第258話 閉じた扉の先
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第258話 閉じた扉の先

第9章 地図の折返し

霧(きり)の色が変わった。

それに最初に気づいたのは、あさひだった。

「白くない」

あさひが足を止めて、頭上を見た。忘却(ぼうきゃく)の海に入ってからずっと、霧(きり)は牛乳を溢(こぼ)したような白だった。方角も距離も飲み込む、のっぺりとした白。だが今朝から、霧(きり)の底に灰青色(はいあおいろ)が混じっている。白が退いたのではない。白の下に、別の色が透けてきた。

「北に近づいている証拠だ」

久遠(くおん)が目録(もくろく)を開いた。蒼光(そうこう)が頁(ページ)を照らす。こよいは久遠(くおん)の横に並んで、頁(ページ)を覗き込んだ。

目録(もくろく)の変化は、霧(きり)より顕著だった。南では灰色に塗り潰されていた頁(ページ)が、一枚、また一枚と白紙に変わっている。文字が消えたのではなく、灰色の膜(まく)が剥がれて、下に何も書かれていなかったことが露(あら)わになっている。

「記録が減ってる」

「違う。元から書かれていなかった頁(ページ)が増えている。南の記録は観測者(かんそくしゃ)が管理していた。北に近づくほど、管理の外になる。だから記録がない」

久遠(くおん)は頁(ページ)を繰った。残っている記述は少ない。だが、残った文字は妙に鮮やかだった。灰色の頁(ページ)に埋もれていたときより、はっきりと読める。金色の筋が頁(ページ)の縁(ふち)で脈動し、一文字ずつが光を帯びている。

「少ないけど、明るいね」

こよいが言った。

「目録(もくろく)の原本に近づいているからだろう。写しの精度が上がっている。残された記述が少ないぶん、一つ一つの解像度(かいぞうど)が高い」

久遠(くおん)は頁(ページ)に触れた。指先に微かな振動が伝わった。南では感じなかった手応えだった。

おたまが、霧(きり)の薄くなった方角へ、鼻先を高く上げた。灰青色の空気を、猫は長いこと吸い込んでいた。

あさひが剣の鞘(さや)を指で弾いた。低い金属音が霧(きり)に吸われ、いつもより早く消えた。

「音の消え方が違う」

あさひが首を傾げた。

「南の霧(きり)は音を飲んだ。ここの霧(きり)は——通してる」

「通してる?」

「うまく言えねえけど、南だと声を出しても壁に当たるみたいに跳ね返ってきた。ここは抜ける。向こう側に抜けていく感じがする」

こよいは耳を澄ませた。確かに、静かだった。だが南の静けさとは質が違う。南の沈黙は、何かが押し殺した沈黙だった。声を出すなと命じられているような、重い静寂。

ここの静けさは、何もないだけの静けさだった。押し殺す主体がいない。命じる者がいない。ただ、まだ何も始まっていないだけの、空白の静けさ。

「始まる前の静けさだ」

こよいが言うと、あさひが振り向いた。

「何が始まるんだ」

「分からない。でも、終わりの静けさじゃない。それだけは分かる」

巾着(きんちゃく)が脈打った。こよいは腰の巾着(きんちゃく)に手を当てた。神々の律動(りつどう)がいつもと違う。南では一定の間隔で脈打っていた。心臓のように。だが今は、間隔が短くなったり長くなったりする。呼吸のように。眠りから覚めかけた生き物の、不規則な息遣いのように。

「神々が変わった」

こよいは巾着(きんちゃく)を手のひらで包んだ。

「前は脈打ってたけど、今は——息をしてるみたい」

「反応が変わったということは、環境が変わったということだ」

久遠(くおん)が目録(もくろく)を閉じた。

三人は歩いた。霧(きり)の灰青色(はいあおいろ)が少しずつ濃くなる。足元の地面も変わり始めていた。南では白い砂だった。ここでは砂に色がついている。薄い灰色。ところどころに、茶色い土が覗いている。

あさひが足を止め、地面にしゃがんだ。指で土を摘み、鼻に近づけた。

「土だ。ただの土だ。匂いがする」

「匂い?」

「南の砂は何の匂いもしなかった。ここの土は——雨の後みたいな匂いがする」

こよいもしゃがんで、土に触れた。指先が湿っている。乾いた忘却(ぼうきゃく)の海の中に、湿り気のある土。生きている土の感触だった。

久遠(くおん)は立ったまま、前方を見つめていた。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が、霧(きり)の奥を探る。

「境界(きょうかい)が近い」

「境界?」

「忘却(ぼうきゃく)の海の北端だ。海が終わり、別の地形に変わる場所。目録(もくろく)の残った記述に、かろうじて一語だけある」

久遠(くおん)は目録(もくろく)を開き、最後の記述を示した。金色に光る一語。

「星野(ほしの)」

まだ遠い、幾つもの土地を挟んだ先の地名だという。

こよいは声に出して読んだ。

「ほしの。星の野。どういう場所なんだろう」

「記述がこれだけでは判断できない。だが、少なくとも忘却(ぼうきゃく)の海とは異なる場所だ。理(ことわり)の管理が及んでいない。あるいは、及ぶ前からあった場所かもしれない」

風が吹いた。忘却(ぼうきゃく)の海に入ってから初めて感じる風だった。

弱い。頬をかすめる程度の、かすかな流れ。だが南にはなかった。空気が動いている。どこかから吹いてきて、どこかへ抜けていく。

こよいは目を閉じた。風の中に、匂いがある。土の匂い。草の匂い。水の匂い。忘却(ぼうきゃく)の海の無臭の空気とは違う、生きた場所の匂いだった。

「近い」

あさひが言った。剣の柄(つか)に手を置いたまま、北を見据えている。

「何が待ってるか分からねえけど、あの霧(きり)の向こうは死んでない。匂いで分かる」

久遠(くおん)は目録(もくろく)をしまった。

「忘却(ぼうきゃく)の海の南半分は、ここで終わる。海はこの先、町を一つ挟んで、北にもう一枝(ひとえだ)だけ腕を残している。……だが、南の旅はここまでだ」

「南の旅?」

「砂の境(さかい)で南を出た。忘却(ぼうきゃく)の海を渡った。これから先は北だ。理(ことわり)の辺境(へんきょう)。観測者(かんそくしゃ)の手が薄い場所」

こよいは巾着(きんちゃく)を握った。神々の不規則な律動(りつどう)が、少しずつ落ち着いていく。新しいリズムを探しているように。

「行こう」

こよいが言った。

三人は霧(きり)の中を歩いた。灰青色(はいあおいろ)の霧(きり)が薄れ、足元の土が硬くなり、やがて踏みしめる感触が砂利(じゃり)に変わった。風が少しずつ強くなる。

振り返ると、忘却(ぼうきゃく)の海の白い霧(きり)が壁のように立っていた。こちら側から見ると、あの白がいかに異質だったかがよく分かる。生きた空気の中に立つと、あの白は死んだ色だった。

前を向いた。霧(きり)の向こうに、薄い光が滲んでいる。星でもなく、行灯(あんどん)でもない。もっと広い、大地そのものが発しているような、控えめな光。

南の旅が終わり、何かが始まる。巾着(きんちゃく)の中で神々が新しいリズムを刻み始めた。こよいはその鼓動に歩調を合わせ、北へ踏み出した。

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