第230話 経蔵の朝
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第230話 経蔵の朝

第8章 砂の境

階段を上がるたびに、足首の氷が割れた。

小さな音だった。  硝子ガラスの欠片を踏むような、乾いた破裂音が靴底で鳴る。  深層の冷気がまだ衣服に染み込んでいて、布の繊維に結晶したしもが動くたびにがれていった。

こよいは自分のそでを見た。  白い粉が表面をおおっている。  息を吹きかけると、粉が舞い上がり、すぐに消えた。  指先で袖を擦ると、湿った感触だけが残った。冷たいのか温かいのか、もうわからなかった。

経蔵きょうぞうの地上階に戻ったとき、三人はしばらく動けなかった。

あさひが壁に背を預けた。  大剣を床に立てかけ、つかに額を当てている。  目を閉じていた。  肩が微かに上下している。呼吸を整えているのだと、こよいにはわかった。

久遠くおんは通路の角に腰を下ろし、目録もくろくひざに広げた。  だがページをめくる手が止まっている。  義眼ぎがんの光は落としたまま、右目だけで何かを見つめていた。  その右目も、焦点が合っていない。ただ一点を見るふりをして、内側の何かを処理している顔だった。

こよいは二人の間の床に座った。  石の床が冷たくて、それが不思議なほど心地よかった。深層の冷えとは違う。地面がある、という確かさだった。

深層で見たものが、まだまぶたの裏にある。

かさねの塊。  何十もの名前が一つの氷に押し込められ、互いの輪郭りんかくを押し潰していた。  蒼光そうこうに照らされた青黒い壁面が、どこまでも続いていた。

あの壁面の一つ一つが、かつて誰かだった。  目を閉じても開いても、蒼い光の残像が消えない。視界の端で、まだ何かが光っているような気がする。

こよいは帳面を開いた。

鉛筆を持つ指が冷えていて、力が入らなかった。  親指と人差し指の関節がこわばっている。もう片方の手で指を包み、息を吹きかけた。白い息が指の間に溜まって、すぐに散った。  それでも書いた。

——深層。かさね。数えきれない。命令書あり。座標ざひょう久遠くおん目録もくろくに。

文字が震えている。  自分の字だとは思えないほど不安定だった。

こよいは鉛筆を置いた。

「……あさひ」

返事がなかった。

あさひは目を閉じたまま、剣のつかに額を預けている。  眠っているのではない。  呼吸が浅い。

こよいは声をかけるのをやめた。  あさひがこうして黙るのは、体が限界に近いときだ。言葉にする余力がないのではなく、言葉にする前に体を休ませることを選んでいる。

静かにしていると、経蔵きょうぞうの内部の音が聞こえてくる。  壁の奥で何かがきしむ音。  棚の上で紙が微かに鳴る音。  古い建物が自らの重さに耐えている音だった。  深層の底では聞こえなかった種類の音だ。ここには空気があり、湿度があり、木と石がある。それだけのことが、こよいの胸の奥をほどいていく。

久遠くおんが口を開いた。

「命令書の座標ざひょう目録もくろくに写した。だが、全てではない」

こよいが顔を上げた。

「全て読めなかったの」

「読めた分だけで十分な量だ。だが、その中に——」

久遠くおんは言いかけて、やめた。  目録もくろくを閉じた。

「原本と照合してから話す」

こよいは久遠くおんの横顔を見た。  義眼ぎがんのない右側の顔だった。  普段は表情の乏しい久遠くおんの口元が、わずかに引き結ばれている。

何かを見つけた。  それも、すぐには言えない何かを。

こよいはき返さなかった。久遠くおんが「照合してから」と言うときは、確信が持てるまで口を開かないという意味だ。

あさひが目を開けた。

「……腹が減った」

久遠くおんとこよいが同時にあさひを見た。

あさひは壁から背を離し、大剣を肩にかついだ。  首を左右に傾けて、骨が鳴った。

「飯にしよう。考えるのはその後でいい」

その声には、深層にいたときの張り詰めた低さがなかった。いつものあさひの声だった。

経蔵きょうぞうの外に出ると、中陵ちゅうりょうの空気が肌に触れた。

朝だった。  空が白かった。深層の闇に慣れた目には、その白さがまぶしい。こよいは何度かまばたきをした。目の奥が熱い。涙が出そうになったが、出なかった。

きりが出ていた。  薄いきりが地面をうように流れ、三人の足元を包んでいる。  きりの粒が頬に触れて、微かに濡れた。こよいは手の甲で頬をぬぐった。指に残った水気が温い。

空気が温かかった。  深層の冷気に慣れた体には、中陵ちゅうりょうの朝の空気がまるで湯のように感じられた。  肩の力が、自分でも気づかないうちに抜けていた。ひざの震えも止まっている。

こよいは深く息を吸った。  土の匂いがした。  湿った草の匂いと、どこか遠くの煙の匂いが混じっている。  石と氷と紙の匂いしかなかった深層とは違う、生きた地面の匂いだった。

吐く息が白くなかった。  深層ではあれほど白く凍っていた呼気が、ここではただの空気に戻っている。それだけのことが、こよいの体の芯に残っていた硬い塊を、一呼吸ごとに緩めていく。

きりの向こうに、停車場ていしゃじょうの屋根が見えた。  行灯あんどんの火がまだともっている。  朝の光に負けかけた、弱いだいだいの火。

鳥の声がした。  高い、短い声だった。きりの中のどこかで、一羽が鳴いている。深層には生き物の声がなかった。水の音も、風の音もなかった。ただ名前が軋む音だけが反響していた。  おたまが草の上で大きく伸びをして、それから朝陽のほうへ顔を向けた。鳥の声に耳が二度動く。生きているものの音に、生きているものが応えていた。

あさひが先に歩き出した。  久遠くおん目録もくろくを脇に挟んで続いた。  こよいは帳面を懐にしまい、二人の後を追った。  足が地面を踏む感触が柔らかい。深層の石段とは違う。土があり、草があり、踏むたびに少しだけ沈む。その弾力が足裏から膝に伝わって、体が地上にいることを教えてくれた。

巾着きんちゃくの中で、神々が緩やかに脈打っていた。  深層にいたときの激しい脈動ではない。  こよいの歩みに合わせるような、穏やかな拍だった。

朝霧あさぎりが三人の影を薄くしていた。  足元に落ちる影がきりに溶けて、輪郭りんかくがぼやけている。

それでも三人は歩いた。  影の形が定まらなくても、足音だけは確かだった。

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