退き、前方にはきりだけが広がっていた。黒い石畳いしだたみと土の道の境界は不思議なほど鮮明で、一歩ごとに足裏の感触が切り替わった。

忘却ぼうきゃくの海——星降町ほしふりまちを挟んで残っていた、北の腕だ。これを渡りきれば、海は本当に終わる。最後のひと渡りだった。

だが、夜明けの光がきりに差し込むと、きりの色が変わった。灰色が、淡い金色を帯びる。こよいはこれまで、忘却ぼうきゃくの海のきりが色を持つのを見たことがなかった。金色はきりの粒子一つ一つを照らし、空気そのものが輝いているように見えた。

「金色だ」

こよいが呟いた。

「朝だからだ。ことわりの制御が緩む時刻がある。その隙間で、本来の光が漏れる」

久遠くおん目録もくろくに何かを書き留めた。義眼ぎがん蒼光そうこうが、金色のきりと混じって、不思議な色になった。蒼と金が重なり、緑がかった光がページの上に落ちる。

あさひが目を細めた。遠く——きりの向こうに、何かが見える。

「おい。あれ」

あさひが指した方向を、こよいも見た。きりの切れ目だった。金色の光が一筋、低い角度で差し込み、その先に——色がある。灰色でも白でもない色。

緑だった。

濃い、深い、生きている緑。

「木?」

こよいの声がかすれた。

久遠くおん義眼ぎがんを凝らした。蒼い光が細くなり、遠くへ伸びる。

「樹木だ。針葉樹しんようじゅの群生。忘却ぼうきゃくの海の北岸に、森がある」

こよいの胸が締まった。忘却ぼうきゃくの海を歩いてから、どれだけの間、生きている植物を見ていなかっただろう。白いきりと、白い砂と、漂白ひょうはくされた記録だけの世界を歩いてきた。

それが今、目の前に緑がある。

「近いのか」

あさひが訊いた。声がいつもより低い。

「近い。だが、夜明けの間だけだ。日が高くなれば、きりが戻って見えなくなる」

久遠くおんの声にも、わずかに力が入った。

こよいは一歩を踏み出した。金色のきりが足元を流れ、靴の先を洗う。温かかった。忘却ぼうきゃくの海のきりが、初めて温かい。

緑はまだ遠い。けれど、確かにそこにある。見間違いでも、蜃気楼しんきろうでもない。生きている色が、この世界にまだ残っている。

巾着きんちゃくの中で、雨の神がひとつ、脈打った。強く。嬉しそうに。

おたまが、金色のきりの中を先に駆けていった。数歩先で立ち止まり、振り返る。急かすでもなく、待つでもなく、ただ「こっちだ」という顔をしている。夜明けの光が三毛の背を縁取り、猫のかたちが一瞬、小さな灯のように見えた。

三人は夜明けの金色の中を、北へ歩いた。緑はまだ遠い。それでも、遠いということは、届く距離だということでもあった。

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