第220話 乾いた誓い
220

第220話 乾いた誓い

第8章 砂の境

境界の向こうの通路は、長い登り坂だった。  古い紙の匂いは歩くほどに薄れ、やがて夜気に変わり——気づけば三人は、中陵(ちゅうりょう)の地上に立っていた。経蔵(きょうぞう)の入口は、まっすぐ最深部へ通じてはいなかった。通されたのは、経蔵(きょうぞう)の領域の縁。ここから先は、領域が定めた道順でしか降りられないのだと、久遠(くおん)は言った。  その道順の最初の扉が、目の前にあった。

月影井戸(つきかげいど)の前で、こよいは息を止めた。

夜だった。空が一度も明るくならない。月が出ているはずなのに、光が地面まで届いていなかった。  おたまは、こよいの足元にいた。境界に温度を残してきた猫は、何も失っていない顔で、夜の中陵(ちゅうりょう)の匂いを嗅(か)いでいる。  巾着(きんちゃく)の中も、変わっていた。扉を開くために閉じた神雧(かみあつめ)の珠(たま)は、境界を抜けた道すがら、ゆっくりとほどけた。鍵の役目を終えた三つの律動が静かに底へ沈み、あとには、見慣れた四柱(よはしら)の気配が戻っていた。雨、風、月、硝子(びいどろ)。ひどく疲れて、けれど確かに、四つ。

石畳(いしだたみ)は乾いている。  乾いているのに、井戸(いど)の縁(ふち)だけが、夜の冷えを吸い込みすぎたように黒かった。

足を止めたのは怖かったからではない。  石の匂いが変わったからだった。停車場(ていしゃじょう)から歩いてきた道の石は、古いが生きていた。踏めば砂が散り、雨の記憶を含んでいた。だが井戸(いど)の周囲の石は違う。踏んでも何も散らない。音すら吸い込まれて、返ってこない。

井戸(いど)の中を覗(のぞ)く。  水面は見えない。月の光が落ちても返らず、底のない墨(すみ)のような暗さだけが揺れていた。覗き込んだ瞬間、まつ毛の先に冷気が触れた。冷たさではなく、重さだった。井戸(いど)の底から這い上がってくる空気が、顔の皮膚を一枚ずつ剥がそうとしているような圧があった。

冷たい、と思うより先に、喉(のど)が渇いた。

この井戸(いど)の近くでは、息をするたびに、声を出す前の湿り気が一呼吸ごとに薄くなっていく。こよいは無意識に巾着(きんちゃく)を押さえた。布越しの神々の温もりも、井戸(いど)に近づくほど輪郭(りんかく)が曖昧(あいまい)になった。

井戸(いど)の石縁(いしぶち)に、刻みが並んでいた。  円形に等間隔で刻まれた文字の残骸(ざんがい)。指先で触れると、砂のように粗い感触がある。刻みの溝は浅い。だが最後の一つだけが深く、そして欠けている。欠けた箇所から、冷気とも匂いともつかない何かが漏れていた。

目を凝らすと、欠けた刻みの断面に色があった。  灰色ではない。薄い青。氷に閉じ込められた空気のような、冷たい青だった。

久遠(くおん)が目録(もくろく)を開く。  義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が井戸(いど)の縁(ふち)をなぞり、欠けた刻みを照らした。

「あれが継ぎ目だ」

久遠(くおん)が低く言う。

「この井戸(いど)の底で、理(ことわり)の計測が始まっている。石縁(いしぶち)の刻みは測定の痕(あと)だ。一つ欠けているのは、最初の計測で壊れたからだろう」

久遠(くおん)は義眼(ぎがん)の光を、井戸(いど)の底の暗さへ沈めた。

「それに——この井戸(いど)は独立していない。底は経蔵(きょうぞう)の地下へ続いている。霜里(しもざと)も、星降町(ほしふりまち)も、海図の町(かいずのまち)も、おそらく同じだ。井戸(いど)は全部、経蔵(きょうぞう)という一つの巨大な書庫に開いた——測定口だ」

