経蔵の内部は、暗かった。 暗いのに、見えた。 壁面を覆う無数の書架から、記録そのものが微かな光を放っている。 蛍のように明滅する光が、通路の奥まで続いていた。
天井は見えない。
書架が上へと伸び、闇の中に消えている。 月影井戸の底にあった記録の棚に似ていたが、規模が桁違いだった。 あれが支所なら、ここは本庁だ。 書架と書架の間を風が通るたび、紙の端が微かに鳴った。無数の記録が寝息を立てているようだった。
足元の石が冷たい。 靴底を通り越して、踝の骨に届くような冷たさだった。
空気が重い。 吸うと、胸の底に石を置かれたように息が沈む。
紙と墨の匂いに混じって、もっと古い匂いがした。 石と鉄と、長い時間の匂いだった。 こよいの鼻腔を、何百年分もの記録の堆積が静かに圧した。
「急ぐぞ」
久遠が目録を広げた。
義眼の蒼光が頁を照らす。
書架の光がそれに呼応し、一斉に強くなった。 通路の両側で冊子の背表紙が淡く燃え、道筋のようになる。
「反応してる。目録が経蔵の原本を探している」
久遠は通路を早足で進んだ。 義眼と目録が道案内になっている。 光が強く反応する方向に向かって、書架の迷路を抜けていく。
あさひが先頭を歩き、背後を警戒した。
経蔵の内部に敵の気配はなかったが、空気の中に監視の目がある。 理の制御が隅々にまで行き渡っている場所だった。 壁の石組みの隙間から、規則的な脈動が伝わってくる。建物そのものが、侵入者の体温を測っている。
「どのくらい持つ」
あさひが久遠に訊いた。
「目録の光が書架と共鳴している間は見つからない。だが、読み始めれば波紋が立つ。五分が限度だろう」
「五分か」
「十分に足りる」
久遠が立ち止まった。
通路の突き当たりに、他より大きな書架が一つだけ独立して置かれていた。 書架というより、祭壇に近い。 石の台座の上に、氷で覆われた冊子が載っている。 台座の表面には細い溝が刻まれ、溝の底に墨が残っていた。文字ではない。文字になる前の、意思の痕跡だった。 氷の表面が薄く結露している。三人の体温に、封印が微かに反応していた。
「原本だ」
久遠の声が震えた。
義眼の蒼光が最大になり、頬を青白く染めた。
原本は目録より小さかった。 手のひらに収まるほどの冊子が、氷の中に封じられている。 氷は霜里の井戸の深層で見た、青黒い氷と同じ色をしていた。
久遠は目録を原本の隣に置き、義眼で両方を同時に照らした。
文字が動いた。 目録の頁の灰色に塗り潰されていた箇所に、原本から文字が流れ込んでくる。 写しが原本と再接続され、失われた情報が復元されていく。 灰色が剥がれた下から現れる文字は古く、筆の運びが今の書体と違っていた。
久遠は読んだ。 声を出さず、義眼だけで文字を追った。
頁がめくれるたびに、久遠の表情が変わった。 驚きから困惑へ、困惑から理解へ、理解から——沈黙へ。 最後の頁を読み終えたとき、久遠の唇が薄く開いたまま閉じなかった。
「久遠くん」
こよいが声をかけた。
久遠は顔を上げなかった。
「久遠」
あさひの声に、久遠がようやく顔を上げた。 義眼の光が揺れていた。
「名前の凍結を最初に命じた記録がある」
久遠の声は平坦だった。
感情を挟む余裕がないほど、内容が重かった。
「命じたのは観測者じゃない」
こよいとあさひが同時に久遠を見た。
「神だ。最初に名前の凍結を命じたのは、神自身だった」
経蔵の光が一斉に揺れた。 書架の奥から、紙が擦れるような音が連鎖して走った。記録が、今の言葉に反応している。
こよいの足の裏から、冷気が一段深くなった。 石の床が、今の言葉を聞いていた。
書架の隙間から、冷たい風が吹き抜けた。 理の監視が、異変を察知し始めている。
「時間だ。出るぞ」
久遠は目録を閉じ、懐に押し込んだ。 原本は動かせない。
氷に封じられたまま、祭壇の上に残された。
三人は来た道を引き返した。 書架の光が消え始めている。 経蔵が閉じようとしていた。 背表紙の明滅が途切れ、通路が一本ずつ闇に呑まれていく。
あさひが先頭で走り、こよいが続き、久遠が最後尾を義眼の光で照らしながら走った。
出口の光が見えた。 紙と墨の匂いが薄れ、霧の冷気が戻ってきた。
三人は経蔵を出た。 背後で、重い石の音がした。
最後に、おたまが敷居を跳び越えた。その尾の先を追うように、石壁が閉じた。 入口が塞がれたのだ。 振り返ると、石壁しかなかった。経蔵がそこにあった痕跡すら消えている。
久遠は息を切りながら、停車場の壁に背を預けた。
「神が、自分たちの名前を凍結させた」
もう一度、確認するように呟いた。 声に出すたび、言葉の輪郭が鋭くなる。信じがたいことを、声が事実に変えていく。 あさひの喉が動いたが、言葉にはならなかった。
こよいの巾着の中で、神々が震えていた。 温もりは変わらない。
だが震え方が違った。 小さく、速く、布の繊維を内側から掻くような震えだった。 知られたくなかったことを、知られてしまった者の震えだった。
こよいは巾着を両手で包んだ。 神々の脈が掌に伝わる。謝るように、弁明するように、何度も何度も、同じ速さで打っている。
あさひは壁に手をつき、黙って空を見上げた。霧が濃い。何も見えない。それでも、視線を戻さなかった。
