階段を登りきると、霧が割れた。 その先に広がっていたのは、白い海だった。
波の音がなかった。海のはずなのに、打ち寄せる音が消えている。あるのは、紙が擦れるような乾いた気配だけだった。
こよいは地面に膝をついた。指先で表面を撫でる。砂ではない。細かく砕けた頁だ。白い粒が指の腹に貼りつき、爪の間に入り込む。乾いているのに、どこか湿った感触がある。文字を書いた者の手汗が、紙に染み込んだまま残っているのかもしれなかった。
「紙の海だ」
久遠が低く言った。義眼の蒼光が、足元の白い粒を照らす。ひとつひとつに、文字の残骸がある。けれど文章にはならない。単語だけが、波打っている。意味を繋ぐ助詞が失われ、名詞と動詞だけが散っている。誰かの声が、ばらばらに砕けた跡だった。
あさひが周囲を見回した。風のない空気の中で、あさひの視線だけが鋭く動いている。
「墓場ってのは……ここか」
砂丘のような白い盛り上がりが、いくつも並んでいた。盛り上がりの頂点には、杭が一本。杭には布切れが結ばれ、墨で何かが書かれている。布は色褪せて、元の色が分からない。結び目だけが固く締まったまま残っていた。
こよいは一番近い杭へ歩いた。足元の頁の粒が、靴底の下で乾いた音を立てる。布は風に揺れないのに、指先に触れるとざらりとした。墨の文字は、途中で途切れていた。『記す者はここに——』。その先が消えている。消え方が不自然だった。滲んだのではなく、削り取られたように断たれている。
「書く途中で、奪われた」
久遠が確認するように言った。義眼の蒼光を文字の跡に沿わせながら、目録の頁と見比べている。
「書いた瞬間に、観測者が拾う。拾ったら、意味を固定する。固定したら、要らない部分は捨てる」
こよいは喉が痛くなった。空気が乾いているせいではない。飲み込めない言葉が、喉の奥でつかえているのだ。
「……じゃあ、ここにあるのは」
捨てられた頁。
だが久遠は首を振った。
「それでも、捨てきれなかった欠片だ」
あさひが杭の一本を引き抜こうとした。片手で握り、腰を入れて引く。だが杭は動かない。地面ではなく、記録に縫われている。あさひの腕の筋が浮いたが、杭は微動だにしなかった。
「無理だな」
あさひが言う。手を離すと、掌に木の繊維の跡がついていた。こよいは、巾着に指を置いた。神々が微かに脈打つ。水の匂いが、紙の匂いの中に差し込んだ。乾き切った空気の中で、それだけが生きた匂いだった。
「……濡らせば」
こよいが呟く。久遠が頷いた。
「濡れた文字は、漂白しづらい。紙は水で膨らむ。膨らめば、隙間ができる」
こよいは巾着に手を添え、雨の神の温もりを借りて、掌に小さな水の気配を集め、杭の布へ落とした。じわ、と墨が、ほんの少しだけ滲んだ。水が布に広がるにつれて、繊維が膨らみ、押し潰されていた文字の輪郭が浮き上がってくる。そして、消えていた続きを、布の繊維が吐き出す。
『……戻るな。墓場の先は、名が薄い。海図を持て。灯を失うな。』
あさひが息を吐いた。短く、鋭い息だった。
「道標か」
久遠は目録に書き留めた。筆が走る音が、頁の海の静寂に小さく響いた。
「記述者は、墓場に沈む前に、最後のものを残した。文章ではなく、方角を」
こよいは布をそっと撫でた。濡れた文字が、指先に残る。墨の黒が薄く指の腹を染め、それが乾いていく間も、文字の温度のようなものが残っていた。
おたまは、隣の砂丘の杭の根元に座っていた。布の結び目を見上げ、動かない。弔いの姿勢だと、こよいには分かった。猫は、書き切れなかった者たちの前で、しばらくそうしていた。
白い砂丘の向こうで、頁が崩れる音がした。目を凝らしたが、見えるのは風のない空だけだ。空は白くもなく青くもなく、ただ光源のない明るさが均一に広がっている。
それでも、崩れた頁の隙間から、ひとつだけ音が抜け出してくる。鉛筆が走る音。紙に触れる爪の音。書く手つきの癖まで、残っている。急いで書いているのに、一画ずつが丁寧だった。急ぎながらも文字を崩さない者の、最後の矜持が音に宿っていた。
「……ここにいる」
こよいが息と一緒に言った。久遠が眉を寄せる。
「生きてる、じゃない。残響だ。記述者の手が、まだ書いてる」
あさひが白い砂丘へ一歩踏み出す。靴底の下で頁の粒が砕け、細かな白い粉が舞い上がった。
「だったら拾う。残響でも、道になる」
こよいは頷き、紙の粒をひとつだけ掌に乗せた。軽いのに、胸の奥が少し重くなる。誰かの、書き切れなかった重さだ。粒の表面に、かすれた一文字が見えた。読めない。読めないけれど、書こうとした意志だけは伝わってくる。
三人は砂丘の縁を越え、北へ歩き出した。足元の白い粒が、一歩ごとに崩れて散る。振り返れば、自分たちの足跡も頁に呑まれて消えていくだろう。 やがて頁の砂丘は低くなり、白い粒の果てに、波のない水面が現れた。紙の海が尽きる場所で、忘却の海が始まっている。二つの海の境の岸に、三人は立った。
こよいは振り返らなかった。
掌に乗せた紙の欠片が、まだ温かい。書いた者の手の熱が、こんなにも長く残ることを、ぼくは知らなかった。 こよいは立ち止まらずに、懐の帳面を出し、欠片を頁の間にそっと挟んだ。忘れないための場所に。しおりの帳面の隣で、名も知らない記述者の欠片が、小さな重さになった。
巾着の中で、雨の神がひとつだけ揺れた。紙の匂いの中に、微かな水の気配。それが、墓場を出る三人の背中を、静かに押していた。
