第255話 忘れられた神の島
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第255話 忘れられた神の島

第9章 地図の折返し

霧(きり)の底に、島があった。

島と呼んでいいのかも分からない。忘却(ぼうきゃく)の海の表面に浮かぶ、畳三枚ほどの岩場。波のない海に、音もなく漂(ただよ)っている。

「あれ」

こよいが指を差した。

「あそこに、何かいる」

久遠(くおん)の義眼(ぎがん)が蒼く細まった。目録(もくろく)を開き、頁(ページ)の光を岩場へ向ける。蒼白い光が霧(きり)を割って届くと、岩の上に薄い輪郭(りんかく)が浮かんだ。

人の形ではなかった。草の形でもない。ただ、空気が微かに揺らいでいる場所がある。水面の上の陽炎(かげろう)のように、視線を外すと消え、戻すと現れる。

「神だ」

久遠(くおん)が低く言った。

「だが、凍結(とうけつ)されていない。氷がない。名前を封じた痕跡(こんせき)もない」

あさひが目を眇(すが)めた。

「凍ってないなら、生きてるのか」

「いや。凍結(とうけつ)とは別の形で、消えかけている」

久遠(くおん)は目録(もくろく)の頁(ページ)を繰(く)った。蒼光(そうこう)が文字の残骸(ざんがい)を拾う。だが、あの岩場の神に対応する記述は見つからなかった。

「目録(もくろく)にも載っていない。記述者(きじゅつしゃ)にも書かれなかった神だ。観測者(かんそくしゃ)に凍結(とうけつ)されたのではなく、ただ——忘れられた」

こよいの胸が痛んだ。南の町で見た神々は、氷の中に閉じ込められていた。名前を奪われ、動きを止められ、しかし確かにそこに在った。氷を割れば、いつかは戻れるかもしれないと思えた。

だが、あの岩場の揺らぎには、戻すべき形がない。

こよいは巾着(きんちゃく)に手を当てた。神々が温かく脈打つ。水面に足を踏み出そうとして、久遠(くおん)に腕を掴まれた。

「待て。忘却(ぼうきゃく)の海に直接入るな。足を踏み入れた者の名も溶ける」

こよいは足を止めた。海の表面は穏やかだった。波紋ひとつない。だからこそ怖い。底が見えないのではなく、底という概念(がいねん)がない。

巾着(きんちゃく)の紐を解き、雨の神を掌(てのひら)に呼んだ。小さな光を帯びた水滴が、指の間で震える。

「届いて」

こよいは掌(てのひら)を岩場へ向けた。雨の神が宙に浮き、霧(きり)の中を細い弧(こ)を描いて飛んだ。

岩場の手前で、雨の神は止まった。揺らぎに触れようとして、触れられない。雨の神が震え、光が明滅(めいめつ)する。やがてゆっくりと掌(てのひら)に戻ってきた。

冷たかった。

「……駄目だった」

こよいの声が掠(かす)れた。指先がまだ冷たい。掌(てのひら)に戻った雨の神を両手で包み、自分の体温を分ける。しばらくして、ようやく水滴の芯に温もりが戻った。

久遠(くおん)が目録(もくろく)を閉じた。

「形が残っていない。凍結(とうけつ)された神には核がある。名前を氷で包んだだけだから、核を解放すれば戻れる。だが、忘れられた神には核がない。溶けたのではなく、蒸発した」

あさひが岩場を見つめた。揺らぎは弱くなっている。三人が見ている間にも、空気と区別がつかなくなっていく。

「見てるだけで消えてくのか」

こよいが首を振った。

「違う。もとから消えかけていた。ぼくたちが来たから少しだけ濃くなっただけだ。誰かに見られることで、ほんの少しだけ存在が保たれる。でも——」

見続けることはできない。ここを離れれば、揺らぎは完全に消える。  せめて、とこよいは思った。名前がないなら、覚え方もない。それでも——あの揺らぎの形を、揺らぎ方の癖を、目に焼き付ける。名前の代わりに、姿を覚える。それしか、できることがなかった。

あさひが地面を蹴(け)った。

「観測者(かんそくしゃ)は氷で封じた。ひでえ話だ。だけど、氷の中にはまだいる。忘れられたやつは、いなくなる」

「氷は壊せる」

久遠(くおん)が静かに続けた。

「忘却(ぼうきゃく)は、壊す対象がない」

三人は岩場を見つめた。揺らぎはもう、目を凝らさなければ分からないほど薄い。

おたまは、岸の縁に座っていた。  猫の目は、揺らぎを見失わなかった。三人が目を凝らしても見つけられなくなったあとも、おたまの視線は正確に一点を追い続けている。  揺らぎが、最後に一度だけ濃くなった。  猫のほうを向いた——ように、見えた。誰にも名を呼ばれなかったものが、去り際に、猫にだけ会釈をしていった。おたまは尾をゆっくり一度だけ振った。見送りの形だった。

こよいは巾着(きんちゃく)を胸に抱いた。布越しに伝わる温もりが、揺らぎの冷たさと対照的で、胸の奥がきつく締まった。目を閉じても、あの薄れゆく輪郭(りんかく)が瞼の裏に残っている。

「ぼくたちがやってることは、正しいんだよね」

久遠(くおん)が振り向いた。蒼い光が、こよいの顔を照らす。

「正しさの話はしていない。名前を返す。それだけだ」

「でも——あの島の神様には、返す名前がないんだ。ぼくたちが拾えるのは、凍結(とうけつ)された名前だけで——」

こよいの目が潤(うる)んだ。

あさひが、こよいの頭にぽんと手を置いた。

「全部は救えねえ。そんなことは最初から分かってる」

「でも」

「でも、拾えるやつは拾う。それだけだろ」

あさひの声は粗かったが、揺るがなかった。その声の芯に、こよいは確かな熱を感じた。頭に置かれた手の重みが、涙の出口を塞いでくれていた。

久遠(くおん)は岩場に背を向けた。

「覚えておけ。凍結(とうけつ)と忘却(ぼうきゃく)は違う。凍結(とうけつ)は暴力だ。誰かが意図してやった。だから解除できる。忘却(ぼうきゃく)は——誰のせいでもない。ただ、誰も覚えていなかっただけだ」

三人は歩き出した。足元の岩が湿って冷たい。岩場は背後に遠ざかり、霧(きり)に呑まれていく。

こよいは巾着(きんちゃく)の紐を握り直した。雨の神が指先を温める。その温もりに、微かな決意が混じった。掌(てのひら)の中で、水滴が一つ、小さく光った。

拾えるものを、拾う。凍結(とうけつ)された名前を、ひとつでも多く。

忘れられた神の島は、霧(きり)の奥に溶けた。誰にも記録されず、誰にも語られず。ただ、三人と一匹の記憶の中にだけ、薄い輪郭(りんかく)が残った。  おたまだけは、歩きながら、最後までその方角に耳を向けていた。

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