第257話 八重の処方箋、了
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第257話 八重の処方箋、了

第9章 地図の折返し

夜営の焚き火が、低く燃えていた。

忘却(ぼうきゃく)の海の傍(そば)では木が育たない。あさひが集めてきたのは、漂着した記録の残骸(ざんがい)だった。文字の刻まれた木片が、炎の中でぱちぱちと弾ける。焼けるたびに、文字が一瞬だけ明るく浮かび上がり、灰になる。

おたまは火のいちばん近くに陣取り、燃えていく文字を目で追っていた。一文字が明るく浮かんで灰になるたび、猫の瞳の奥で小さな火が揺れる。読めるはずのない文字を、読んでいるような横顔だった。

久遠(くおん)は焚き火から少し離れた場所で、目録(もくろく)を膝(ひざ)に広げていた。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が頁(ページ)を照らす。今夜は頁(ページ)の灰色が薄い。文字がいつもより読みやすかった。

「おい。何か見つけたのか」

あさひが火の番をしながら声をかけた。

久遠(くおん)は答えず、指先で頁(ページ)の隅を追っていた。目録(もくろく)の金色の筋が脈動している。復元された記述の端に、見覚えのある筆跡(ひっせき)があった。

「八重(やえ)の字だ」

こよいが顔を上げた。巾着(きんちゃく)を膝(ひざ)に乗せたまま、焚き火の温もりに目を細めていたところだった。

「八重(やえ)さんの?」

「ああ。経蔵(きょうぞう)で読んだ処方箋(しょほうせん)と同じ筆跡(ひっせき)だ。だが、これは見たことがない。別の頁(ページ)に書かれていたものが、ここに移っている」

久遠(くおん)は目録(もくろく)を傾けた。こよいは焚き火の傍(そば)を離れ、久遠(くおん)の隣に膝をついた。あさひも薪(まき)を一本足してから、背後に回り込む。

頁(ページ)の下端に、細い文字が三行。墨(すみ)の色は薄いが、一画一画が丁寧だった。急いで書いた文字ではない。時間をかけて選んだ言葉が、そこにあった。

久遠(くおん)が声に出して読んだ。

「『患者の容態は安定。自力歩行を確認。以降の投薬を中止する。退院とする。己の足で歩け』」

焚き火が弾けた。木片の中の文字が燃え、小さな火花が夜空に散った。

こよいは三行を見つめた。

「……処方箋(しょほうせん)だ」

「最後の処方箋(しょほうせん)だ」

久遠(くおん)は頁(ページ)から目を離さずに言った。

八重(やえ)の処方箋(しょほうせん)。薬師(くすし)であった八重(やえ)が遺した、旅の手引き。井戸(いど)の水を汲む手順。名前の拾い方。理(ことわり)の裂け目を渡る方法。すべて医療の言葉で書かれた、暗号のような指示書だった。

「投薬中止、退院——もう指示は出さないということか」

あさひが腕を組んだ。

「そういうことだ。八重(やえ)は、ここまでしか書いていない。忘却(ぼうきゃく)の海の先は、自分で歩けと言っている」

こよいは胸の前で手を握った。八重(やえ)の顔を知らない。声を聞いたこともない。文字だけが、旅の節目ごとに現れて、進む方向を示してくれた。

「八重(やえ)さんは、ぼくたちのことを患者だと思ってたのかな」

久遠(くおん)は少し間を置いた。

「分からない。だが、処方箋(しょほうせん)を書く相手がいなければ、薬師(くすし)は処方箋(しょほうせん)を書かない。読む者がいると信じて、書いた」

「いつ書いたの」

「頁(ページ)の劣化から推測すると、かなり古い。少なくとも、こよいが旅を始めるより前だ」

こよいは息を吸った。自分が生まれるより前に、八重(やえ)は処方箋(しょほうせん)を書いていた。いつか誰かが読むと信じて。顔も名も知らない未来の患者のために。

焚き火の炎が揺れた。木片の最後のひとつが崩れ、灰の山になった。

あさひが新しい薪(まき)を探しに立ち上がりかけて、やめた。

「もういいだろ。明るくなるまで寝ろ」

「あさひ」

「なんだ」

「八重(やえ)さんに、ありがとうって言いたい」

あさひは鼻を鳴らした。

「言えばいいだろ。聞こえるかは知らねえけど」

こよいは目録(もくろく)の三行に手を伸ばした。指先が頁(ページ)に触れると、八重(やえ)の文字が微かに温かかった。頁(ページ)は冷たいはずなのに、その三行だけが体温を持っているように感じた。

「ありがとうございます」

声は小さかった。焚き火の残り火が、赤く頁(ページ)を照らす。

久遠(くおん)は目録(もくろく)を閉じた。いつもなら開いたまま眠る。記録を逃さないために。だが今夜は、静かに表紙を閉じて、膝(ひざ)の上に置いた。

「処方箋(しょほうせん)は終わった。ここからは、自分たちの地図を引く」

義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が細くなり、やがて消えた。久遠(くおん)が目を閉じたのだ。珍しいことだった。

あさひは剣を抱えて岩に背を預けた。

「あの薬師(くすし)、けっこう厳しいな。退院しろ、己の足で歩けって。もう少し優しい送り出し方があるだろ」

「でも、そういう人だったんだと思う」

こよいは巾着(きんちゃく)を胸に抱いた。神々が緩やかに脈打つ。

「治ったら送り出す。治るまでは面倒を見る。それが薬師(くすし)なんだよ、きっと」

「治ったのか、俺たちは」

あさひの声は軽かったが、問いの底は軽くなかった。剣は欠け、義眼は疲れ、神々は消耗している。それでも歩けている。歩けていることを、治ったと呼ぶのなら。

「分からない。でも八重(やえ)さんが退院って書いたなら、少なくとも八重(やえ)さんはそう判断したんだと思う」

あさひは目を閉じた。

「まあいい。処方箋(しょほうせん)がなくても歩ける。今まで歩いてきたんだから」

焚き火が消えた。残り火の赤が薄れ、忘却(ぼうきゃく)の海の白い霧(きり)だけが周囲を満たす。

こよいは目録(もくろく)の表紙に手を置いたまま、目を閉じた。八重(やえ)の文字が、まぶたの裏に残っていた。

己の足で歩け。投薬を中止する。退院とする。

厳しくて、温かい。  会ったことのない師の、最後の言葉だった。

霧(きり)の中で、神々が静かに脈打っていた。処方箋(しょほうせん)のない夜が、始まった。  おたまが、こよいの膝にそっと上がって丸くなった。処方箋(しょほうせん)はもうなくても、温もりの処方だけは、今夜も続いている。こよいは猫の背に手を置いたまま、いつの間にか眠りに落ちていた。

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