谷が、目の前に広がっていた。 底が見えない。白い霧が、谷全体を覆い尽くしている。
「……ここを、越えるの」
こよいは、谷の縁に立って問いかけた。
「……うん」
祠の神の声。
「……なのないたに」
空き地の神の声が続いた。
名無しの谷。 長が言っていた名前だ。正確には、名前がない場所だと。
「……なまえが、とける」
祠の神の声が、低く警告した。
「……とける?」
「……ここは、きょうかいの、ちからが、あつまってる」
空き地の神の声。
「……なまえが、あいまいになる」
こよいは、谷を見下ろした。 霧が揺れている。底から湧き上がってくるように、ゆっくりと渦を巻いている。 冷たい風が、頬を撫でていった。
「……行くしかないんだよね」
「……うん」
「……きをつけて」
一歩、踏み出した。 細い獣道が、谷の斜面を下っている。 足元が不安定だ。土が湿っている。
◇
下り始めて、しばらく経った。 霧が、濃くなっている。
さっきまで二十メートルは見えていた視界が、今は十メートルほどしかない。 木々の輪郭がぼやけている。 自分の足音だけが、やけに大きく聞こえる。
「……静かだね」
こよいは、独り言のように呟いた。 鳥の声もない。虫の音もない。 ただ、霧だけが、そこにある。
「……ここは、おとが、すいこまれる」
祠の神の声。
「……はんきょう、しない」
足を止めた。 周囲を見回す。 どちらから来たのか、分からなくなっている。 上を見ても、霧で空が見えない。
方向感覚が、曖昧になっている。
「……大丈夫」
こよいは、自分に言い聞かせた。
「……下に向かえばいい。下って、越えれば」
また、歩き始めた。
◇
頭が、ぼんやりしてきた。
足は動いている。下っている。それは分かる。でも、何か、おかしい。
自分の名前が……
「……こ……」
口に出そうとした。 出てこない。
「……こ、よ……」
舌が、もつれる。 知っているはずなのに。自分の名前なのに。
「……っ」
こよいは、立ち止まった。 頭を抱える。
名前が、思い出せない。 いや、思い出せる。でも、口に出せない。 喉の奥で、何かが引っかかっている。
「……なに、これ」
声が震えていた。
「……なのらないで」
祠の神の声が、強く響いた。
「……え」
「……なのっては、いけない」
空き地の神の声も。
名乗ってはいけない? 自分の名前を?
「……なんで」
こよいは聞いた。
「……ここで、なのると」
祠の神の声が、低くなった。
「……きろく、される」
記録される。
その言葉に、背筋が凍った。 同時に、ある人の顔が頭をよぎった。
しおりさん。
あの人も、記録をしていた。手帳にペンを走らせ、世界を書き留めていた。でも、あの人の記録は、もっと温かかった気がする。 忘れないための、消さないための記録。
対して、観測者の言う「記録」は、捕まえるためのものだ。
逃がさないための、変えさせないための記録。
同じ言葉なのに、まるで意味が違う。
観測者。 記録する者。測る者。 名前を口にすれば、それは記録される。固定される。
「……だから、なまえが、とける」
空き地の神の声。
「……まもってる、んだ」
「……この、たにが」
谷が、守っている。 名前を曖昧にすることで、記録から逃れさせている。 だから、名無しの谷。
こよいは、ゆっくりと息を吐いた。 頭がぼんやりするのは、谷の力だ。 名前が出てこないのも、谷の力だ。
怖い。でも、敵じゃない。
「……分かった」
こよいは、頷いた。
「……名乗らない」
◇
さらに下った。 霧が、もっと濃くなっている。
視界は、五メートルもない。 自分の手を伸ばせば、指先がぼやけて見える。 白い世界。音のない世界。
自分が誰か、分からなくなりそうだ。
名前だけじゃない。 どこから来たのか。何をしているのか。 全部が、曖昧になっていく。
「……ぼくは」
口を開きかけた。 止まった。
名乗ってはいけない。でも、自分が誰か、確かめたい。 確かめないと、溶けてしまいそうだ。
「……巾着」
こよいは、胸元の巾着を握った。 冷たい。でも、そこにある。
「……ここに、いる。ぼくは、ここにいる」
「……いるよ」
祠の神の声。
「……いっしょに、いる」
空き地の神の声。
二人の声が、こよいを繋ぎ止めている。 名前がなくても、存在はある。 声が聞こえる限り、消えない。
「……ありがとう」
こよいは、かすれた声で言った。
「……もう、すこし」
祠の神の声が囁いた。
「……このさきに、でぐち」
出口。 谷の底を越えれば、出口がある。 そこまで、行けばいい。
こよいは、また歩き始めた。 霧の中を、一歩ずつ。
名前を忘れても、足は動く。 誰かが一緒にいれば、歩いていける。
◇
どれくらい歩いたのか、分からない。 時間の感覚も、曖昧になっている。
ただ、下っている。 谷底に向かって、下り続けている。
霧が、少しだけ薄くなった気がした。 視界が、六メートルくらいまで広がっている。
「……もう、すぐ」
空き地の神の声。
その時だった。
前方に、影が見えた。 人の形。 立っている。
こよいは、足を止めた。 心臓が、跳ね上がる。
誰? 観測者?
「……っ」
声が出ない。 出してはいけない。名乗ってはいけない。
影が、動いた。 こちらを向いた。
顔が、見えない。 霧で、ぼやけている。でも、確かに、そこにある。
影が、口を開いた。
「……お前は、誰だ」
声が響いた。 低い声。男の声。
こよいは、答えられなかった。 名乗れない。名乗ってはいけない。
「……答えろ」
影が、一歩近づいた。
「……ここで、何をしている」
巾着が、凍りついたように冷たくなった。 神々が、震えている。
「……なのっては」
祠の神の声が、かすかに聞こえた。
「……いけない」
こよいは、唇を噛んだ。 答えられない。でも、逃げることもできない。
影が、また一歩近づいた。 距離は、三メートルもない。
「……最後に聞く」
影の声が、低く響いた。
「……お前は、誰だ」
霧が、揺れた。 白い世界の中で、二つの存在が対峙している。
こよいは、巾着を握りしめた。 名乗れない。でも、ここにいる。 それだけは、確かだ。
「……ここで名乗ってはいけない」
その言葉が、頭の中で響いていた。
