霧の色が変わった。
それに最初に気づいたのは、あさひだった。
「白くない」
あさひが足を止めて、頭上を見た。忘却の海に入ってからずっと、霧は牛乳を溢したような白だった。方角も距離も飲み込む、のっぺりとした白。だが今朝から、霧の底に灰青色が混じっている。白が退いたのではない。白の下に、別の色が透けてきた。
「北に近づいている証拠だ」
久遠が目録を開いた。蒼光が頁を照らす。こよいは久遠の横に並んで、頁を覗き込んだ。
目録の変化は、霧より顕著だった。南では灰色に塗り潰されていた頁が、一枚、また一枚と白紙に変わっている。文字が消えたのではなく、灰色の膜が剥がれて、下に何も書かれていなかったことが露わになっている。
「記録が減ってる」
「違う。元から書かれていなかった頁が増えている。南の記録は観測者が管理していた。北に近づくほど、管理の外になる。だから記録がない」
久遠は頁を繰った。残っている記述は少ない。だが、残った文字は妙に鮮やかだった。灰色の頁に埋もれていたときより、はっきりと読める。金色の筋が頁の縁で脈動し、一文字ずつが光を帯びている。
「少ないけど、明るいね」
こよいが言った。
「目録の原本に近づいているからだろう。写しの精度が上がっている。残された記述が少ないぶん、一つ一つの解像度が高い」
久遠は頁に触れた。指先に微かな振動が伝わった。南では感じなかった手応えだった。
おたまが、霧の薄くなった方角へ、鼻先を高く上げた。灰青色の空気を、猫は長いこと吸い込んでいた。
あさひが剣の鞘を指で弾いた。低い金属音が霧に吸われ、いつもより早く消えた。
「音の消え方が違う」
あさひが首を傾げた。
「南の霧は音を飲んだ。ここの霧は——通してる」
「通してる?」
「うまく言えねえけど、南だと声を出しても壁に当たるみたいに跳ね返ってきた。ここは抜ける。向こう側に抜けていく感じがする」
こよいは耳を澄ませた。確かに、静かだった。だが南の静けさとは質が違う。南の沈黙は、何かが押し殺した沈黙だった。声を出すなと命じられているような、重い静寂。
ここの静けさは、何もないだけの静けさだった。押し殺す主体がいない。命じる者がいない。ただ、まだ何も始まっていないだけの、空白の静けさ。
「始まる前の静けさだ」
こよいが言うと、あさひが振り向いた。
「何が始まるんだ」
「分からない。でも、終わりの静けさじゃない。それだけは分かる」
巾着が脈打った。こよいは腰の巾着に手を当てた。神々の律動がいつもと違う。南では一定の間隔で脈打っていた。心臓のように。だが今は、間隔が短くなったり長くなったりする。呼吸のように。眠りから覚めかけた生き物の、不規則な息遣いのように。
「神々が変わった」
こよいは巾着を手のひらで包んだ。
「前は脈打ってたけど、今は——息をしてるみたい」
「反応が変わったということは、環境が変わったということだ」
久遠が目録を閉じた。
三人は歩いた。霧の灰青色が少しずつ濃くなる。足元の地面も変わり始めていた。南では白い砂だった。ここでは砂に色がついている。薄い灰色。ところどころに、茶色い土が覗いている。
あさひが足を止め、地面にしゃがんだ。指で土を摘み、鼻に近づけた。
「土だ。ただの土だ。匂いがする」
「匂い?」
「南の砂は何の匂いもしなかった。ここの土は——雨の後みたいな匂いがする」
こよいもしゃがんで、土に触れた。指先が湿っている。乾いた忘却の海の中に、湿り気のある土。生きている土の感触だった。
久遠は立ったまま、前方を見つめていた。義眼の蒼光が、霧の奥を探る。
「境界が近い」
「境界?」
「忘却の海の北端だ。海が終わり、別の地形に変わる場所。目録の残った記述に、かろうじて一語だけある」
久遠は目録を開き、最後の記述を示した。金色に光る一語。
「星野」
まだ遠い、幾つもの土地を挟んだ先の地名だという。
こよいは声に出して読んだ。
「ほしの。星の野。どういう場所なんだろう」
「記述がこれだけでは判断できない。だが、少なくとも忘却の海とは異なる場所だ。理の管理が及んでいない。あるいは、及ぶ前からあった場所かもしれない」
風が吹いた。忘却の海に入ってから初めて感じる風だった。
弱い。頬をかすめる程度の、かすかな流れ。だが南にはなかった。空気が動いている。どこかから吹いてきて、どこかへ抜けていく。
こよいは目を閉じた。風の中に、匂いがある。土の匂い。草の匂い。水の匂い。忘却の海の無臭の空気とは違う、生きた場所の匂いだった。
「近い」
あさひが言った。剣の柄に手を置いたまま、北を見据えている。
「何が待ってるか分からねえけど、あの霧の向こうは死んでない。匂いで分かる」
久遠は目録をしまった。
「忘却の海の南半分は、ここで終わる。海はこの先、町を一つ挟んで、北にもう一枝だけ腕を残している。……だが、南の旅はここまでだ」
「南の旅?」
「砂の境で南を出た。忘却の海を渡った。これから先は北だ。理の辺境。観測者の手が薄い場所」
こよいは巾着を握った。神々の不規則な律動が、少しずつ落ち着いていく。新しいリズムを探しているように。
「行こう」
こよいが言った。
三人は霧の中を歩いた。灰青色の霧が薄れ、足元の土が硬くなり、やがて踏みしめる感触が砂利に変わった。風が少しずつ強くなる。
振り返ると、忘却の海の白い霧が壁のように立っていた。こちら側から見ると、あの白がいかに異質だったかがよく分かる。生きた空気の中に立つと、あの白は死んだ色だった。
前を向いた。霧の向こうに、薄い光が滲んでいる。星でもなく、行灯でもない。もっと広い、大地そのものが発しているような、控えめな光。
南の旅が終わり、何かが始まる。巾着の中で神々が新しいリズムを刻み始めた。こよいはその鼓動に歩調を合わせ、北へ踏み出した。
