第219話 おたまの決断
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第219話 おたまの決断

第7章 灯の距離

中陵(ちゅうりょう)の停車場(ていしゃじょう)から、奥へ進んだ。

石畳(いしだたみ)の道は途中で途切れ、踏み固められた土に変わった。灯(ひ)はない。久遠(くおん)の義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)だけが、足元を細く照らしていた。

停車場(ていしゃじょう)から離れるほど、空気が重くなる。水の中を歩いているような抵抗が、足の先から腰まで這い上がってきた。あさひの足取りが僅(わず)かに鈍る。こよいの耳の奥で、低い耳鳴りが始まっていた。

「この先だ」

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を細めた。蒼光(そうこう)が前方を探り、何もない空間の一点で止まった。

扉はなかった。  壁も、門も、標(しるべ)もない。だがそこに、境界があった。  空気の密度が一枚の膜(まく)のように変わる場所。こちら側と向こう側で、空間の質が違う。こちらが呼吸している空気なら、向こうは記憶を含んだ空気だった。

こよいには見えなかった。だが巾着(きんちゃく)の脈が急に速くなったことで、境界の位置が分かった。三歩先。神々が教えてくれていた。

「経蔵(きょうぞう)の入口だ」

久遠(くおん)の声が掠(かす)れていた。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が不安定に揺れている。影の中心で出力を上げすぎた負荷が、まだ抜けていない。

「鍵は揃(そろ)っている。三つの井戸(いど)の状態がお前の手にある。だが——」

「だが?」

あさひが一歩前に出た。

「入口を開けるには、もうひとつ要る。状態だけでは足りない。生きた意思がいる」

こよいは久遠(くおん)を見た。

「意思って」

「鍵を差し込む手のことだ。記録を保持するだけでなく、自分の意志で境界に触れる存在。俺たちの手にある霜(しも)も水も泥も、まだ鍵の材料にすぎない。鍵になるには、差し出す行為がいる」

そのとき、おたまが動いた。  三毛の猫は音もなく境界の前へ歩み、誰にも見えないはずの膜(まく)のちょうど正面に、前脚を揃えて座った。ここだ、と示すように。

続いて、巾着(きんちゃく)の中で何かが動いた。

こよいは巾着(きんちゃく)の紐(ひも)が緩(ゆる)むのを感じた。自分が緩(ゆる)めたのではない。中から、押し開けられていた。

神々の珠(たま)から、光の一雫(ひとしずく)が滑り出した。

雫(しずく)は宙で形を変えた。丸い頭に、立った耳、ゆるく巻いた尾。水滴が自ら選んで取った姿は——猫だった。  おたまの形をした、小さな光の猫。  四柱のいずれでもない。三つの律動が溶け合ったところから、新しく生まれた一匹だった。

こよいは息を呑(の)んだ。

「……おたま?」

名前を呼ぶと、二つが同時に振り向いた。境界の前の三毛と、光の猫と。

光の猫は、こよいの手のひらの上で一度だけ跳ねた。小さな水音がした。それから指先を滑り降り、地面に落ちた。  地面に触れた瞬間、光の猫は歩き出した。境界に向かって、まっすぐに。  途中、本物のおたまの前で一度だけ立ち止まり、鼻先を触れ合わせた。教えたものと、教わったもの。橋の役目が、そこで静かに受け渡された。

「待って」

こよいが手を伸ばした。

「無理しなくていい。ぼくが——」

「止めるな」

久遠(くおん)が静かに言った。

「あれは、自分で決めている」

こよいの手が止まった。

光の猫の動きを見ていれば、分かった。追い立てられているのでも、引き寄せられているのでもない。自分の尾で地面を叩き、自分の力で進んでいる。

迷いのない動きだった。

あさひが腕を組んだまま、黙って見ていた。

「……あいつ、覚悟してやがる。最初(はな)から」

光の猫が境界の手前で止まった。  一拍だけ、動きが止まる。

こよいは唇を噛(か)んだ。止めたかった。引き戻して、巾着(きんちゃく)の中に仕舞い直したかった。だが光の猫の背中——あの小さな、光でできた背中が、こよいに何かを伝えていた。

