水盤の帯は、町の北の外れで地面を離れた。 光の筋が石畳から浮き上がり、霧の中へ斜めに昇っていく。その角度に沿うように、石の段が霧の奥へと続いていた。理の階段——白紙になる前の写しにその名があったと、久遠が言った。神々の歩いた道は、ここから空へ折れている。
足場が狭い。
それが最初に分かったことだった。理の階段の一段目に足を乗せたとき、靴の先と踵の両方が段の端からはみ出た。人の足がかろうじて収まる程度の幅しかない。
二つ目に分かったのは、手摺りがないことだった。
階段の左右は霧だった。石壁ではなく、柱でもなく、霧の壁が両脇に立ち上がっている。手を伸ばせば指が通る。その向こうには何もない。下を覗き込む勇気は、こよいにはなかった。
三つ目に分かったのは、足裏が痛いということだった。
冷たさではない。石の表面に刻まれた微細な文字が、踏むたびに靴底を通して足裏に食い込んでくる。尖った文字。爪で引っ掻いたような一画一画が、体重を受けて押し返してくる。
「……狭い」
こよいの声が霧に吸われた。反響しなかった。声は出た場所で止まり、すぐ消える。
あさひが先頭にいた。
階段の入口に着いたとき、久遠が状況を説明し終わる前に、あさひは一段目に足を乗せていた。乗せてから、体重をかけてみた。石が軋んだ。折れはしなかった。
「止まるな」
あさひが振り返らずに言った。
二段目に踏み出す。三段目。あさひの靴が段を踏むたびに、小さな光が足元で弾けて消えた。刻まれた文字が、踏圧に反応しているのだった。
久遠は三人の最後尾にいた。目録を懐にしまい、両手を自由にしている。義眼の蒼光が階段の表面を這うように照らしていたが、蒼い光はすぐに五寸先で減衰した。霧の粒子が光を吸い、微かな蒼を帯びて消える。まるで光が霧に食われているようだった。
「光が遠くまで届かない。この階段自体が光を吸っている」
短い報告だった。 いつもなら原理を説明する久遠が、理由を言わなかった。理由を考える余裕がないのか、それとも、理由が分からないのか。
こよいはどちらかを尋ねなかった。
十段目で、風が来た。
下から吹き上がってくる風だった。温度がない。冷たくもなく、温かくもない。肌に触れている感触はあるのに、熱を感じない。霧の壁を揺らしもしない。ただ足元を掬おうとする、方向だけを持った空気の流れだった。
こよいの膝が揺れた。身体が一瞬だけ横に傾き、霧の壁に指が触れた。指先は何にも触れなかったのに、ひんやりとした気配だけが手の甲を撫でた。
巾着を胸に押し当てた。神々が脈打っていたが、普段より弱い。この場所の何かが、神々の力を圧迫していた。 おたまは、段の上にいなかった。段の横——霧の壁のすぐ内側を、同じ高さで登っている。足場のないはずの場所を、猫は当たり前の顔で歩いていた。見てはいけない気がして、こよいはそれ以上、見なかった。
「前を見ろ」
あさひの声が上から降ってきた。五段上にいるあさひの背中が、霧の白に半分溶けている。
「足元を見るな。前を見てりゃ落ちない」
こよいは顔を上げた。あさひの背中を視界の中心に据え、一段ずつ足を運んだ。足裏の痛みは段ごとに変わった。鈍い痛みの段もあれば、針のように鋭い段もある。刻まれた文字の深さが違うのだろう。
久遠が後ろで小さく息を吐いた。
「……何も、読めない」
こよいは足を止めかけた。
久遠が文字を読めないと言ったのは、この旅で初めてだった。
「字が細かすぎるんじゃない。字そのものが、読まれることを拒んでいる。義眼の焦点が合わない。合わせた瞬間に文字の配列が変わる」
久遠の声は平坦だったが、言葉の選び方にいつもの精確さがなかった。読めないという事実を、まだ飲み込めていない声だった。
あさひが立ち止まった。
三十段目あたりだった。あさひは前方の霧を見ていた。
「階段がどこまで続いてるか、見えるか」
久遠が義眼を絞った。蒼光が細い筋になって前方を探る。
「……見えない。霧が光を返さない。だが、階段はまだ続いている。少なくとも百段先まで、構造は途切れていない」
「百段か」
あさひは足元の段を見た。靴の底で文字を擦ると、微かな光が滲んだ。
「……こいつら、踏まれたがってるのかもしれないな」
「踏まれたがってる?」
「光るだろ。踏むと。ずっと暗い中にいて、誰かに踏まれて初めて光れるんだとしたら——俺たちが通ることを待ってた階段だ」
こよいは足元を見た。踏んだ段の文字が淡い光を放っている。読めない文字。だが、光ることだけは許されている。
こよいは一段踏み出すたびに、足裏を通して階段の鼓動のようなものを感じた。鼓動というには弱すぎる。だが石が無機質な塊ではなく、何かの意志を宿していることだけは、足の裏が知っていた。
恐怖が少し形を変えた。
怖い場所を通っているのではなく、怖い場所に歓迎されているのかもしれない。その方が、もっと怖い気もしたけれど。
久遠が歩き出した。
「先を急ぐ理由はないが、止まる理由もない」
三人は階段を登り続けた。霧が左右から迫り、段は一向に広くならず、手摺りは最後まで現れなかった。足裏に感じる文字の凹凸だけが、自分がまだ何かの上に立っていることを教えてくれた。
こよいは巾着を握り直した。神々の脈動は弱いままだったが、消えてはいない。一段ごとに光る文字を踏みしめ、あさひの背中を追い、久遠の足音を背に聞きながら、三人は霧の中を登り続けた。 霧の上のほうが、ほんのわずかに明るい。出口の光か、それとも別の何かか。分からないまま——それでも一段ごとに、明るさは確かに近づいていた。巾着の脈も、それに合わせて、少しずつ強さを取り戻していった。
