第221話 未踏の地
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第221話 未踏の地

第8章 砂の境

井戸いどの底は、底ではなかった。  足が着いた先に広がっていたのは、天井の見えない空洞くうどうだった。  四方から冷気が押し寄せ、吐く息が白く凍った。着地の衝撃がひざから腰に走り、こよいはしゃがみ込んだまま顔を上げた。  懐に抱えて降りたおたまが、するりと腕を抜け出し、先に床へ降り立った。猫は寒さに首をすくめもせず、暗闇くらやみの奥へ耳を向けた。

暗い。  月影井戸つきかげいどふちから見下ろした暗さとは質が違う。ここには光を吸い込む意志があった。暗闇くらやみの中に、何かが整列している気配がある。整列、という言葉がなぜ浮かんだのか分からなかった。だが空気の流れに規則性がある。等間隔に何かが並んでいて、気流が均等に裂かれている。

久遠くおん義眼ぎがんの出力を上げた。

蒼光そうこうが闇を裂き、空洞くうどうの一端を照らした。  棚だった。  石と氷で組まれた巨大な棚が、奥へと並んでいる。一つひとつが天井近くまで伸び、表面に氷の板がめ込まれていた。棚の幅はこよいの両腕を広げたほどで、それが何列も、蒼光そうこうの届かない闇の奥まで続いている。  氷の中に、文字が浮かんでいる。

「記録だ」

久遠くおんの声が空洞くうどうに反響した。壁に当たり、天井に跳ね、足元の氷を滑って戻ってくる。自分の声に囲まれた久遠くおんは、一瞬だけまゆひそめてから続けた。

「三つの町の井戸いどにあった名前の写しじゃない。ここにあるのは原本だ。凍結される前の、生きていた状態の記録が保存されている」

こよいは近くの棚に手を伸ばした。  氷の板は滑らかで、触れると指先に微かな振動が伝わった。名前が氷の中で眠っている。

だが、霜里しもざと井戸いどで感じた完全な静止とは違っていた。  微かに、本当に微かに、脈打っている。

「あったかい」

こよいがつぶやいた。

氷なのに、指の先に温もりがあった。てのひら全体ではなく、指先の一点にだけ伝わる温もり。名前の形に沿って、熱が残っている。指を滑らせると、文字の画数に沿って温度が変わった。横棒は温かく、縦棒は少し冷たい。筆順のように、温度に順番がある。

こよいは隣の氷板にも触れた。こちらも温かい。だが温度が違う。名前が違うように、温もりも一つずつ異なっている。

「原本だからだ」

久遠くおんは近くの棚を見上げながら言った。

「写しは凍結の過程で熱を失う。だが原本は、まだ自分の温度を保っている。この棚に並んでいるのは、生きた記録だ。凍結されているが、死んではいない」

久遠くおん義眼ぎがんで棚の奥を走査そうさした。  蒼光そうこうが次々と棚を照らし、そのたびに氷の中の文字が一瞬だけ明るくなった。反応している。光に触れると、名前が目を覚ましかけるように輝く。

何列目かの棚を照らしたとき、複数の氷板が同時に光った。連鎖するように、隣の板が、その隣の板が、淡い光をともしていく。

久遠くおん、消せ」

あさひが低い声で言った。

「全部起こすつもりか。この数が一度に目覚めたら、俺たちが持たねえ」

久遠くおん義眼ぎがんの出力を落とした。  空洞くうどうが再び暗くなり、棚の氷板が闇に沈んだ。  だが消えたあとも、氷の中の文字が残像ざんぞうのように淡く光り続けていた。

目覚めかけた意識は、すぐには眠りに戻れない。こよいは氷板から手を離したが、指先に残った温もりが消えなかった。まだ触れているような感触が、皮膚の下に残り続けている。

こよいは巾着きんちゃくを握った。神々が脈打っている。棚の中の名前たちと同じリズムだった。呼応している。巾着きんちゃくの中の神たちが、原本の記憶を感じ取っている。

あさひが先に歩き出した。  棚と棚の間の通路は狭く、肩が氷に触れるたびに冷気が服を貫いた。あさひは腕を体に寄せ、剣のさやが棚に当たらないよう慎重に進んだ。普段なら狭い場所で身を縮めることを嫌がるあさひが、この通路では一言も文句を言わなかった。棚の中で眠っている名前たちに、触れまいとしているのだと、こよいには分かった。

久遠くおんが後ろから義眼ぎがんの光を足元だけに絞って照らしている。棚を起こさないための配慮だった。薄い蒼光そうこうが石の床を這い、三人の足元だけを浮かび上がらせた。

通路の奥に、空気の流れを感じる。

風ではない。

温度差による対流だった。

奥に、この空洞くうどうより更に冷たい場所がある。

「こっちだ」

あさひがあごで示した通路を抜けた瞬間、空気が変わった。冷たさの質が違う。棚のある空洞くうどうの冷たさは、保存のための冷たさだった。ここの冷たさは、拒絶のための冷たさだ。入ってくるなと言っている。

壁面全体が氷で覆われた空間が開けていた。  棚はなかった。

代わりに、氷の柱が等間隔に並んでいる。  柱の表面に、文字とも模様ともつかない刻みが走っていた。今まで見たどの文字とも違う。

古い。

文字が生まれる前の、文字の祖先のようなものだった。見ているだけで、目の奥が痛くなる。視覚で処理できる情報の限界を超えているのではなく、そもそも目で読むために作られていない刻みだった。

久遠くおんが足を止めた。  義眼ぎがんが大きく見開かれた。

聖域せいいきだ」

声がかすれていた。久遠くおんの声がかすれるのを、こよいは初めて聞いた。

経蔵きょうぞうの最深部を守る、氷の聖域せいいき目録もくろくにだけ記述があった場所だ。実在するとは——思わなかった」

あさひが久遠くおんを見た。久遠くおんが「思わなかった」と口にするのは珍しいことだった。

久遠くおん目録もくろくを開いた。指先が震えている。知識が目の前に実体を持って現れた驚きが、理性を一瞬だけ超えていた。ページをめくる手が止まり、ある行を義眼ぎがんの光で照らした。灰色に塗り潰されていた箇所の一部が、ここに来たことで薄く浮かび上がっている。

柱の刻みが、義眼ぎがんの光に触れることなく、自ら光り始めた。  淡い金色だった。

三人が近づいたことに反応して、柱そのものが動き出そうとしている。氷の柱がきしむ音が、低く、長く、空洞くうどうの壁に反響した。

こよいの巾着きんちゃくが激しく脈打った。  中で何かが跳ねるように動いている。  この場所を、覚えている。

巾着きんちゃくが、ではない。

巾着きんちゃくの中にいる神たちが、かつてこの場所にいたことがある。

氷の柱の光が強まった。  天井のない空洞くうどうの闇を、金色が静かに染め上げていった。こよいのほおを、温かい光がでた。氷の聖域せいいきなのに、この光だけは温かい。  おたまが、光の中へ歩いていった。金色に染まる氷の床の真ん中に座り、目を閉じる。初めての場所のはずなのに、猫の背中は、帰ってきたようにくつろいでいた。

巾着きんちゃくの中の神々が、震えるのをやめた。怯えてではなく、ようやく安堵あんどしたように、静かに、深く、脈打っていた。

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