第259話 名もなき歌
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第259話 名もなき歌

第9章 地図の折返し

岸辺の砂利(じゃり)の果てに、単線の停車場(ていしゃじょう)があった。乗るべき者の前に現れる霧列車(きりれっしゃ)は、北の辺境でも律儀に待っていた。ひと区間だけ乗った列車が三人を降ろしたのは——見覚えのある、はずの町だった。

星降町(ほしふりまち)。  南から辿(たど)り着いたあのときは、凍ることも溶けることもできない、宙吊りの水の町だった。けれど、いま目の前にある停車場(ていしゃじょう)は、記憶とはまるで違う顔をしていた。石が黒い。

柱も壁も床も、全てが濃い灰色から黒に近い色の石で組まれている。南の宿場は白い石が多かったが、ここでは石そのものが光を吸い込んでいるように見えた。手を近づけると、石の表面から冷気が立ち昇ってくるのが分かる。行灯(あんどん)の火が白い。

暖色ではなく、冷たい白。蒼白(そうはく)ですらない。ただの白だった。照らされた空間に温もりがなく、影だけが鮮明に落ちている。影の輪郭(りんかく)が硬い。南の町では影は滲(にじ)むように広がっていたが、ここでは刃物で切り取ったように鋭い。

「寒い」

こよいが腕を抱いた。南の霧(きり)は肌に纏(まつ)わりつくような湿り気があったが、ここの空気は乾いて、刃物のように冷たい。息が白い。吐いた息が、霧(きり)の粒子と混じらずに、そのまま消えていく。まるで息すらもこの場所に留まることを拒まれているかのようだった。

「北だな」

あさひが停車場(ていしゃじょう)の柱に手を当てた。石が冷たい。だが、冷たさの奥に微かな振動がある。指の腹を押し当てると、規則的な脈動が伝わってくる。石の内部で、何かが動いている。

「石が震えてる」

停車場(ていしゃじょう)の壁に、時刻表(じこくひょう)がなかった。南の停車場(ていしゃじょう)には必ず掛けられていた木の板——次の列車の行き先と時刻が墨書きされたもの——が、ここにはない。壁には留め金の跡だけが残っている。留め金の周囲だけ石の色が薄く、板があった輪郭が影のように壁に焼き付いていた。板は外されたのではなく、最初からなかったように見えた。

「定期便がない」

久遠(くおん)が壁の跡を見た。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が留め金の跡を照らし、石の変色の範囲を確認している。

「ここから先は、列車が来る時刻が決まっていない。来るときに来る。それだけだ」

「じゃあ、帰りは」

「来たときに乗る。でなければ、歩く」

久遠(くおん)の声は淡々としていた。こよいは停車場(ていしゃじょう)の出口を見た。石のアーチの向こうに、町の通りが伸びている。アーチの石にも黒い光沢があり、行灯(あんどん)の白い火を映して鈍く光っていた。

通りの石畳(いしだたみ)も黒い。行灯(あんどん)の白い火が点々と続いている。火の間隔は南の町より広く、行灯(あんどん)の間に深い闇が溜まっている。空を見上げた。霧(きり)がある。だが、霧(きり)の向こうに——光が見えた。小さな、鋭い光。

瞬(またた)いて、消えた。また別の場所で光って、消えた。

「星?」

こよいが呟いた。久遠(くおん)が空を見た。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)を細く絞り、光の粒を追いかける。

「名前だ。凍結(とうけつ)が不完全な名前が、理(ことわり)の隙間(すきま)から零れ落ちてくる。空中で一瞬だけ光って、また沈む」

「……前に来たときは、降っていなかった」

こよいが言うと、久遠(くおん)は空を見上げたまま頷(うなず)いた。

「宙吊りだった均衡が、壊れ始めている。俺たちが天秤(てんびん)を割ってから、世界のあちこちで、少しずつ。凍ることも溶けることもできなかった名前たちが、堪えきれずに零れ出した」

光がまた瞬(またた)いた。今度は近かった。石畳(いしだたみ)の五歩先に、淡い光の粒が落ちてきた。地面に触れる直前に消えた。消える瞬間、光の粒が微かに形を持ったように見えた。文字の一画。あるいは名前の最初の音。

こよいは手を伸ばした。届かなかった。

「触れないで」

久遠(くおん)が短く言う。

「不安定な名前だ。触れた瞬間に崩壊する可能性がある。崩壊すれば、もう二度と元には戻らない」

あさひは停車場(ていしゃじょう)の屋根の端に立ち、町の全容を見渡していた。南の町よりも小さい。建物が低く、密集している。だが、建物の間に隙間が多い。かつて建物があった場所が、今は空き地になっている。空き地の地面は周囲より少し窪(くぼ)んでいて、建物の基礎の跡が薄い線となって残っていた。

「歯が抜けた口みたいだな」

あさひが目を逸(そ)らさずに言った。

「消えたのか。建物ごと」

久遠(くおん)が頷(うなず)いた。

「理(ことわり)の制御が薄い地域では、名前だけでなく、場所も不安定になる。存在の土台が脆(もろ)い」

光がまた降ってきた。今度は三つ同時に。一つは屋根に当たり、黒い石の表面で弾けるように消えた。一つは通りの先に落ち、石畳(いしだたみ)を一瞬だけ淡く照らした。一つは——こよいの巾着(きんちゃく)のすぐ横を掠(かす)めた。巾着(きんちゃく)が跳ねるように脈打った。落ちてきた光は消えたが、巾着(きんちゃく)の温もりが一瞬、熱くなった。

「知ってる子だった?」

こよいが巾着(きんちゃく)に訊いた。神々は答えなかった。ただ、温もりがしばらくの間、高いままだった。知っているのか、覚えているのか、それとも同じ痛みを感じているだけなのか。こよいには分からなかった。

おたまが、降ってくる光を見上げていた。  一粒が、猫のすぐ前に落ちてきた。他の粒はみな地面に触れる前に消えたのに、その一粒だけは、おたまの鼻先で一拍だけ留まり——それから、安心したように消えた。猫は目を細めて、消えた場所をしばらく見ていた。

白い行灯(あんどん)の下を、三人は歩き始めた。黒い石畳(いしだたみ)に、名前の光が降り続けていた。

こよいは一度だけ振り返り、停車場(ていしゃじょう)のアーチを見た。黒い石の輪郭(りんかく)が、降る光に照らされて、一瞬だけ銀色に縁取られる。

歌はなかった。この町には、歌がない。

けれど、名前が落ちる音が——耳の奥で、旋律(せんりつ)に似た何かを結んでいた。名もなき歌。誰も歌っていないのに、聴こえる。

こよいは耳を澄ませたまま、歩き続けた。旋律(せんりつ)は消えない。消えないまま、胸の底に沈んでいく。忘れることのできない、名もなき歌だった。

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