夜営の焚き火が、低く燃えていた。
忘却の海の傍では木が育たない。あさひが集めてきたのは、漂着した記録の残骸だった。文字の刻まれた木片が、炎の中でぱちぱちと弾ける。焼けるたびに、文字が一瞬だけ明るく浮かび上がり、灰になる。
おたまは火のいちばん近くに陣取り、燃えていく文字を目で追っていた。一文字が明るく浮かんで灰になるたび、猫の瞳の奥で小さな火が揺れる。読めるはずのない文字を、読んでいるような横顔だった。
久遠は焚き火から少し離れた場所で、目録を膝に広げていた。義眼の蒼光が頁を照らす。今夜は頁の灰色が薄い。文字がいつもより読みやすかった。
「おい。何か見つけたのか」
あさひが火の番をしながら声をかけた。
久遠は答えず、指先で頁の隅を追っていた。目録の金色の筋が脈動している。復元された記述の端に、見覚えのある筆跡があった。
「八重の字だ」
こよいが顔を上げた。巾着を膝に乗せたまま、焚き火の温もりに目を細めていたところだった。
「八重さんの?」
「ああ。経蔵で読んだ処方箋と同じ筆跡だ。だが、これは見たことがない。別の頁に書かれていたものが、ここに移っている」
久遠は目録を傾けた。こよいは焚き火の傍を離れ、久遠の隣に膝をついた。あさひも薪を一本足してから、背後に回り込む。
頁の下端に、細い文字が三行。墨の色は薄いが、一画一画が丁寧だった。急いで書いた文字ではない。時間をかけて選んだ言葉が、そこにあった。
久遠が声に出して読んだ。
「『患者の容態は安定。自力歩行を確認。以降の投薬を中止する。退院とする。己の足で歩け』」
焚き火が弾けた。木片の中の文字が燃え、小さな火花が夜空に散った。
こよいは三行を見つめた。
「……処方箋だ」
「最後の処方箋だ」
久遠は頁から目を離さずに言った。
八重の処方箋。薬師であった八重が遺した、旅の手引き。井戸の水を汲む手順。名前の拾い方。理の裂け目を渡る方法。すべて医療の言葉で書かれた、暗号のような指示書だった。
「投薬中止、退院——もう指示は出さないということか」
あさひが腕を組んだ。
「そういうことだ。八重は、ここまでしか書いていない。忘却の海の先は、自分で歩けと言っている」
こよいは胸の前で手を握った。八重の顔を知らない。声を聞いたこともない。文字だけが、旅の節目ごとに現れて、進む方向を示してくれた。
「八重さんは、ぼくたちのことを患者だと思ってたのかな」
久遠は少し間を置いた。
「分からない。だが、処方箋を書く相手がいなければ、薬師は処方箋を書かない。読む者がいると信じて、書いた」
「いつ書いたの」
「頁の劣化から推測すると、かなり古い。少なくとも、こよいが旅を始めるより前だ」
こよいは息を吸った。自分が生まれるより前に、八重は処方箋を書いていた。いつか誰かが読むと信じて。顔も名も知らない未来の患者のために。
焚き火の炎が揺れた。木片の最後のひとつが崩れ、灰の山になった。
あさひが新しい薪を探しに立ち上がりかけて、やめた。
「もういいだろ。明るくなるまで寝ろ」
「あさひ」
「なんだ」
「八重さんに、ありがとうって言いたい」
あさひは鼻を鳴らした。
「言えばいいだろ。聞こえるかは知らねえけど」
こよいは目録の三行に手を伸ばした。指先が頁に触れると、八重の文字が微かに温かかった。頁は冷たいはずなのに、その三行だけが体温を持っているように感じた。
「ありがとうございます」
声は小さかった。焚き火の残り火が、赤く頁を照らす。
久遠は目録を閉じた。いつもなら開いたまま眠る。記録を逃さないために。だが今夜は、静かに表紙を閉じて、膝の上に置いた。
「処方箋は終わった。ここからは、自分たちの地図を引く」
義眼の蒼光が細くなり、やがて消えた。久遠が目を閉じたのだ。珍しいことだった。
あさひは剣を抱えて岩に背を預けた。
「あの薬師、けっこう厳しいな。退院しろ、己の足で歩けって。もう少し優しい送り出し方があるだろ」
「でも、そういう人だったんだと思う」
こよいは巾着を胸に抱いた。神々が緩やかに脈打つ。
「治ったら送り出す。治るまでは面倒を見る。それが薬師なんだよ、きっと」
「治ったのか、俺たちは」
あさひの声は軽かったが、問いの底は軽くなかった。剣は欠け、義眼は疲れ、神々は消耗している。それでも歩けている。歩けていることを、治ったと呼ぶのなら。
「分からない。でも八重さんが退院って書いたなら、少なくとも八重さんはそう判断したんだと思う」
あさひは目を閉じた。
「まあいい。処方箋がなくても歩ける。今まで歩いてきたんだから」
焚き火が消えた。残り火の赤が薄れ、忘却の海の白い霧だけが周囲を満たす。
こよいは目録の表紙に手を置いたまま、目を閉じた。八重の文字が、まぶたの裏に残っていた。
己の足で歩け。投薬を中止する。退院とする。
厳しくて、温かい。 会ったことのない師の、最後の言葉だった。
霧の中で、神々が静かに脈打っていた。処方箋のない夜が、始まった。 おたまが、こよいの膝にそっと上がって丸くなった。処方箋はもうなくても、温もりの処方だけは、今夜も続いている。こよいは猫の背に手を置いたまま、いつの間にか眠りに落ちていた。
