境を渡った先の北洲は、一つの町から始まった。 港の板敷を離れると、石畳の通りが霧の奥へ延びている。北洲の奥に、名前を持ったまま隠れている神がいる——目指すものは決まっていた。だがその前に、この見知らぬ北岸の町を、抜けなければならない。
石畳の継ぎ目から、潮の匂いがした。
海は見えない。どこにもない。空を見上げても霧だけがあり、道の先を覗いても灰色の建物が並んでいるだけだった。なのに匂いは確かに下から来ている。石と石の隙間を縫って、腐りかけの海藻と塩を混ぜたような匂いが、地面の底から這い出してくる。
こよいは足を止めた。
靴底を通して、石畳が湿っているのが分かった。水ではない。石そのものが汗をかいているような、べたりとした湿り気だった。踏むたびに靴底が僅かに吸いつき、離れるときに微かな音を立てた。
灯籠が明滅した。 通りの左右に立つ灯籠は、火の色をしていない。白く、冷たく、安定しない光が石の壁を照らしては消える。一つが消えると隣が灯き、その隣が消える。追いかけっこのように、光が通りの奥へ走っていく。走り去った光の跡に、薄い闇が波のように戻ってきた。
誰もいなかった。
格子窓のある商家が三軒並んでいるが、戸は全て閉まっている。軒先に吊るされていたはずの暖簾は竿ごと落ちて、石畳の上で風もなく丸まっていた。暖簾の布が石の湿り気を吸い、縁が黒く変色している。商いの匂いも、人の体温の気配も、残っていない。代わりにあるのは潮だけだ。地面の下の、重たい潮。
巾着が微かに震えた。
こよいは手を当てた。神々は温かかったが、脈動がいつもと違う。普段は心臓のような規則正しい拍だった。今は不規則で、呼吸が浅くなった動物の鼓動に似ている。
「久遠くん」
声が石の壁に反響する前に、沈んだ。 空気が声を吸った。出した音より返ってくる音のほうが小さい。こよいは自分の声が地面に吸い込まれていくような感覚を覚えた。石畳の継ぎ目に声が流れ込み、潮の匂いと混ざって消えていく。
久遠は通りの真ん中に立ち、目録を開いていた。蒼光が頁を照らしたが、文字を読む前に、久遠の手が止まった。
「聞こえるか」
「何が」
「声だ。地面の下から来ている。声じゃない——鳴っている。何かが鳴っている」
こよいは耳を澄ませた。潮の匂いの奥に、確かに何かがある。音とは呼べなかった。空気の振動でもない。骨を通して、胸の奥の壁を直接叩くような、鈍い渇き。
在りたい、と何かが言っている。
言葉ではなかった。意味でもなかった。ただ、存在しようとする力だけが、地面の下から這い上がって、三人の足裏を掴もうとしていた。石畳の継ぎ目が、その力を通すたびに微かに広がる。目に見えるほどではないが、靴底に伝わる隙間の幅が、少しずつ変わっていた。 おたまの足だけは、石に吸いつかなかった。地面の下の渇きは、猫の足裏を掴もうとしない。三毛は乾いた場所を歩くのと同じ足取りで、湿った石畳の上を進んでいた。
こよいの目が潤んだ。
「この子たち——名前を呼んでほしいんだ」
久遠が頁を閉じた。蒼光が消え、通りが暗くなった。灯籠の白い光だけが、壁の表面を不規則に照らしている。
「呼ぶな」
短い声だった。久遠の声にしては感情がなさすぎる。感情を切り落として出した声だった。
「呼べば、こちらの名前が先に削られる。この町では、名を口にした者が座標になる。場所として固定される。動けなくなる」
久遠は、通りの角を義眼で示した。 そこに、人の形をした窪みがあった。石畳が、立っている人の輪郭のまま沈んでいる。靴の形も、着物の裾の広がりも、石の窪みとして残っていた。
「……ああやって、座標になった者の跡だ。名を口にして、場所に変わった。この町の石畳は、そういう窪みだらけだ」
こよいは唇を強く噛んだ。血の味がした。 地面の下から伝わってくる渇きは、泣き声に似ていた。泣いているのではない。もう泣く力もなくなった者が、最後に残った体温で周囲を温めようとしているような、諦めと祈りの混じった振動だった。
あさひが動いた。
三人の先頭ではなく、横に出た。通りの端に寄り、壁に手を当て、石の冷たさを確かめた。それから壁を離れ、反対側の壁にも同じことをした。手のひらで石の温度を測る仕草は、戦場で敵の気配を読む動作に似ていた。
「壁が冷たくない」
こよいが振り向いた。あさひの顔には、いつもの決意の表情がなかった。代わりにあったのは、猟犬が獲物の気配を追うときの、集中した静けさだった。
「石畳は湿ってるが、壁は乾いてる。潮は壁からじゃなく、地面からだけ来てる」
久遠が振り返った。義眼が細く光る。
「……的を射ている。潮の発生源は直下だ。この町の地面の下に——海ではないが、海に似た何かがある」
あさひは壁から手を離し、通りの先を見た。灯籠の光が逃げるように奥へ走り、石畳の継ぎ目が暗く浮かんでいる。
「呼べないなら、聞くだけ聞いて、歩く。泣いてるやつの横を通り過ぎるのは気分が悪いが、立ち止まってこっちまで沈むよりましだ」
優しい言葉ではなかった。だが、こよいの足を再び動かすには十分だった。拳を握り直すと、爪の跡が掌に白く残っていた。
三人は灯籠の白い明滅を背に受けながら、北岸の町の奥へ歩き始めた。石畳の下から潮の匂いが足を追い、灯籠の白い光が背中を照らした。こよいは巾着を握り直した。神々の不規則な脈動が、地面の下の振動と重なり合い、掌の中で小さな嵐を起こしていた。
呼べない。それでも、聞こえている。 聞こえているということだけは、忘れない。
