第223話 天秤の崩壊
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第223話 天秤の崩壊

第8章 砂の境

三人が歩き出しかけたとき、こよいは背後の柱から呼ばれた気がして足を止めた。ひとり引き返し、気づけば指先は、柱の金色の残光を映す透明な氷片(ひょうへん)に触れていた。その瞬間、胸の奥で何かが鳴った。

音ではない。  名前になる前の息のようなものが、氷の向こうから流れ込んできた。

あたたかい。  苦しい。  帰りたい。

感情だけが一度に押し寄せ、こよいは息を詰めた。神々が一斉に脈打つ。氷片(ひょうへん)の中の感情と、巾着(きんちゃく)の中の神たちの感情が、こよいの胸の中で一つになろうとしていた。

指先から冷たさが腕を駆け上がる。温度ではなかった。何千年分の記憶が、皮膚の下を通り抜けていく感触だった。肘(ひじ)を過ぎ、肩に達し、首筋を伝って頭の奥に届く。

視界が白くなった。  白の中に、色が見えた。石畳(いしだたみ)を渡る風の匂い。子供の祈りの声。井戸(いど)の水面に映る月。  それは全部、氷の中で誰かに触れてもらうことを待っていた記憶だった。一つひとつは小さいが、数えきれないほどあった。祭りの夜の灯(ひ)。雨宿りの軒先(のきさき)。母の手の匂い。名前を呼ばれて振り向いた瞬間の、喉(のど)の奥の温もり。

こよいの目から涙が落ちた。  自分の涙なのか、氷の向こう側の涙なのか、わからなかった。どちらでもよかった。泣くべき涙だった。

こよいは手を離そうとした。離せなかった。氷片(ひょうへん)がこよいの指を掴んでいるのではない。こよいの指が、離すことを拒んでいた。この温もりを手放したくない。この記憶を、もう一人にしたくない。

「久遠(くおん)!」

あさひの声が飛ぶ。

あさひは氷片(ひょうへん)の柱とこよいの間に立ち、影を抑えていた。大振りはしない。寄ってきたものだけを斬(き)り、立ち位置を守る。息が上がっているが、足は一歩も下がらなかった。影は先ほどより速く、数も増えている。聖域(せいいき)の深部に踏み込んだことへの反応だった。

あさひの額に汗が浮いている。剣を持つ右手の握りが深くなった。このままでは長く持たない、とこよいにも分かった。それでもあさひは、助けを求める声を上げなかった。

久遠(くおん)は義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)を氷片(ひょうへん)へ集中させていた。目録(もくろく)の頁(ページ)が勝手に捲(めく)れ、文字が一本の光になって氷片(ひょうへん)へ流れ込む。

頁(ページ)が白くなるたびに、久遠(くおん)の額の汗が増えた。義眼(ぎがん)の周囲の皮膚が赤く腫(は)れている。目録(もくろく)の記述を対価にして、聖域(せいいき)の記録を読んでいる。知識と引き換えの知識。それでも蒼光(そうこう)の焦点はぶれなかった。

「見えた」

久遠(くおん)が一語だけ吐いた。義眼(ぎがん)の焦点が氷片(ひょうへん)を離れ、聖域(せいいき)の一角を射抜(いぬ)いた。

「支点(してん)はあれだ」

視線だけで示した先に、真鍮(しんちゅう)の天秤(てんびん)があった。  影の中心で、均衡(きんこう)だけを保ち続けている冷たい器具。皿の上には何も載っていない。載っていないのに釣(つ)り合っている。

名前の重さと、沈黙の重さが、等しいのだ。  だから何も起きない。何千年も、何も起きなかった。

その天秤(てんびん)がここにある限り、名前は永遠に凍ったままだとこよいは悟った。等しいから動かない。動かないから溶けない。天秤(てんびん)は公正なのではなく、残酷なのだ。均衡(きんこう)という言葉の冷たさを、こよいは初めて知った。

