霧の底に、島があった。
島と呼んでいいのかも分からない。忘却の海の表面に浮かぶ、畳三枚ほどの岩場。波のない海に、音もなく漂っている。
「あれ」
こよいが指を差した。
「あそこに、何かいる」
久遠の義眼が蒼く細まった。目録を開き、頁の光を岩場へ向ける。蒼白い光が霧を割って届くと、岩の上に薄い輪郭が浮かんだ。
人の形ではなかった。草の形でもない。ただ、空気が微かに揺らいでいる場所がある。水面の上の陽炎のように、視線を外すと消え、戻すと現れる。
「神だ」
久遠が低く言った。
「だが、凍結されていない。氷がない。名前を封じた痕跡もない」
あさひが目を眇めた。
「凍ってないなら、生きてるのか」
「いや。凍結とは別の形で、消えかけている」
久遠は目録の頁を繰った。蒼光が文字の残骸を拾う。だが、あの岩場の神に対応する記述は見つからなかった。
「目録にも載っていない。記述者にも書かれなかった神だ。観測者に凍結されたのではなく、ただ——忘れられた」
こよいの胸が痛んだ。南の町で見た神々は、氷の中に閉じ込められていた。名前を奪われ、動きを止められ、しかし確かにそこに在った。氷を割れば、いつかは戻れるかもしれないと思えた。
だが、あの岩場の揺らぎには、戻すべき形がない。
こよいは巾着に手を当てた。神々が温かく脈打つ。水面に足を踏み出そうとして、久遠に腕を掴まれた。
「待て。忘却の海に直接入るな。足を踏み入れた者の名も溶ける」
こよいは足を止めた。海の表面は穏やかだった。波紋ひとつない。だからこそ怖い。底が見えないのではなく、底という概念がない。
巾着の紐を解き、雨の神を掌に呼んだ。小さな光を帯びた水滴が、指の間で震える。
「届いて」
こよいは掌を岩場へ向けた。雨の神が宙に浮き、霧の中を細い弧を描いて飛んだ。
岩場の手前で、雨の神は止まった。揺らぎに触れようとして、触れられない。雨の神が震え、光が明滅する。やがてゆっくりと掌に戻ってきた。
冷たかった。
「……駄目だった」
こよいの声が掠れた。指先がまだ冷たい。掌に戻った雨の神を両手で包み、自分の体温を分ける。しばらくして、ようやく水滴の芯に温もりが戻った。
久遠が目録を閉じた。
「形が残っていない。凍結された神には核がある。名前を氷で包んだだけだから、核を解放すれば戻れる。だが、忘れられた神には核がない。溶けたのではなく、蒸発した」
あさひが岩場を見つめた。揺らぎは弱くなっている。三人が見ている間にも、空気と区別がつかなくなっていく。
「見てるだけで消えてくのか」
こよいが首を振った。
「違う。もとから消えかけていた。ぼくたちが来たから少しだけ濃くなっただけだ。誰かに見られることで、ほんの少しだけ存在が保たれる。でも——」
見続けることはできない。ここを離れれば、揺らぎは完全に消える。 せめて、とこよいは思った。名前がないなら、覚え方もない。それでも——あの揺らぎの形を、揺らぎ方の癖を、目に焼き付ける。名前の代わりに、姿を覚える。それしか、できることがなかった。
あさひが地面を蹴った。
「観測者は氷で封じた。ひでえ話だ。だけど、氷の中にはまだいる。忘れられたやつは、いなくなる」
「氷は壊せる」
久遠が静かに続けた。
「忘却は、壊す対象がない」
三人は岩場を見つめた。揺らぎはもう、目を凝らさなければ分からないほど薄い。
おたまは、岸の縁に座っていた。 猫の目は、揺らぎを見失わなかった。三人が目を凝らしても見つけられなくなったあとも、おたまの視線は正確に一点を追い続けている。 揺らぎが、最後に一度だけ濃くなった。 猫のほうを向いた——ように、見えた。誰にも名を呼ばれなかったものが、去り際に、猫にだけ会釈をしていった。おたまは尾をゆっくり一度だけ振った。見送りの形だった。
こよいは巾着を胸に抱いた。布越しに伝わる温もりが、揺らぎの冷たさと対照的で、胸の奥がきつく締まった。目を閉じても、あの薄れゆく輪郭が瞼の裏に残っている。
「ぼくたちがやってることは、正しいんだよね」
久遠が振り向いた。蒼い光が、こよいの顔を照らす。
「正しさの話はしていない。名前を返す。それだけだ」
「でも——あの島の神様には、返す名前がないんだ。ぼくたちが拾えるのは、凍結された名前だけで——」
こよいの目が潤んだ。
あさひが、こよいの頭にぽんと手を置いた。
「全部は救えねえ。そんなことは最初から分かってる」
「でも」
「でも、拾えるやつは拾う。それだけだろ」
あさひの声は粗かったが、揺るがなかった。その声の芯に、こよいは確かな熱を感じた。頭に置かれた手の重みが、涙の出口を塞いでくれていた。
久遠は岩場に背を向けた。
「覚えておけ。凍結と忘却は違う。凍結は暴力だ。誰かが意図してやった。だから解除できる。忘却は——誰のせいでもない。ただ、誰も覚えていなかっただけだ」
三人は歩き出した。足元の岩が湿って冷たい。岩場は背後に遠ざかり、霧に呑まれていく。
こよいは巾着の紐を握り直した。雨の神が指先を温める。その温もりに、微かな決意が混じった。掌の中で、水滴が一つ、小さく光った。
拾えるものを、拾う。凍結された名前を、ひとつでも多く。
忘れられた神の島は、霧の奥に溶けた。誰にも記録されず、誰にも語られず。ただ、三人と一匹の記憶の中にだけ、薄い輪郭が残った。 おたまだけは、歩きながら、最後までその方角に耳を向けていた。
