岸辺の砂利の果てに、単線の停車場があった。乗るべき者の前に現れる霧列車は、北の辺境でも律儀に待っていた。ひと区間だけ乗った列車が三人を降ろしたのは——見覚えのある、はずの町だった。
星降町。 南から辿り着いたあのときは、凍ることも溶けることもできない、宙吊りの水の町だった。けれど、いま目の前にある停車場は、記憶とはまるで違う顔をしていた。石が黒い。
柱も壁も床も、全てが濃い灰色から黒に近い色の石で組まれている。南の宿場は白い石が多かったが、ここでは石そのものが光を吸い込んでいるように見えた。手を近づけると、石の表面から冷気が立ち昇ってくるのが分かる。行灯の火が白い。
暖色ではなく、冷たい白。蒼白ですらない。ただの白だった。照らされた空間に温もりがなく、影だけが鮮明に落ちている。影の輪郭が硬い。南の町では影は滲むように広がっていたが、ここでは刃物で切り取ったように鋭い。
「寒い」
こよいが腕を抱いた。南の霧は肌に纏わりつくような湿り気があったが、ここの空気は乾いて、刃物のように冷たい。息が白い。吐いた息が、霧の粒子と混じらずに、そのまま消えていく。まるで息すらもこの場所に留まることを拒まれているかのようだった。
「北だな」
あさひが停車場の柱に手を当てた。石が冷たい。だが、冷たさの奥に微かな振動がある。指の腹を押し当てると、規則的な脈動が伝わってくる。石の内部で、何かが動いている。
「石が震えてる」
停車場の壁に、時刻表がなかった。南の停車場には必ず掛けられていた木の板——次の列車の行き先と時刻が墨書きされたもの——が、ここにはない。壁には留め金の跡だけが残っている。留め金の周囲だけ石の色が薄く、板があった輪郭が影のように壁に焼き付いていた。板は外されたのではなく、最初からなかったように見えた。
「定期便がない」
久遠が壁の跡を見た。義眼の蒼光が留め金の跡を照らし、石の変色の範囲を確認している。
「ここから先は、列車が来る時刻が決まっていない。来るときに来る。それだけだ」
「じゃあ、帰りは」
「来たときに乗る。でなければ、歩く」
久遠の声は淡々としていた。こよいは停車場の出口を見た。石のアーチの向こうに、町の通りが伸びている。アーチの石にも黒い光沢があり、行灯の白い火を映して鈍く光っていた。
通りの石畳も黒い。行灯の白い火が点々と続いている。火の間隔は南の町より広く、行灯の間に深い闇が溜まっている。空を見上げた。霧がある。だが、霧の向こうに——光が見えた。小さな、鋭い光。
瞬いて、消えた。また別の場所で光って、消えた。
「星?」
こよいが呟いた。久遠が空を見た。義眼の蒼光を細く絞り、光の粒を追いかける。
「名前だ。凍結が不完全な名前が、理の隙間から零れ落ちてくる。空中で一瞬だけ光って、また沈む」
「……前に来たときは、降っていなかった」
こよいが言うと、久遠は空を見上げたまま頷いた。
「宙吊りだった均衡が、壊れ始めている。俺たちが天秤を割ってから、世界のあちこちで、少しずつ。凍ることも溶けることもできなかった名前たちが、堪えきれずに零れ出した」
光がまた瞬いた。今度は近かった。石畳の五歩先に、淡い光の粒が落ちてきた。地面に触れる直前に消えた。消える瞬間、光の粒が微かに形を持ったように見えた。文字の一画。あるいは名前の最初の音。
こよいは手を伸ばした。届かなかった。
「触れないで」
久遠が短く言う。
「不安定な名前だ。触れた瞬間に崩壊する可能性がある。崩壊すれば、もう二度と元には戻らない」
あさひは停車場の屋根の端に立ち、町の全容を見渡していた。南の町よりも小さい。建物が低く、密集している。だが、建物の間に隙間が多い。かつて建物があった場所が、今は空き地になっている。空き地の地面は周囲より少し窪んでいて、建物の基礎の跡が薄い線となって残っていた。
「歯が抜けた口みたいだな」
あさひが目を逸らさずに言った。
「消えたのか。建物ごと」
久遠が頷いた。
「理の制御が薄い地域では、名前だけでなく、場所も不安定になる。存在の土台が脆い」
光がまた降ってきた。今度は三つ同時に。一つは屋根に当たり、黒い石の表面で弾けるように消えた。一つは通りの先に落ち、石畳を一瞬だけ淡く照らした。一つは——こよいの巾着のすぐ横を掠めた。巾着が跳ねるように脈打った。落ちてきた光は消えたが、巾着の温もりが一瞬、熱くなった。
「知ってる子だった?」
こよいが巾着に訊いた。神々は答えなかった。ただ、温もりがしばらくの間、高いままだった。知っているのか、覚えているのか、それとも同じ痛みを感じているだけなのか。こよいには分からなかった。
おたまが、降ってくる光を見上げていた。 一粒が、猫のすぐ前に落ちてきた。他の粒はみな地面に触れる前に消えたのに、その一粒だけは、おたまの鼻先で一拍だけ留まり——それから、安心したように消えた。猫は目を細めて、消えた場所をしばらく見ていた。
白い行灯の下を、三人は歩き始めた。黒い石畳に、名前の光が降り続けていた。
こよいは一度だけ振り返り、停車場のアーチを見た。黒い石の輪郭が、降る光に照らされて、一瞬だけ銀色に縁取られる。
歌はなかった。この町には、歌がない。
けれど、名前が落ちる音が——耳の奥で、旋律に似た何かを結んでいた。名もなき歌。誰も歌っていないのに、聴こえる。
こよいは耳を澄ませたまま、歩き続けた。旋律は消えない。消えないまま、胸の底に沈んでいく。忘れることのできない、名もなき歌だった。