あさひが走る。

影が寄る。  あさひは止まらない。影を避けるのではなく、走りながら肩で弾いた。力任せではない。影には実体がないことを、もう身体で覚えている。

剣は、振り下ろされなかった。  強く振れば、欠けた刃のほうが先に折れる。あさひはそれを知っている。代わりに、欠けていない側の刃先を、天秤(てんびん)の支点(してん)——皿と皿を釣り合わせる軸のわずかな隙間へ差し込み、手首だけで捻(ひね)った。

天秤(てんびん)が割れた。

力ではなかった。均衡(きんこう)だけで立っていたものは、軸を半寸ずらされただけで、自分の重さに耐えられなくなる。

真鍮(しんちゅう)が裂ける甲高い音が聖域(せいいき)の壁に跳ね返り、何度も重なって消えた。

割れた瞬間、世界が一拍だけ黙った。

風も、灯(ひ)も、影も止まる。

こよいの手の下で、氷片(ひょうへん)の冷たさが緩んだ。温度が戻ったのではない。冷たさの質が変わった。閉じ込める冷たさから、溶け出す冷たさへ。指先から腕を伝っていた記憶の流れが穏やかになり、押し寄せるのではなく、ゆっくりと流れ始めた。

その静けさの中で、こよいは初めて、氷片(ひょうへん)の向こうにいる神々の呼吸を聞いた。息を吸う音。息を吐く音。何千年も止まっていたはずの呼吸が、天秤(てんびん)が壊れた一拍の後に、ゆっくりと動き始めていた。

鈴は鳴らない。

けれど沈黙は、もう空白ではなかった。

失われたものが戻る前の、受け皿のような静けさだった。

巾着(きんちゃく)の中で、神々が同時に脈打った。弱々しかった拍動が、少しだけ強くなっている。珠(たま)からほどけて四柱(よはしら)に戻ってから、同じリズムで脈打つのは初めてだった。

久遠(くおん)が目録(もくろく)を閉じた。頁(ページ)はほとんど白かった。だが義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)は消えていない。

「鈴は鳴らない。だが、この沈黙は終わりじゃない」

久遠(くおん)が立ち上がる。膝(ひざ)が一瞬だけ震えたが、すぐに止めた。目録(もくろく)を懐に仕舞(しま)う手つきが丁寧だった。白くなった頁(ページ)を、まだ手放すつもりがない。

「新しい理(ことわり)が生まれる前の、余白だ」

あさひが天秤(てんびん)の残骸(ざんがい)を踏み越えて戻ってきた。真鍮(しんちゅう)の破片が足元で金属音を立てる。剣の刃に氷の粉がこびりついている。肩で息をしていたが、目だけは笑っていた。影を斬(き)り、天秤(てんびん)を割り、戻ってくる。それだけのことを、あさひは息を切らしながらやってみせた。

「余白ってのは、書けるってことだろ」

久遠(くおん)が口の端を持ち上げた。

こよいは氷片(ひょうへん)から手を離した。今度は離せた。名前を手放すのではなく、約束を結んで離す。指先にまだ温もりが残っている。泣いていたことに気づき、袖(そで)で頬を拭(ぬぐ)った。涙の跡が乾く前に、新しい涙は出なかった。泣き終わったのだ。立ち上がると、膝(ひざ)が冷たかった。氷の床にずっとしゃがんでいた。どのくらいの時間が経ったのか分からない。

足元の氷に亀裂(きれつ)が走り始めた。聖域(せいいき)が崩れる予兆だった。天秤(てんびん)が壊れたことで、この空間を保つ均衡(きんこう)が失われている。氷の柱が軋(きし)む音が、聖域(せいいき)全体に響いた。

壁の氷が剥がれ始めた。金色の刻みが暗い亀裂(きれつ)に吸い込まれていく。

「走るぞ」

あさひが言い、三人は同時に踏み出した。先頭は、おたまだった。崩れていく床の、まだ固い場所だけを選んで、猫は迷いなく跳んでいく。こよいの足が氷を蹴(け)った場所から、放射状に亀裂(きれつ)が広がった。走ることでしか前に進めない。立ち止まれば沈む。猫の跡を追うあさひの背中を追いかけて、こよいは巾着(きんちゃく)を胸に抱えたまま聖域(せいいき)の出口へ走った。

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