北岸の町の井戸は、地面に開いた穴ではなかった。
石畳の広場の中央に、大きな水盤が据えられていた。直径は三間ほど。縁は滑らかな黒石で組まれ、磨き上げられた表面に周囲の灰色い霧が映り込んでいる。水面は薄い氷に覆われている。
だが、氷の下に見えるのは名前ではなかった。
線だった。
無数の細い線が、氷の下を走っている。直線もあれば、緩やかに弧を描くものもある。線と線が交差し、分岐し、合流している。絡み合いながらも、決して結び目にはならない。すべての線が流れている。行き先を持って、動いている。
「地図だ」
久遠の声が、広場の静けさに落ちて広がった。地図。けれど紙の地図とは違う。歩いた者の体温ごと凍らせた、足取りそのものの記録だった。
久遠が水盤の縁に膝をついた。義眼の蒼光が氷の表面を照らすと、線が反応して微かに光った。蒼い光に触れた部分だけが、数秒遅れて淡く明るくなる。
「名前じゃない。道だ。神々が歩いた道の記録が、ここに凍結されている」
こよいは水盤を覗き込んだ。線の一つに、微かな色がついている。薄い金色。淡い青。かすかな赤。色は氷の中でぼんやりと滲み、互いの境界が曖昧になっている。それでも混ざり合うことはなく、一本一本が独立して走っていた。
色は全て違った。
「一本が、一柱の道」
何百本。こよいは声を失った。それだけの数の神々が、それぞれの土地を離れて、同じ方角へ歩いたのだ。呼ばれて。あるいは、選んで。氷の下の線たちは、その旅の一歩一歩を、まだ覚えている。
久遠が線を指で追った。指先が氷に触れるたびに、線が少しだけ明るくなる。指の温もりに反応しているのか、それとも記録が読まれることを待っていたのか。
「南から来ている線が多い。三方から、ばらばらにだが——」
指が止まった。久遠の義眼が細くなり、蒼光が鋭い筋になって水盤の北端を照らした。
「北で合流している。ほぼ全ての線が、北の一点に集まっている」
こよいは目を凝らした。確かに、線は南の様々な方角から走り、水盤の北側で束になっていた。束は太い光の帯となり、水盤の縁を越えて北へ伸びている。帯の縁が微かに脈動していた。流れているのだ。今もなお。
おたまが、ひらりと縁石に跳び乗った。それから氷の上を——線を踏まないように、あるいは猫にだけ見える正しい足場を選ぶように——静かに歩いていき、北の帯の付け根に座った。ここだ、と言うように。氷は、猫の重さに軋みもしなかった。
あさひが水盤の向こう側から見下ろしていた。腕を組み、氷の表面に目を落としている。
「何百本もある。帯のところだけ氷の色が違うぞ。白くない。金がかってる」
久遠が帯の部分に手を当てた。他の氷よりわずかに温い。指先に伝わる温度の差は僅かだったが、久遠の義眼が温度差を蒼い光の濃淡に変換して映し出していた。
「密度が高い。これだけの道が重なれば、氷の組成も変わる」
久遠は目録を開いた。経蔵で復元された頁の、凍結命令の前の段に目を落とした。頁の灰色の中から、かろうじて残った文字を拾い上げていく。
「経蔵の記録に、一語だけ読めなかった部分がある。動詞だ。凍結命令の前に、別の命令があった」
蒼光が頁を照らした。灰色に塗り潰された中に、かろうじて残った一文字。その一文字の輪郭が、蒼い光に浮き上がる。
「集。——集めろ、だ」
こよいが顔を上げた。水盤の氷の光が、こよいの目に反射して微かに瞬いた。
「集める?」
「凍結の前に、他の神々を集めた。まず北に集めた。この水盤の道がその証拠だ。何百柱もの神が、呼ばれて北へ向かった」
久遠は水盤の氷に手を置いた。線が一斉に光った。手のひらに、無数の足音のような振動が伝わってきた。遠い記憶を再生するように、線の一本一本が震え、光り、また沈んだ。
「神雧」
久遠が呟いた。その声は低く、どこか畏れを含んでいた。
こよいは巾着に手を当てた。神々が脈打っている。温かい。だが、温もりの中に、かすかな引力があった。北へ。神々もまた、この道を覚えているかのように、北へ引かれていた。巾着の布越しに、神々の光が細く漏れ、水盤の方角を向いている。
「この子たちも、この道を歩いたの」
「可能性はある。凍結される前に、この道を通って北へ向かった。そして、その先で名前を差し出した」
あさひが水盤の縁を叩いた。黒石が低く響いた。その音が広場の石畳に反射し、遠くの建物の壁に当たって、薄い残響を返した。
「集められて、凍結された。じゃあ最初の神は、他の奴らを集めてから凍結させたってことか」
「自分の名前を凍結したのと同時に、か。あるいは——」
久遠は言葉を切った。
「順番が分からない。集めたのが先か、自分の凍結が先か。だが、北の一点に集まったことは確かだ。その一点が、最初の神がいた場所だ」
水盤の氷が微かに軋んだ。線の光が少しだけ強くなり、北への帯が太く脈動した。帯の端が縁の黒石を越えて、石畳の上に薄い光の筋を落としている。
こよいは帯の先を目で追った。水盤の縁を越え、石畳の上を北へ伸びている。その先は霧に呑まれて見えない。
巾着が温かかった。 歩こう、と神々が言っている気がした。あの子たちが歩いた道を、もう一度。
低い潮の音が、町の奥から響いていた。北へ延びる光の帯だけが、その音に呑まれずに、静かに脈打ち続けていた。
