第025話 名無しの谷
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第025話 名無しの谷

第1章 霧の序章

谷が、目の前に広がっていた。  底が見えない。白い霧が、谷全体を覆い尽くしている。

「……ここを、越えるの」

こよいは、谷の縁に立って問いかけた。

「……うん」

ほこらの神の声。

「……なのないたに」

空き地の神の声が続いた。

名無しのななしのたに。  おさが言っていた名前だ。正確には、名前がない場所だと。

「……なまえが、とける」

ほこらの神の声が、低く警告した。

「……とける?」

「……ここは、きょうかいの、ちからが、あつまってる」

空き地の神の声。

「……なまえが、あいまいになる」

こよいは、谷を見下ろした。  霧が揺れている。底から湧き上がってくるように、ゆっくりとうずいている。  冷たい風が、頬を撫でていった。

「……行くしかないんだよね」

「……うん」

「……きをつけて」

一歩、踏み出した。  細い獣道けものみちが、谷の斜面を下っている。  足元が不安定だ。土が湿っている。

下り始めて、しばらく経った。  霧が、濃くなっている。

さっきまで二十メートルは見えていた視界が、今は十メートルほどしかない。  木々の輪郭りんかくがぼやけている。  自分の足音だけが、やけに大きく聞こえる。

「……静かだね」

こよいは、独り言のように呟いた。  鳥の声もない。虫の音もない。  ただ、霧だけが、そこにある。

「……ここは、おとが、すいこまれる」

ほこらの神の声。

「……はんきょう、しない」

足を止めた。  周囲を見回す。  どちらから来たのか、分からなくなっている。  上を見ても、霧で空が見えない。

方向感覚ほうこうかんかくが、曖昧になっている。

「……大丈夫」

こよいは、自分に言い聞かせた。

「……下に向かえばいい。下って、越えれば」

また、歩き始めた。

頭が、ぼんやりしてきた。

足は動いている。下っている。それは分かる。でも、何か、おかしい。

自分の名前が……

「……こ……」

口に出そうとした。  出てこない。

「……こ、よ……」

舌が、もつれる。  知っているはずなのに。自分の名前なのに。

「……っ」

こよいは、立ち止まった。  頭を抱える。

名前が、思い出せない。  いや、思い出せる。でも、口に出せない。  喉の奥で、何かが引っかかっている。

「……なに、これ」

声が震えていた。

「……なのらないで」

ほこらの神の声が、強く響いた。

「……え」

「……なのっては、いけない」

空き地の神の声も。

名乗ってはいけない?  自分の名前を?

「……なんで」

こよいは聞いた。

「……ここで、なのると」

ほこらの神の声が、低くなった。

「……きろく、される」

記録される。

その言葉に、背筋が凍った。  同時に、ある人の顔が頭をよぎった。

しおりさん。

あの人も、記録をしていた。手帳にペンを走らせ、世界を書き留めていた。でも、あの人の記録は、もっと温かかった気がする。  忘れないための、消さないための記録。

対して、観測者かんそくしゃの言う「記録」は、捕まえるためのものだ。

逃がさないための、変えさせないための記録。

同じ言葉なのに、まるで意味が違う。

観測者かんそくしゃ。  記録する者。測る者。  名前を口にすれば、それは記録される。固定こていされる。

「……だから、なまえが、とける」

空き地の神の声。

「……まもってる、んだ」

「……この、たにが」

谷が、守っている。  名前を曖昧にすることで、記録から逃れさせている。  だから、名無しのななしのたに

こよいは、ゆっくりと息を吐いた。  頭がぼんやりするのは、谷の力だ。  名前が出てこないのも、谷の力だ。

怖い。でも、敵じゃない。

「……分かった」

こよいは、頷いた。

「……名乗らない」

さらに下った。  霧が、もっと濃くなっている。

視界は、五メートルもない。  自分の手を伸ばせば、指先がぼやけて見える。  白い世界。音のない世界。

自分が誰か、分からなくなりそうだ。

名前だけじゃない。  どこから来たのか。何をしているのか。  全部が、曖昧になっていく。

「……ぼくは」

口を開きかけた。  止まった。

名乗ってはいけない。でも、自分が誰か、確かめたい。  確かめないと、溶けてしまいそうだ。

「……巾着きんちゃく

こよいは、胸元の巾着きんちゃくを握った。  冷たい。でも、そこにある。

「……ここに、いる。ぼくは、ここにいる」

「……いるよ」

ほこらの神の声。

「……いっしょに、いる」

空き地の神の声。

二人の声が、こよいを繋ぎ止めている。  名前がなくても、存在はある。  声が聞こえる限り、消えない。

「……ありがとう」

こよいは、かすれた声で言った。

「……もう、すこし」

ほこらの神の声が囁いた。

「……このさきに、でぐち」

出口。  谷の底を越えれば、出口がある。  そこまで、行けばいい。

こよいは、また歩き始めた。  霧の中を、一歩ずつ。

名前を忘れても、足は動く。  誰かが一緒にいれば、歩いていける。

どれくらい歩いたのか、分からない。  時間の感覚も、曖昧になっている。

ただ、下っている。  谷底に向かって、下り続けている。

霧が、少しだけ薄くなった気がした。  視界が、六メートルくらいまで広がっている。

「……もう、すぐ」

空き地の神の声。

その時だった。

前方に、影が見えた。  人の形。  立っている。

こよいは、足を止めた。  心臓が、跳ね上がる。

誰?  観測者かんそくしゃ

「……っ」

声が出ない。  出してはいけない。名乗ってはいけない。

影が、動いた。  こちらを向いた。

顔が、見えない。  霧で、ぼやけている。でも、確かに、そこにある。

影が、口を開いた。

「……お前は、誰だ」

声が響いた。  低い声。男の声。

こよいは、答えられなかった。  名乗れない。名乗ってはいけない。

「……答えろ」

影が、一歩近づいた。

「……ここで、何をしている」

巾着きんちゃくが、凍りついたように冷たくなった。  神々が、震えている。

「……なのっては」

ほこらの神の声が、かすかに聞こえた。

「……いけない」

こよいは、唇を噛んだ。  答えられない。でも、逃げることもできない。

影が、また一歩近づいた。  距離は、三メートルもない。

「……最後に聞く」

影の声が、低く響いた。

「……お前は、誰だ」

霧が、揺れた。  白い世界の中で、二つの存在が対峙たいじしている。

こよいは、巾着きんちゃくを握りしめた。  名乗れない。でも、ここにいる。  それだけは、確かだ。

「……ここで名乗ってはいけない」

その言葉が、頭の中で響いていた。

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