第256話 しおりの居場所
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第256話 しおりの居場所

第9章 地図の折返し

忘れられた神の島を見送った岸から、道は再び陸へ折れた。  砕けた頁(ページ)の白い粒はもう足元になく、固い石畳(いしだたみ)が続いている。忘却(ぼうきゃく)の海の縁を、北へ縫うように延びる古い道だった。

その霧(きり)の中を進んでいたとき、久遠(くおん)ではなく、こよいが先に気づいた。

「止まって」

声を出してから、自分でも驚いた。普段は久遠(くおん)が異変を察知し、あさひが先行する。こよいが立ち止まる指示を出したことは、一度もなかった。

だが、足裏に感じた違和感は確かだった。靴底を通して伝わってくる石の感触の中に、ほんの僅かな温度差がある。他の傷より少しだけ温かい一点。

石畳(いしだたみ)の端に、傷がある。爪で引っ掻いたような浅い線。文字ではない。文字になる前の、何か。

こよいは膝をついた。指先で線をなぞった。石の冷たさの中に、確かにその一点だけが異質だった。

線は一本ではなかった。書き始めの一画——右上に引いて、止めて、少し戻す。その迷いの軌跡(きせき)が、石の表面にかすかに刻まれている。戻す動きの中に、ためらいがある。筆を置く前の、息を吸い込むような間。

「これ、しおりだ」

久遠(くおん)が後ろから屈み込んだ。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が石の表面を舐(な)めるように走り、線の深さと幅を精確に捉える。

「筆跡(ひっせき)の癖(くせ)だ、と言いたいのか」

「癖(くせ)じゃない。——ためらい方だよ」

こよいは線を見つめた。しおりの帳面の、油針(あぶらばり)の溝を指でなぞったことがある。押し花の下の隠し線も。掲示板の鉛筆の字も。そのどれにも共通していたのは、最初の一画に迷いがあることだった。

書くことを恐れている迷いではない。書いた瞬間に奪われることを知っている者が、それでも何かを残そうとするときの——覚悟と逡巡(しゅんじゅん)が同居した線だった。奪われると分かっていて、それでもなお筆を動かそうとする。その矛盾が、線の一本一本に刻み込まれている。

「文字なら理(ことわり)に拾われる。意味のある形は、漂白(ひょうはく)の対象になる。でも——」

こよいは顔を上げた。霧(きり)が低く垂れ込め、三人の肩の高さまで白い空気が満ちている。

「迷いの線には意味がない。だから拾われない。しおりはそれを分かっていて、わざと文字にしなかった」

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を近づけた。蒼光(そうこう)が線の上を走る。光が通過した跡に、微かな残像が浮かぶ。線の深さは均一ではなく、力の入れ方が一画の中で変わっている。力を込めて引き、途中で抜き、最後にまた押し込む。書くことへの意志と、書くことへの警戒が、同時に刃先に乗っていた。

「理(ことわり)の解析に引っかからない情報量だ。閾値(いきち)以下。記号未満。確かに、これでは拾いようがない」

あさひが五歩先の石畳(いしだたみ)を見ていた。目を細め、石の表面の僅かな凹凸(おうとつ)を読み取っている。

「こっちにもあるぞ。同じ線だ」

さらに先にも。点々と、霧(きり)の中へ続いていた。すべて北を向いている。石畳(いしだたみ)の目地(めじ)を避け、踏まれにくい端の部分に刻まれている。見つけてほしい者にだけ見つかるように。

久遠(くおん)が立ち上がった。

「こよい」

「何」

「お前がこの線に気づいた理由を考えている。帳面の溝は、指で読んだ。だがこの線を、お前は屈む前に——足の裏で見つけた。なぜ分かった」

こよいは答えに詰まった。分かったのではない。ただ、足裏を通して伝わってきた石の凹凸(おうとつ)の中に、他の傷とは違う温度を感じたのだった。傷そのものではなく、傷をつけた者の手の中にあったはずの迷いが、石に移って残っている。

「……ぼくも、書く前に止まることがあるから」

久遠(くおん)は何も言わなかった。目録(もくろく)を開き、しおりの項を確かめる。義眼(ぎがん)の光が、頁(ページ)の上で揺れた。蒼い光が文字を拾い上げ、また沈む。何かを探しているようにも、何かを確かめているようにも見えた。

「……次の線が消える前に追いたいが、急げば見落とす。この線は読む者に合わせて残っている」

あさひが前に出た。大剣の柄(つか)に手を置いたまま、霧(きり)の底を睨(にら)む。足元の石を一つずつ確かめるように、靴先で軽く触れながら歩いている。

「見落とさねえよ。薄いもんほど、俺の目はよく利く」

三人は線を辿(たど)った。石畳(いしだたみ)の上に、爪の跡が点々と続く。文字にならなかった言葉。声にならなかった方角。それでも確かに、北を指している。

途中、おたまが一本の線の前で足を止めた。  鼻先を近づけ、長いこと匂いを嗅(か)ぐ。それから、頬をそっと線に擦り付けた。挨拶の仕草だった。猫が親しいものにだけする、あの仕草。石に残った気配を、猫は知っているのだ。

霧(きり)の底に、最後の線があった。他のものより深く刻まれている。爪ではなく、石の欠片(かけら)で引いたのだろう。力を込めた跡が残っていた。石の表面が僅かに抉(えぐ)られ、溝の底が白く光っている。

線は北を指したまま、途切れていた。  その先に、霧(きり)だけがある。

こよいは途切れた線の端に、指を置いた。冷たい石の感触。けれどその下に、何かが残っている気がした。温もりではない。意志だ。ここまで線を引いて、その先は自分の足で歩いた者の、引き返さなかった意志。

「しおりはここで何を選んだんだろう」

久遠(くおん)が目録(もくろく)を閉じた。

「文字を捨てて、方角を選んだ。書く力を、歩く力に変えた。……記述者(きじゅつしゃ)としては、最も痛い選択だ」

こよいは立ち上がった。

あさひは既に霧(きり)の中を歩き出していた。振り返らない背中が、しおりの線と同じ方角を向いている。

こよいは巾着(きんちゃく)を握った。神々が温かい。まるで、この線を知っているかのように。

三人は線の先へ、霧(きり)の中へ、歩き出した。  おたまが、最後の線の上をひと跨ぎして、先頭に立った。しおりが選んだ方角と、猫が選ぶ方角は、寸分も違わなかった。書けなかった言葉の続きを、今は足が書いている。三人分の足音と、音を立てない四つ足が、白い静けさの中を点々と進んでいった。

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