ここはぼくが行くところだ。

光の猫に言葉はない。だがあの一拍の停止が、振り返りではなく、確認であることが分かった。自分の決断を、もう一度だけ確かめている。

光の猫が境界に触れた。

音がした。  鈴でも風でもない。紙が一枚、静かにめくられる音。頁(ページ)が開く音。記録が長い眠りから目を覚ます音。こよいの肌が粟立(あわだ)った。音は耳からではなく、背骨を伝って届いた。

光の猫の姿が薄くなった。  消えたのではない。境界に溶けていった。水が土に染みるように、猫の形が境界の膜(まく)に広がっていく。広がった場所から、空間の質が変わった。

向こう側の気配が、こちら側に滲(にじ)み出してきた。古い記録の匂いを含んだ風が、こよいの前髪を揺らした。

「——開いた」

久遠(くおん)が呟(つぶや)いた。声に、微(かす)かな驚きがあった。

扉は見えない。だが境界の一部が、通れる状態になっていた。光の猫が溶けた場所だけ、空気の抵抗が消えている。人ひとりが通れるほどの幅。

そのとき、おたまが立ち上がった。  三毛の猫は開いた場所へ歩み寄り、境界の膜(まく)に、自分の額(ひたい)をそっと押し当てた。長い一拍。何かを注ぎ込むように、猫は動かなかった。首輪の小さな鈴が、一度だけ、微(かす)かに鳴った。  やがて身を引くと、おたまはこよいを見上げた。もういい、と言うように。

こよいは境界に手を伸ばした。  光の猫が溶けた場所に触れた。

温かかった。

冷たくも、ぬるくもない。体温と同じ温度が、境界の膜(まく)に残っている。おたまの温度だった。光の猫は形を差し出し、生きた猫は温度を差し出した。二つでひとつの、扉だった。

「消えてない」

こよいの声が震えた。

「ここにいる。おたまの温もりをもらって、扉になって、ここにいる」

久遠(くおん)は何も言わなかった。目録(もくろく)を胸に抱え直し、境界に向き合った。

あさひが先に進んだ。  光の猫が開いた場所を、鞘(さや)を握ったまま通り抜ける。身体が半分向こう側に入った瞬間、あさひの息が一つ詰まった。だがすぐに歩を進め、完全に向こう側へ消えた。

久遠(くおん)が続いた。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が境界に触れた瞬間、光が一度だけ強く明滅した。そのまま通り抜けていく。

こよいは最後だった。

巾着(きんちゃく)を胸に押し当てた。軽くなった分だけ、布の皺(しわ)が深い。だがまだ温(ぬく)い。

境界の前に立ち、光の猫が残した温もりに両手を重ねた。

「ありがとう」

声にしたのは、それだけだった。

巾着(きんちゃく)の中は軽くなっていた。ひとつ分だけ軽い。だが温もりの跡(あと)は残っている。光の雫(しずく)がいた場所に、まだ温度がある。

こよいは手を離した。

足元を、おたまがすり抜けた。三毛の猫は自分が温めた道を、当たり前の顔で先に通っていく。境界の膜(まく)は、猫の毛一本さえ引き留めなかった。  こよいも境界を通り抜けた。  向こう側の空気は、重くて静かだった。古い紙の匂いがした。膨大な記録が積み重なった場所の、乾いた、だが確かに生きている匂い。

振り返ると、境界の膜(まく)がゆっくりと厚みを取り戻していた。だが光の猫が溶けた場所だけ、うっすらと温かい色を帯びている。薄い橙(だいだい)。水が朝焼けを映したときの色。完全には閉じない。あの温もりが、そこにある限り。

こよいは前を向いた。  あさひと久遠(くおん)が、数歩先で待っていた。暗い空間の中に、義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)だけが灯(とも)っている。

その光に向かって、こよいは歩き出した。

足音が、古い紙の匂いに吸い込まれていく。

背中には、境界に残してきた温もり。足元には、隣を歩くおたまの温もり。  二つは、同じ温度だった。

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