第236話 名の返還
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第236話 名の返還

第8章 砂の境

聖域せいいきの光が目録もくろくに呼び覚ました新しい記述に、手順が三つ、記されていた。

一つ。凍結とうけつされた名の前に立つこと。  二つ。名を覚えている者が触れること。  三つ。名が自ら溶けるのを待つこと。

久遠くおんはその手順を三度読み返した。  義眼ぎがん蒼光そうこうページの上を行き来する。

「条件はそろっている。こよいの神々は名前に反応する。深層しんそうで確認した」

「でも、ぼくは名前を覚えていない。凍結とうけつされた神様の名前を、ぼくは知らない」

こよいが言った。

久遠くおんは首を振った。

「覚えているかどうかではない。神々が覚えている。お前の巾着きんちゃくの中にいる神々は、この世界の名前の残響ざんきょうを集めてきた。それが記憶の代わりになる」

あさひは壁際に立ち、通路の両端を見張っていた。  大剣のつかに手をかけたまま、背中だけを二人に向けている。

「やるなら早くしろ。長居すると空気が変わる」

三人は経蔵きょうぞう深層しんそう——霜里しもざと井戸いどから降りたのと同じ、かさねが保管された青黒い壁面の前にいた。今回は本体の側から、内側の通路を辿たどって着いた。井戸いども本体も、地の底では一つの書庫につながっている。

前回の探索で久遠くおん座標ざひょうを記録した区画だった。  壁面の氷は厚く、中に封じられた名前の光が鈍くにじんでいる。

久遠くおん蒼光そうこうで壁面を照らした。  かさねの塊が並ぶ中に、一つだけ小さな氷があった。  他の塊は何十もの名前を圧縮あっしゅくしているが、この氷には一つの名前しか入っていない。

「これだ。単独で凍結とうけつされている。かさねに巻き込まれず、端に追いやられたもの」

こよいは氷の前に立った。  小さな氷だった。  こよいのこぶしほどの大きさしかない。

中に封じられた文字が見えた。  薄い光を放っている。  読めない文字だったが、一文字か二文字の短い名前のようだった。

こよいは巾着きんちゃくを開いた。

月の神が光った。  布の中で、小さな粒が明滅めいめつしている。  深層しんそうの冷気の中で、その光だけが温かかった。

こよいは巾着きんちゃくを氷に当てた。

何も起きなかった。

数秒が過ぎた。

あさひが肩越しに振り返った。  久遠くおん義眼ぎがんの出力を上げた。

そして、音が鳴った。

氷の内側から。  硝子ガラスに細い亀裂きれつが入るときの音——繊細で、鋭い、微かな音だった。

氷の表面に、線が走った。

一本の線が、名前の文字を横切るように伸びていく。  線はゆっくりと枝分かれし、二本になり、三本になった。

こよいは巾着きんちゃくを押し当てたまま動かなかった。  雨の神の脈が速くなっている。  巾着きんちゃくの布が温かい。

亀裂きれつが広がった。

氷の表面から、冷気が噴き出した。  こよいの顔に当たる。  冷たいが、深層しんそうの冷気とは違う。  もっと古い、もっと奥にあった冷気だった。

名前が凍結とうけつされたときの冷気が、今ようやく外に出ている。

氷が割れた。

音はなかった。  割れたのではなく、溶けたのだ。  亀裂きれつに沿って氷が水に戻り、壁面を伝って流れ落ちた。

名前が現れた。

青黒い壁面の中から、二文字の光が浮かび上がった。  薄かった光が、少しずつ強くなっていく。  文字の輪郭りんかくが整い、筆致ひっちが鮮明になった。

久遠くおんが読んだ。

「……小紬こつむぎ

こつむぎ、と久遠くおんつぶやいた。

小さな名前だった。  誰の名前なのか、どこの神なのか、何をつかさどっていたのか、分からない。  だがその名前は確かに生きていた。

光が壁面から離れた。

飛び立つのかとこよいは思った。  だが名前は飛ばなかった。

ゆっくりと壁面を離れ、空気の中にただよった。  重力を失った紙片のように、緩やかに揺れている。

そして、降りた。

床の石畳いしだたみの上に、名前の光が静かに沈んだ。  石の隙間に入り込み、目地の間に落ち着いた。

種が土に落ちるように。

おたまが歩み寄り、石畳いしだたみの隙間に鼻先を近づけた。光はおびえなかった。猫はしばらくそれを見つめ、それから、そっと離れた。

光は消えなかった。  石畳いしだたみの隙間で、微かに、だが確かに光り続けている。

こよいの手のひらに、余熱よねつが残っていた。  巾着きんちゃくを当てていた場所——氷があった場所に、壁面のわずかな湿りがある。溶けた水が指先に触れると、冷たさの奥にかすかな甘さがあった。名前が宿していた温度の名残なごりだった。

こよいは巾着きんちゃくを胸に戻した。  雨の神の脈が穏やかになっていく。巾着きんちゃくの奥で、硝子びいどろの神が澄んだ一打を返し、風の神がそれに続いた。四柱よはしらが、そろって小さな帰還を祝っていた。

久遠くおん目録もくろくに書いた。  日付。場所。名前。手順。結果。  義眼ぎがん蒼光そうこうで、光り続ける石畳いしだたみを照らしながら。

「成功だ」

久遠くおんの声は静かだった。  だがその静けさの中に、こよいは初めて聞く種類の震えを感じた。

あさひは何も言わなかった。  壁際に立ったまま、石畳いしだたみの光を見下ろしている。  大剣のつかを握る手が、少しだけゆるんでいた。

深層しんそうの闇の中で、小紬こつむぎの名前が光っていた。

小さな光だった。  かさねの塊に比べれば、砂粒のような光だった。

だが、それは凍結とうけつが解けた証だった。

一つの名前が戻った。  一つだけ。

こよいはひざをついて、石畳いしだたみの光をのぞき込んだ。  二文字の名前が、目地の間で静かに呼吸している。  石畳いしだたみの冷たさが膝に伝わる。けれどその冷たさの中に、名前の光が放つぬくみが、細い糸のように混じっていた。

「……おかえり」

こよいの声は、自分でも驚くほど小さかった。  声が石畳いしだたみに吸い込まれた。光が一瞬だけ揺らいで、応えるようにまたたいて、また静かになった。

深層しんそうの壁面には、まだ数え切れない名前が凍っている。  かさねの塊が、青黒い氷の中できしみ続けている。

だが、一つが戻った。

こよいは立ち上がった。  あさひが先に歩き出し、久遠くおん目録もくろくを閉じて続いた。

石畳いしだたみの光は、三人が去った後も消えなかった。  深層しんそうの暗がりの底で、小紬こつむぎの名前だけが静かにともり続けていた。

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