第252話 水盤の地図
252

第252話 水盤の地図

第9章 地図の折返し

北岸の町の井戸いどは、地面に開いた穴ではなかった。

石畳いしだたみの広場の中央に、大きな水盤すいばんが据えられていた。直径は三間ほど。ふちは滑らかな黒石で組まれ、磨き上げられた表面に周囲の灰色いきりが映り込んでいる。水面は薄い氷に覆われている。

だが、氷の下に見えるのは名前ではなかった。

線だった。

無数の細い線が、氷の下を走っている。直線もあれば、緩やかにを描くものもある。線と線が交差し、分岐し、合流している。絡み合いながらも、決して結び目にはならない。すべての線が流れている。行き先を持って、動いている。

「地図だ」

久遠くおんの声が、広場の静けさに落ちて広がった。地図。けれど紙の地図とは違う。歩いた者の体温ごと凍らせた、足取りそのものの記録だった。

久遠くおん水盤すいばんの縁に膝をついた。義眼ぎがん蒼光そうこうが氷の表面を照らすと、線が反応して微かに光った。蒼い光に触れた部分だけが、数秒遅れて淡く明るくなる。

「名前じゃない。道だ。神々が歩いた道の記録が、ここに凍結とうけつされている」

こよいは水盤すいばんを覗き込んだ。線の一つに、微かな色がついている。薄い金色。淡い青。かすかな赤。色は氷の中でぼんやりとにじみ、互いの境界が曖昧あいまいになっている。それでも混ざり合うことはなく、一本一本が独立して走っていた。

色は全て違った。

「一本が、一柱ひとはしらの道」

何百本。こよいは声を失った。それだけの数の神々が、それぞれの土地を離れて、同じ方角へ歩いたのだ。呼ばれて。あるいは、選んで。氷の下の線たちは、その旅の一歩一歩を、まだ覚えている。

久遠くおんが線を指で追った。指先が氷に触れるたびに、線が少しだけ明るくなる。指の温もりに反応しているのか、それとも記録が読まれることを待っていたのか。

「南から来ている線が多い。三方から、ばらばらにだが——」

指が止まった。久遠くおん義眼ぎがんが細くなり、蒼光そうこうが鋭い筋になって水盤すいばんの北端を照らした。

「北で合流している。ほぼ全ての線が、北の一点に集まっている」

こよいは目を凝らした。確かに、線は南の様々な方角から走り、水盤すいばんの北側で束になっていた。束は太い光の帯となり、水盤すいばんの縁を越えて北へ伸びている。帯のふちが微かに脈動していた。流れているのだ。今もなお。

おたまが、ひらりと縁石に跳び乗った。それから氷の上を——線を踏まないように、あるいは猫にだけ見える正しい足場を選ぶように——静かに歩いていき、北の帯の付け根に座った。ここだ、と言うように。氷は、猫の重さにきしみもしなかった。

あさひが水盤すいばんの向こう側から見下ろしていた。腕を組み、氷の表面に目を落としている。

「何百本もある。帯のところだけ氷の色が違うぞ。白くない。きんがかってる」

久遠くおんが帯の部分に手を当てた。他の氷よりわずかに温い。指先に伝わる温度の差は僅かだったが、久遠くおん義眼ぎがんが温度差を蒼い光の濃淡に変換して映し出していた。

「密度が高い。これだけの道が重なれば、氷の組成も変わる」

久遠くおん目録もくろくを開いた。経蔵きょうぞうで復元されたページの、凍結とうけつ命令の前の段に目を落とした。ページの灰色の中から、かろうじて残った文字を拾い上げていく。

経蔵きょうぞうの記録に、一語だけ読めなかった部分がある。動詞だ。凍結とうけつ命令の前に、別の命令があった」

蒼光そうこうページを照らした。灰色に塗り潰された中に、かろうじて残った一文字。その一文字の輪郭りんかくが、蒼い光に浮き上がる。

「集。——集めろ、だ」

こよいが顔を上げた。水盤すいばんの氷の光が、こよいの目に反射して微かにまたたいた。

「集める?」

凍結とうけつの前に、他の神々を集めた。まず北に集めた。この水盤すいばんの道がその証拠だ。何百柱もの神が、呼ばれて北へ向かった」

久遠くおん水盤すいばんの氷に手を置いた。線が一斉に光った。手のひらに、無数の足音のような振動が伝わってきた。遠い記憶を再生するように、線の一本一本が震え、光り、また沈んだ。

神雧かみあつめ

久遠くおんが呟いた。その声は低く、どこかおそれを含んでいた。

こよいは巾着きんちゃくに手を当てた。神々が脈打っている。温かい。だが、温もりの中に、かすかな引力があった。北へ。神々もまた、この道を覚えているかのように、北へ引かれていた。巾着きんちゃくの布越しに、神々の光が細く漏れ、水盤すいばんの方角を向いている。

「この子たちも、この道を歩いたの」

「可能性はある。凍結とうけつされる前に、この道を通って北へ向かった。そして、その先で名前を差し出した」

あさひが水盤すいばんの縁を叩いた。黒石が低く響いた。その音が広場の石畳いしだたみに反射し、遠くの建物の壁に当たって、薄い残響を返した。

「集められて、凍結とうけつされた。じゃあ最初の神は、他の奴らを集めてから凍結とうけつさせたってことか」

「自分の名前を凍結とうけつしたのと同時に、か。あるいは——」

久遠くおんは言葉を切った。

「順番が分からない。集めたのが先か、自分の凍結とうけつが先か。だが、北の一点に集まったことは確かだ。その一点が、最初の神がいた場所だ」

水盤すいばんの氷が微かに軋んだ。線の光が少しだけ強くなり、北への帯が太く脈動した。帯の端がふちの黒石を越えて、石畳いしだたみの上に薄い光の筋を落としている。

こよいは帯の先を目で追った。水盤すいばんの縁を越え、石畳いしだたみの上を北へ伸びている。その先はきりに呑まれて見えない。

巾着きんちゃくが温かかった。  歩こう、と神々が言っている気がした。あの子たちが歩いた道を、もう一度。

低い潮の音が、町の奥から響いていた。北へ延びる光の帯だけが、その音に呑まれずに、静かに脈打ち続けていた。

お読みいただきありがとうございます

4つの小説投稿サイトでお読みいただけます