第253話 階段の深淵
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第253話 階段の深淵

第9章 地図の折返し

水盤(すいばん)の帯は、町の北の外れで地面を離れた。  光の筋が石畳(いしだたみ)から浮き上がり、霧(きり)の中へ斜めに昇っていく。その角度に沿うように、石の段が霧(きり)の奥へと続いていた。理(ことわり)の階段——白紙になる前の写しにその名があったと、久遠(くおん)が言った。神々の歩いた道は、ここから空へ折れている。

足場が狭い。

それが最初に分かったことだった。理(ことわり)の階段の一段目に足を乗せたとき、靴の先と踵(かかと)の両方が段の端からはみ出た。人の足がかろうじて収まる程度の幅しかない。

二つ目に分かったのは、手摺(てす)りがないことだった。

階段の左右は霧(きり)だった。石壁ではなく、柱でもなく、霧(きり)の壁が両脇に立ち上がっている。手を伸ばせば指が通る。その向こうには何もない。下を覗き込む勇気は、こよいにはなかった。

三つ目に分かったのは、足裏が痛いということだった。

冷たさではない。石の表面に刻まれた微細な文字が、踏むたびに靴底を通して足裏に食い込んでくる。尖った文字。爪で引っ掻いたような一画一画が、体重を受けて押し返してくる。

「……狭い」

こよいの声が霧(きり)に吸われた。反響しなかった。声は出た場所で止まり、すぐ消える。

あさひが先頭にいた。

階段の入口に着いたとき、久遠(くおん)が状況を説明し終わる前に、あさひは一段目に足を乗せていた。乗せてから、体重をかけてみた。石が軋んだ。折れはしなかった。

「止まるな」

あさひが振り返らずに言った。

二段目に踏み出す。三段目。あさひの靴が段を踏むたびに、小さな光が足元で弾けて消えた。刻まれた文字が、踏圧(ふみあつ)に反応しているのだった。

久遠(くおん)は三人の最後尾にいた。目録(もくろく)を懐にしまい、両手を自由にしている。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が階段の表面を這(は)うように照らしていたが、蒼い光はすぐに五寸先で減衰(げんすい)した。霧(きり)の粒子が光を吸い、微かな蒼を帯びて消える。まるで光が霧(きり)に食われているようだった。

「光が遠くまで届かない。この階段自体が光を吸っている」

短い報告だった。  いつもなら原理を説明する久遠(くおん)が、理由を言わなかった。理由を考える余裕がないのか、それとも、理由が分からないのか。

こよいはどちらかを尋ねなかった。

十段目で、風が来た。

下から吹き上がってくる風だった。温度がない。冷たくもなく、温かくもない。肌に触れている感触はあるのに、熱を感じない。霧(きり)の壁を揺らしもしない。ただ足元を掬(すく)おうとする、方向だけを持った空気の流れだった。

こよいの膝が揺れた。身体が一瞬だけ横に傾き、霧(きり)の壁に指が触れた。指先は何にも触れなかったのに、ひんやりとした気配だけが手の甲を撫でた。

巾着(きんちゃく)を胸に押し当てた。神々が脈打っていたが、普段より弱い。この場所の何かが、神々の力を圧迫していた。  おたまは、段の上にいなかった。段の横——霧(きり)の壁のすぐ内側を、同じ高さで登っている。足場のないはずの場所を、猫は当たり前の顔で歩いていた。見てはいけない気がして、こよいはそれ以上、見なかった。

「前を見ろ」

あさひの声が上から降ってきた。五段上にいるあさひの背中が、霧(きり)の白に半分溶けている。

「足元を見るな。前を見てりゃ落ちない」

こよいは顔を上げた。あさひの背中を視界の中心に据え、一段ずつ足を運んだ。足裏の痛みは段ごとに変わった。鈍い痛みの段もあれば、針のように鋭い段もある。刻まれた文字の深さが違うのだろう。

久遠(くおん)が後ろで小さく息を吐いた。

「……何も、読めない」

こよいは足を止めかけた。

久遠(くおん)が文字を読めないと言ったのは、この旅で初めてだった。

「字が細かすぎるんじゃない。字そのものが、読まれることを拒んでいる。義眼(ぎがん)の焦点が合わない。合わせた瞬間に文字の配列が変わる」

久遠(くおん)の声は平坦だったが、言葉の選び方にいつもの精確さがなかった。読めないという事実を、まだ飲み込めていない声だった。

あさひが立ち止まった。

三十段目あたりだった。あさひは前方の霧(きり)を見ていた。

「階段がどこまで続いてるか、見えるか」

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を絞った。蒼光(そうこう)が細い筋になって前方を探る。

「……見えない。霧(きり)が光を返さない。だが、階段はまだ続いている。少なくとも百段先まで、構造は途切れていない」

「百段か」

あさひは足元の段を見た。靴の底で文字を擦ると、微かな光が滲(にじ)んだ。

「……こいつら、踏まれたがってるのかもしれないな」

「踏まれたがってる?」

「光るだろ。踏むと。ずっと暗い中にいて、誰かに踏まれて初めて光れるんだとしたら——俺たちが通ることを待ってた階段だ」

こよいは足元を見た。踏んだ段の文字が淡い光を放っている。読めない文字。だが、光ることだけは許されている。

こよいは一段踏み出すたびに、足裏を通して階段の鼓動のようなものを感じた。鼓動というには弱すぎる。だが石が無機質な塊ではなく、何かの意志を宿していることだけは、足の裏が知っていた。

恐怖が少し形を変えた。

怖い場所を通っているのではなく、怖い場所に歓迎(かんげい)されているのかもしれない。その方が、もっと怖い気もしたけれど。

久遠(くおん)が歩き出した。

「先を急ぐ理由はないが、止まる理由もない」

三人は階段を登り続けた。霧(きり)が左右から迫り、段は一向に広くならず、手摺(てす)りは最後まで現れなかった。足裏に感じる文字の凹凸だけが、自分がまだ何かの上に立っていることを教えてくれた。

こよいは巾着(きんちゃく)を握り直した。神々の脈動は弱いままだったが、消えてはいない。一段ごとに光る文字を踏みしめ、あさひの背中を追い、久遠(くおん)の足音を背に聞きながら、三人は霧(きり)の中を登り続けた。  霧(きり)の上のほうが、ほんのわずかに明るい。出口の光か、それとも別の何かか。分からないまま——それでも一段ごとに、明るさは確かに近づいていた。巾着(きんちゃく)の脈も、それに合わせて、少しずつ強さを取り戻していった。

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