第235話 経蔵の入口
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第235話 経蔵の入口

第8章 砂の境

列車が余白(よはく)の灯(ともしび)の停車場(ていしゃじょう)を離れた。

窓の外に、銀白色の柱がしばらく見えていた。  列車が進むにつれて柱は細くなり、やがて一本の線になり、そして霧(きり)に消えた。  消えた瞬間、車内に音が完全に戻った。

行灯(あんどん)の火が揺れる音、車輪が軌道(きどう)を噛む音、座席の軋(きし)む音。

こよいは耳を澄(す)ませた。  余白(よはく)の灯(ともしび)の無音がまだ体の中に残っている。  音のない場所に立つと、自分の輪郭(りんかく)が曖昧(あいまい)になる感覚があった。鼓膜(こまく)が自分の内側の音ばかり拾い、心臓の拍動が他人のもののように聞こえた。

音が戻って、やっと自分の体に戻れた気がした。

「経蔵(きょうぞう)まで、どのくらいかかる」

あさひが窓の外を見ながら訊(き)いた。硬い顎(あご)の線が行灯(あんどん)の光を受けて影をつくっている。

「この路線なら一刻もかからない。余白(よはく)の灯(ともしび)の真下を迂回(うかい)して、経蔵(きょうぞう)の停車場(ていしゃじょう)に出る」

久遠(くおん)が目録(もくろく)を膝(ひざ)に置いたまま答えた。  義眼(ぎがん)は消している。

目を閉じて、体力を温存していた。薄い瞼(まぶた)の奥で義眼(ぎがん)の硝子(びいどろ)が車輪の振動に合わせて微かに鳴っている。

こよいは巾着(きんちゃく)の中の神々に意識を向けた。  余白(よはく)の灯(ともしび)の近くで怯(おび)えていた神々が、少しずつ落ち着きを取り戻している。  脈動が穏やかになり、温もりが指先に戻ってきた。

「久遠(くおん)くん。これから行く経蔵(きょうぞう)って、退蔵室(たいぞうしつ)のあった東棟とは違うの」

「あそこは縁だ。井戸(いど)から入れるのは、経蔵(きょうぞう)の外周にすぎない。原本があるのは本体——正面の門の奥だ。井戸(いど)の道は、そこへは届いていない」

久遠(くおん)は目を閉じたまま答えた。

「昔、俺が写しを得た地上の伽藍(がらん)は崩れた。だが地の底の本体は生きている。そこに、写される前の原本がある。名前の凍結(とうけつ)を最初に命じた記録。凍結(とうけつ)の方法と理由。そして——最初に凍結(とうけつ)を始めた者の名前」

「それが分かれば、止められるの」

「止められるかどうかは分からない。だが、始まりを知れば、終わらせ方が見える」

窓の外の風景が変わった。

霧(きり)が濃くなり、空気が重くなった。  湿気ではなく、情報の密度だった。  経蔵(きょうぞう)に近づくにつれて、空間に含まれる記録の量が増えている。座席の木肌(きはだ)がわずかに膨張するように軋(きし)み、車内の空気が一段冷えた。こよいの腕に細かい鳥肌が立った。

窓硝子(まどがらす)の表面に、文字のような模様が結露とともに浮かんだ。

「近いな」

あさひが窓の文字を指先で拭(ぬぐ)った。  拭(ぬぐ)っても、別の文字がすぐに浮かんでくる。  空気そのものに記録が溶けている。

久遠(くおん)が目を開けた。

義眼(ぎがん)に蒼光(そうこう)が灯(とも)る。光は車内を走査するように一巡し、窓硝子(まどがらす)の文字の上で止まった。

「経蔵(きょうぞう)の停車場(ていしゃじょう)に着いたら、目録(もくろく)を開く。原本との照合を始める。時間はかけられない。経蔵(きょうぞう)の内部には理(ことわり)の監視が及んでいる。長居すれば見つかる」

「見つかったら」

「目録(もくろく)が没収される。俺たちの記憶も消されるかもしれない」

あさひが鼻を鳴らした。

「消させるかよ」

久遠(くおん)は薄く笑った。

笑ったのは一瞬で、すぐにいつもの硬い表情に戻った。

列車が減速を始めた。  窓の外の霧(きり)が更に濃くなり、行灯(あんどん)の火が霧(きり)を貫いて青白く光った。  車輪の回転が遅くなるにつれ、振動が低く太くなり、骨の奥に響いた。速度が落ちるほど、車体の揺れが大きくなる。列車そのものが、この先の重さを踏みしめているようだった。

こよいは巾着(きんちゃく)を胸に抱いた。  神々が強く脈打った。

経蔵(きょうぞう)の気配を感じ取っている。  怯(おび)えではなかった。

記憶の匂いに反応している。  自分たちの原本が、この先にある。こよいの胸の奥にも、それに応じるように熱い塊が生まれた。恐れと、期待と、そのどちらでもない何かが混じった感覚だった。

列車が止まった。

扉が開き、紙と墨(すみ)の匂いが車内に流れ込んだ。  霧(きり)に混じった古い空気が、三人の頬を撫(な)でる。乾いた紙の繊維と、何百年も読まれなかった書物の底に溜まる、あの澱(おり)のような重さだった。匂いだけで、場所の深さが分かる。列車の中にいながら、もう経蔵(きょうぞう)の内側に触れている気がした。

久遠(くおん)は目録(もくろく)を胸に寄せ、義眼(ぎがん)の光を絞った。

「ここだ。経蔵(きょうぞう)の停車場(ていしゃじょう)だ」

あさひが先に降りた。  足が石の床を踏む音が、重く響いた。音が消えず、石の下を遠くまで伝わっていく。あさひが一瞬だけ足を止めた。この場所の重さを、体で測っていた。

「静かだな」

静かではあったが、死んだ静けさではなかった。耳の底で何かが唸(うな)っている。記録が呼吸する音だと、こよいは思った。停車場(ていしゃじょう)の天井は見えなかった。霧(きり)が柱の上部を呑み込み、どこまでが建物でどこからが空なのか判然としない。

久遠(くおん)が続き、最後にこよいが降りた。  巾着(きんちゃく)を胸に抱いたまま、足元の石畳(いしだたみ)に目を落とす。  古い文字が薄く刻まれている。踏む者の重さで何度も磨(みが)かれ、角が丸くなっていた。かつてここを通った者たちの足の跡が、石の表面に年輪のように重なっている。こよいの草履(ぞうり)の下で、文字が微かに温度を持っているように感じた。刻まれた記録が、まだ生きている証だった。

経蔵(きょうぞう)の入口が、霧(きり)の奥に待っていた。  石と木を組み合わせた門が、霧の中からゆっくりと姿を現す。柱の表面に苔(こけ)のように文字が這(は)い、横木(よこぎ)には墨で記された封印の跡が幾重にも重なっていた。その輪郭は重たく、近づくほどに空気が肌を圧した。三人の足が一歩進むごとに、呼吸が浅くなる。ここから先は、名前を記し、名前を凍らせた場所だ。  こよいは足を止めた。門の下に立つと、頭の上から見下ろされているような圧があった。石畳(いしだたみ)を伝わる冷気が足裏から膝(ひざ)まで這い上がってくる。巾着(きんちゃく)の中の神々が、門に向かって微かに引き寄せられるように脈を打った。  おたまだけが、先に門をくぐった。封印の圧は、猫には掛からないらしい。ただの古い門をくぐるように、猫は敷居を越えて、振り返った。

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