星降町の夜は、眠らせてくれなかった。空から落ちてくるのは星ではなく、凍結しきれなかった名前の欠片だ。瞬いて、落ちて、石畳の上で消える。そのたびに、町のどこかで誰かが息を呑むような音がした気がした。
こよいは停車場の軒下に座り、巾着を膝に乗せていた。背中を黒い石の壁に預けている。壁の冷たさが背骨を通して全身に染みてくるが、巾着の温もりがそれを相殺していた。
神々は静かだった。静かだけれど、冷えてはいない。熱を持っていない分、目を凝らせば、きっと言葉の形が見える気がした。月の神の光が巾着の布を薄く透かして、こよいの膝の上に小さな影を落としている。
「夜明けって、来るのかな」
こよいが呟くと、久遠は壁の留め金の跡を見つめたまま答えた。義眼の蒼光が壁の傷を照らし、石の変色の境界を辿っている。
「来る。だが、南の夜明けとは違う。ここでの夜明けは、光が増えるんじゃない。『落ちる名前の数が減る』」
義眼の蒼い光が、空を一度だけ掃く。霧の向こうで、名前の欠片がまた一つ瞬いて消えた。
「落ちるのが止まると、何が起きるの?」
「静かになる。静かになった場所から、次の地図が引ける。だから、夜明けは都合がいい」
あさひは停車場の柱にもたれ、剣の鞘を指で弾いた。乾いた金属音が黒い石の壁に反射し、硬い残響を返す。
「都合がいいなら、来い。来ないなら、こっちで作る」
乱暴な言い方に、こよいは少し笑った。笑うと息が白くなり、名前の光と一瞬だけ似た色になった。
直後、空が白んだ。霧が薄くなったのではない。ただ、落ちていた光が、落ちなくなった。石畳に残っていた冷たいきらめきが一斉に沈み、町は急に「普通の夜」の顔をやめた。静寂が、質を変えた。名前が落ちる音がなくなっただけなのに、空気の密度そのものが変わったように感じる。
代わりに、遠くの行灯がひとつ、火の色を変えた。白い火が、ほんのりと薄い橙を帯びる。冷たい白の中に、初めて暖色が差した。行灯の硝子の表面に、橙の光が結露のように滲んでいる。
こよいは息を吸った。冷たい空気が肺に入る。だが、さっきまでの刃物のような冷たさではない。冬の朝の、目覚める直前の空気に似ていた。
「……これが、夜明け」
久遠が小さく頷く。壁から背を離し、目録を懐にしまう動作に、いつもの正確さが戻っていた。
「行ける。今なら、境界がまだ固い」
あさひが先に歩き出す。柱から背を離す動きに淀みがなかった。こよいは巾着の温もりを確かめ、立ち上がった。膝が少し強張っていた。黒い石の上に長く座っていたせいだ。
星降町の夜明けは、眩しくない。ただ、落ちるものが止まる。その静けさが、次の一歩のための合図だった。
三人は町の北端へ向かった。石畳が途切れ、道が土に変わる。黒い石の町が背後に退き、前方には霧だけが広がっていた。黒い石畳と土の道の境界は不思議なほど鮮明で、一歩ごとに足裏の感触が切り替わった。
忘却の海——星降町を挟んで残っていた、北の腕だ。これを渡りきれば、海は本当に終わる。最後のひと渡りだった。
だが、夜明けの光が霧に差し込むと、霧の色が変わった。灰色が、淡い金色を帯びる。こよいはこれまで、忘却の海の霧が色を持つのを見たことがなかった。金色は霧の粒子一つ一つを照らし、空気そのものが輝いているように見えた。
「金色だ」
こよいが呟いた。
「朝だからだ。理の制御が緩む時刻がある。その隙間で、本来の光が漏れる」
久遠が目録に何かを書き留めた。義眼の蒼光が、金色の霧と混じって、不思議な色になった。蒼と金が重なり、緑がかった光が頁の上に落ちる。
あさひが目を細めた。遠く——霧の向こうに、何かが見える。
「おい。あれ」
あさひが指した方向を、こよいも見た。霧の切れ目だった。金色の光が一筋、低い角度で差し込み、その先に——色がある。灰色でも白でもない色。
緑だった。
濃い、深い、生きている緑。
「木?」
こよいの声が掠れた。
久遠が義眼を凝らした。蒼い光が細くなり、遠くへ伸びる。
「樹木だ。針葉樹の群生。忘却の海の北岸に、森がある」
こよいの胸が締まった。忘却の海を歩いてから、どれだけの間、生きている植物を見ていなかっただろう。白い霧と、白い砂と、漂白された記録だけの世界を歩いてきた。
それが今、目の前に緑がある。
「近いのか」
あさひが訊いた。声がいつもより低い。
「近い。だが、夜明けの間だけだ。日が高くなれば、霧が戻って見えなくなる」
久遠の声にも、わずかに力が入った。
こよいは一歩を踏み出した。金色の霧が足元を流れ、靴の先を洗う。温かかった。忘却の海の霧が、初めて温かい。
緑はまだ遠い。けれど、確かにそこにある。見間違いでも、蜃気楼でもない。生きている色が、この世界にまだ残っている。
巾着の中で、雨の神がひとつ、脈打った。強く。嬉しそうに。
おたまが、金色の霧の中を先に駆けていった。数歩先で立ち止まり、振り返る。急かすでもなく、待つでもなく、ただ「こっちだ」という顔をしている。夜明けの光が三毛の背を縁取り、猫のかたちが一瞬、小さな灯のように見えた。
三人は夜明けの金色の中を、北へ歩いた。緑はまだ遠い。それでも、遠いということは、届く距離だということでもあった。