「壊れた」

こよいは欠けた刻みをもう一度見た。壊れた、という言葉が妙に重く響く。

「負荷が大きすぎたんだ。最初に測られたものが、器を超えていた」

久遠(くおん)は目録(もくろく)の頁(ページ)を指先で押さえた。

「刻みは十二ある。十二番目だけが欠損している。最初の計測対象が何だったのかは、ここからは読めない。だが、十二の測定点のうち一つを破壊するほどの——名前だった」

蒼光(そうこう)が頁(ページ)を走るたびに、井戸(いど)の底から吸い上げられるように文字が薄くなっていく。目録(もくろく)の記述と井戸(いど)の記録が干渉している。久遠(くおん)の額に薄い汗が浮いた。義眼(ぎがん)の光が一瞬だけ揺らぎ、久遠(くおん)は目を細めて光を安定させた。

あさひは剣の柄(つか)に手を置いたまま、井戸(いど)を睨(にら)んでいた。  石畳(いしだたみ)の上に落ちる影が、自分たちの動きより一拍遅れて揺れている。あさひの指が柄(つか)を握り直した。靴底で石を軽く踏み、音の返りを確かめている。戦場の地面を読むときの癖だった。

「息苦しい場所は嫌いだ」

短い言葉だったが、目は井戸(いど)の周囲から離れていなかった。影の遅れを、既に計算に入れている目だった。あさひの呼吸は浅く速い。戦う前の呼吸だ。何と戦うのかまだ分かっていなくても、身体は既に構えている。

「計測って……あの子たちのことを、数字にしてるってこと?」

こよいの声は小さかった。  けれど、井戸(いど)の縁(ふち)に落ちたその一言だけが、やけに長く残った。石が吸い込まず、言葉だけを弾いたように。久遠(くおん)もあさひも、一瞬だけ動きを止めた。

巾着(きんちゃく)の中で、風の神がぴくりと震えた。

久遠(くおん)はすぐに答えなかった。  義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が一度だけ揺れてから、短く言う。

「そうだ。呼吸も、揺れも、祈りもだ」

こよいは井戸(いど)の底を見た。見えない暗さの中に、言葉にされる前の声が沈んでいる気がした。

唇を噛(か)んだ。  井戸(いど)の底に向かって、真っ直ぐに目を据えた。

数字にされる。  笑い声も、涙も、怒りも安堵も、記号に変わり、帳簿に綴じられ、石の棚に収められる。そうやって名前は体温を失う。

その理不尽さが、こよいの胸の奥に小さな熱を灯(とも)した。怒りに似ていたが、もっと静かなものだった。石に吸い込まれない種類の熱だった。

あさひが石畳(いしだたみ)を踏み直す。

「なら、壊しがいがある」

歯を見せて笑った。  怖がっているのではない。拒絶されること自体を受け止めるような、挑むための笑みだった。剣の柄(つか)を叩く音が、乾いた石畳(いしだたみ)に跳ねた。

久遠(くおん)が小さく鼻を鳴らした。口元に、かすかな笑みの気配。目録(もくろく)を胸に寄せ、義眼(ぎがん)の光を井戸(いど)の底から引き剥がした。

「降りるぞ。目録(もくろく)が呼んでる」

言葉が短いのは、久遠(くおん)なりの覚悟の形だった。長く説明するときより、短く言い切るときのほうが、この少年は本気だ。

久遠(くおん)が目録(もくろく)を閉じ、義眼(ぎがん)の光を前方へ据えた。目録(もくろく)の表紙に、井戸(いど)の薄い青が一瞬だけ映り込んで消えた。

あさひが先頭に立ち、剣の鞘(さや)を肩に担ぎ直す。石畳(いしだたみ)を踏む足取りは重いが、迷いがない。

こよいは頷(うなず)き、巾着(きんちゃく)を胸に抱いた。  雨の神の温もりが指先から腕を伝い、胸の奥の小さな灯火(ともしび)と合流するように広がった。乾いた空気の中で、その温もりだけが確かだった。数字にはさせない。こよいは声に出さずにそう思った。あなたたちの名前は、あなたたちのものだ。

三人の足音だけが、月影井戸(つきかげいど)の沈黙を破った。吸い込まれていた音が少しずつ返り始め、自分たちの足音を聞くだけで、息が楽になった。

井戸(いど)の底から吹き上げる冷気は変わらず肌を刺していたが、こよいの胸の灯(ひ)は、もうその冷たさに屈する気配がなかった。

背後で、月影井戸(つきかげいど)の水面が微かに波紋(はもん)を描いた。  刻まれた文字の残骸(ざんがい)を一つ撫(な)でるようにして広がったそれは、三人の足音が井戸(いど)の底まで届いた証だった。

お読みいただきありがとうございます

4つの小説投稿サイトでお読みいただけます