第025話 名無しの谷
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第025話 名無しの谷

第1章 霧の序章

谷が、目の前に広がっていた。  底が見えない。白い霧が、谷全体を覆い尽くしている。

「……ここを、越えるの」

こよいは、谷の縁に立って問いかけた。

「……うん」

祠(ほこら)の神の声。

「……なのないたに」

空き地の神の声が続いた。

名無しの谷(ななしのたに)。  長(おさ)が言っていた名前だ。正確には、名前がない場所だと。

「……なまえが、とける」

祠(ほこら)の神の声が、低く警告した。

「……とける?」

「……ここは、きょうかいの、ちからが、あつまってる」

空き地の神の声。

「……なまえが、あいまいになる」

こよいは、谷を見下ろした。  霧が揺れている。底から湧き上がってくるように、ゆっくりと渦(うず)を巻(ま)いている。  冷たい風が、頬を撫でていった。

「……行くしかないんだよね」

「……うん」

「……きをつけて」

一歩、踏み出した。  細い獣道(けものみち)が、谷の斜面を下っている。  足元が不安定だ。土が湿っている。

◇

下り始めて、しばらく経った。  霧が、濃くなっている。

さっきまで二十メートルは見えていた視界が、今は十メートルほどしかない。  木々の輪郭(りんかく)がぼやけている。  自分の足音だけが、やけに大きく聞こえる。

「……静かだね」

こよいは、独り言のように呟いた。  鳥の声もない。虫の音もない。  ただ、霧だけが、そこにある。

「……ここは、おとが、すいこまれる」

祠(ほこら)の神の声。

「……はんきょう、しない」

足を止めた。  周囲を見回す。  どちらから来たのか、分からなくなっている。  上を見ても、霧で空が見えない。

方向感覚(ほうこうかんかく)が、曖昧になっている。

「……大丈夫」

こよいは、自分に言い聞かせた。

「……下に向かえばいい。下って、越えれば」

また、歩き始めた。

◇

頭が、ぼんやりしてきた。

足は動いている。下っている。それは分かる。でも、何か、おかしい。

自分の名前が……

「……こ……」

口に出そうとした。  出てこない。

「……こ、よ……」

舌が、もつれる。  知っているはずなのに。自分の名前なのに。

「……っ」

こよいは、立ち止まった。  頭を抱える。

名前が、思い出せない。  いや、思い出せる。でも、口に出せない。  喉の奥で、何かが引っかかっている。

「……なに、これ」

声が震えていた。

「……なのらないで」

祠(ほこら)の神の声が、強く響いた。

「……え」

「……なのっては、いけない」

空き地の神の声も。

名乗ってはいけない?  自分の名前を?

「……なんで」

こよいは聞いた。

「……ここで、なのると」

祠(ほこら)の神の声が、低くなった。

「……きろく、される」

記録される。

その言葉に、背筋が凍った。  同時に、ある人の顔が頭をよぎった。

しおりさん。

あの人も、記録をしていた。手帳にペンを走らせ、世界を書き留めていた。でも、あの人の記録は、もっと温かかった気がする。  忘れないための、消さないための記録。

対して、観測者(かんそくしゃ)の言う「記録」は、捕まえるためのものだ。

逃がさないための、変えさせないための記録。

同じ言葉なのに、まるで意味が違う。

観測者(かんそくしゃ)。  記録する者。測る者。  名前を口にすれば、それは記録される。固定(こてい)される。

「……だから、なまえが、とける」

空き地の神の声。

「……まもってる、んだ」

「……この、たにが」

谷が、守っている。  名前を曖昧にすることで、記録から逃れさせている。  だから、名無しの谷(ななしのたに)。

こよいは、ゆっくりと息を吐いた。  頭がぼんやりするのは、谷の力だ。  名前が出てこないのも、谷の力だ。

怖い。でも、敵じゃない。

「……分かった」

こよいは、頷いた。

「……名乗らない」

◇

さらに下った。  霧が、もっと濃くなっている。

視界は、五メートルもない。  自分の手を伸ばせば、指先がぼやけて見える。  白い世界。音のない世界。

自分が誰か、分からなくなりそうだ。

名前だけじゃない。  どこから来たのか。何をしているのか。  全部が、曖昧になっていく。

「……ぼくは」

口を開きかけた。  止まった。

名乗ってはいけない。でも、自分が誰か、確かめたい。  確かめないと、溶けてしまいそうだ。

「……巾着(きんちゃく)」

こよいは、胸元の巾着(きんちゃく)を握った。  冷たい。でも、そこにある。

「……ここに、いる。ぼくは、ここにいる」

「……いるよ」

祠(ほこら)の神の声。

「……いっしょに、いる」

空き地の神の声。

二人の声が、こよいを繋ぎ止めている。  名前がなくても、存在はある。  声が聞こえる限り、消えない。

「……ありがとう」

こよいは、かすれた声で言った。

「……もう、すこし」

祠(ほこら)の神の声が囁いた。

「……このさきに、でぐち」

出口。  谷の底を越えれば、出口がある。  そこまで、行けばいい。

こよいは、また歩き始めた。  霧の中を、一歩ずつ。

名前を忘れても、足は動く。  誰かが一緒にいれば、歩いていける。

◇

どれくらい歩いたのか、分からない。  時間の感覚も、曖昧になっている。

ただ、下っている。  谷底に向かって、下り続けている。

霧が、少しだけ薄くなった気がした。  視界が、六メートルくらいまで広がっている。

「……もう、すぐ」

空き地の神の声。

その時だった。

前方に、影が見えた。  人の形。  立っている。

こよいは、足を止めた。  心臓が、跳ね上がる。

誰?  観測者(かんそくしゃ)?

「……っ」

声が出ない。  出してはいけない。名乗ってはいけない。

影が、動いた。  こちらを向いた。

顔が、見えない。  霧で、ぼやけている。でも、確かに、そこにある。

影が、口を開いた。

「……お前は、誰だ」

声が響いた。  低い声。男の声。

こよいは、答えられなかった。  名乗れない。名乗ってはいけない。

「……答えろ」

影が、一歩近づいた。

「……ここで、何をしている」

巾着(きんちゃく)が、凍りついたように冷たくなった。  神々が、震えている。

「……なのっては」

祠(ほこら)の神の声が、かすかに聞こえた。

「……いけない」

こよいは、唇を噛んだ。  答えられない。でも、逃げることもできない。

影が、また一歩近づいた。  距離は、三メートルもない。

「……最後に聞く」

影の声が、低く響いた。

「……お前は、誰だ」

霧が、揺れた。  白い世界の中で、二つの存在が対峙(たいじ)している。

こよいは、巾着(きんちゃく)を握りしめた。  名乗れない。でも、ここにいる。  それだけは、確かだ。

「……ここで名乗ってはいけない」

その言葉が、頭の中で響いていた。

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