影が、こちらを見ている。 霧の向こうで、人の形をした何かが、じっとこちらを見ている。
「……お前は、誰だ」
その問いが、もう一度響いた。 低い声。威圧的な声。でも、敵意は……感じない。
こよいは、唇を噛んだ。 名乗れない。名乗ってはいけない。 ここで名乗れば、記録される。固定される。
巾着が、氷のように冷たい。 神々が震えている。でも、声を上げない。 こよいと一緒に、息を殺している。
沈黙が、続いた。 霧が、ゆっくりと流れている。 時間が、止まったように長い。
「……名乗らぬか」
影の声が、変わった。 威圧が、消えている。
こよいは、何も言わなかった。 ただ、巾着を握りしめていた。
影が、一歩後ろに下がった。 距離が、開いていく。
「……名を持たぬ者は、通れ」
その言葉に、こよいは目を見開いた。 通れ?
「……名乗れば、ここに留められる」
影の声が、淡々と続いた。
「……名を持たぬまま通る者だけが、谷を越えられる」
こよいは、ようやく理解した。 これは、試験だったのだ。 名乗るかどうかの、試験。
「……あなたは」
こよいは、小さく聞いた。
「……何者なの」
「……境を守る者だ」
影は、それだけ答えた。
「……名は、ない。ここにいる限り、名を持つことはできない」
境を守る者。 名無しの谷の、番人。
「……行け」
影が、道を開けた。
「……谷底を越えれば、出口がある」
こよいは、深く頭を下げた。 何と言えばいいか、分からなかった。でも、感謝の気持ちだけは、伝えたかった。
「……ありがとう」
影は、何も言わなかった。 霧の中で、ゆっくりと薄れていく。 やがて、完全に見えなくなった。
◇
谷底に、小さな広場があった。 岩が点在している。苔むした古い岩。 霧は、ここでは少し薄い。視界が、十メートルほどある。
こよいは、岩に腰を下ろした。 足が、震えている。緊張が、ようやく解けていく。
「……こわかった」
声が、かすれていた。
「……本当に、こわかった」
「……うん」
祠の神の声。
「……ぼくたちも」
空き地の神の声。
巾着が、少しずつ温かくなっていく。 神々も、安堵している。
こよいは、竹筒から水を飲んだ。 冷たい水が、喉を潤していく。 生きている。まだ、生きている。
しばらく、じっとしていた。 息を整える。心を落ち着ける。 霧が、ゆっくりと流れている。遠くで、水の音がする。
「……ねえ」
こよいは、巾着に話しかけた。
「……祠は、どんな場所だったの」
「……え」
祠の神の声が、戸惑っている。
「……前の場所。ぼくが見つける前の、祠」
こよいは、岩に背を預けた。
「……聞いてもいい?」
沈黙。 それから、祠の神の声が、小さく聞こえた。
「……むかし、のこと、きく?」
「……うん。聞きたい」
また、沈黙。 巾着が、少しだけ重くなった。 祠が、何かを思い出そうとしている。
「……むかしは」
祠の神の声が、ゆっくりと始まった。
「……ひとが、たくさん、きたんだ」
◇
「……こどもたちが、はしりまわって」
祠の神の声が、続いた。
「……おじいさんが、おさけを、おいて」
「……おばあさんが、おこめを、おいて」
こよいは、目を閉じた。 祠の言葉が、映像になって浮かんでくる。
小さな祠。 山の中腹にある、小さな祠。 石段があって、屋根があって、鈴がある。
子供たちが走り回っている。 笑い声が響いている。 老人が手を合わせている。若者が酒を供えている。
「……にぎやかだった」
祠の神の声に、温かさがあった。
「……まいにち、だれか、きてくれた」
「……ありがとう、って、いってくれた」
「……嬉しかった?」
こよいは聞いた。
「……うん」
祠の神の声が、震えた。
「……とても」
◇
「……でも」
祠の神の声が、変わった。 少しずつ、冷たくなっていく。
「……すこしずつ、こなくなった」
こよいは、黙って聞いていた。
「……まいにち、だったのが、まいしゅうに」
「……まいしゅう、だったのが、まいつきに」
「……まいつき、だったのが、まいとしに」
祠の神の声が、途切れた。 しばらくして、また続いた。
「……わかいひとが、やまを、おりていった」
「……むらが、ちいさくなった」
「……おじいさんも、おばあさんも、いなくなった」
こよいは、胸が締め付けられるのを感じた。 村の過疎化。 若者が出ていき、老人が亡くなり、人がいなくなる。 山の祠は、忘れられていく。
「……さいごに、きてくれたひと」
祠の神の声が、かすれた。
「……おばあさん、だった」
「……『もう、こられなくなるよ』って」
「……『ごめんね』って」
空き地の神が、静かにしている。 こよいも、何も言えなかった。
「……それから」
祠の神の声が、小さくなった。
「……だれも、こなくなった」
◇
「……さびしかった?」
こよいは、そっと聞いた。
「……うん」
祠の神の声。
「……とても」
沈黙。 霧が、ゆっくりと流れている。 遠くの水の音が、かすかに聞こえる。
「……まいにち、まってた」
祠の神の声が続いた。
「……きょうは、だれか、くるかなって」
「……あしたは、だれか、くるかなって」
「……でも、だれも、こなかった」
こよいは、巾着を握りしめた。 温かい。祠の感情が、伝わってくる。 寂しさ。孤独。それでも消えなかった、小さな希望。
「……なんねんも、なんねんも、まってた」
祠の神の声が、震えていた。
「……いつか、だれかが、きてくれるって」
「……しんじてた」
「……それで」
こよいは聞いた。
「……ぼくが来た?」
「……うん」
祠の神の声が、明るくなった。
「……きみが、きてくれた」
こよいは、自分が祠を見つけた日を思い出した。 壊れかけた祠。誰もいない山の中。 しるしの小さな石が、祠の裏に転がっていた。
「……うれしかった」
祠の神の声。
「……やっと、きてくれたって」
「……ずっと、まってたんだって、おもった」
「……だから」
祠の神の声が、一度止まった。 それから、はっきりと言った。
「……だから、ぼくは待っていた」
その言葉が、胸に染みた。 何年も、何十年も。 誰も来ない山の中で、ずっと待っていた。 それでも、信じていた。いつか、誰かが来ると。
こよいは、目頭が熱くなるのを感じた。 泣いてはいけない。でも、涙が出そうになる。
「……ありがとう」
こよいは、小さく言った。
「……待っていてくれて」
「……うん」
祠の神の声が、穏やかに答えた。
「……きみに、あえて、よかった」
巾着が、温かい。 祠の気持ちが、伝わってくる。 長い孤独の後の、安堵と喜び。
こよいは、その温かさを、しっかりと受け止めた。
