意識が、途切れ途切れになっていた。 木漏れ日が、ぼんやりと見える。 地面の冷たさが、頬に伝わる。
どこにいるのか、分からない。 どれくらい歩いたのか、覚えていない。 ただ、もう動けないということだけが、分かった。
額が、熱い。 血が、まだ流れている気がする。 左腕が、痛い。体中が、痛い。
呼吸が浅い。吸い込んでも、空気が肺の奥まで届かない。指先から、感覚が徐々に消えていく。
「……だいじょうぶ」
祠の神の声が、遠くから聞こえた。
「……いる」
「……まだ、いる」
空き地の神の声も。
神々の声が、こよいを繋ぎ止めている。 消えそうな意識を、かろうじて繋いでいる。でも、もう限界だ。 目を閉じたら、もう開かないかもしれない。 それでも、瞼が重い。
そのとき。
足音が聞こえた。 近づいてくる。 人の足音。
観測者か。 追いつかれたのか。
体が、動かない。 逃げようとしても、指一本動かせない。
足音が、止まった。 すぐ近くで。
「……生きてるか」
声が聞こえた。 低い声。でも、観測者の声とは違う。 抑揚がある。人間らしい声。
目を開けようとした。 視界がぼやける。顔が、見えない。 ただ、誰かがいる。こよいを見下ろしている。
「ひどいな……」
その人が、呟いた。
「動くな。今、手当てする」
何かが、こよいの体を持ち上げた。 背負われている。誰かの背中に。
「しっかりしろ。まだ死ぬな」
揺れる。一歩ごとに、体が揺れる。 誰かの体温が、背中を通して伝わる。観測者の気配とは違う。冷たくない。人間の温度だ。 意識が、また遠くなっていく。
「……だれ」
声が、出た。かすれた声。
「喋るな。血が出る」
暗くなっていく。 視界が、狭くなっていく。 だが、神々の声だけは、まだ聞こえていた。
「……だいじょうぶ」
「……わるいひと、じゃない」
「……たぶん」
それを最後に、意識が途切れた。
◇
目を開けた。
天井が見えた。岩の天井。洞窟の中だ。 薄暗い。でも、近くで何かが光っている。 油灯だ。小さな炎が、揺れている。
岩肌が、炎の光を受けて赤みを帯びている。洞窟の奥から、水が滴る音が微かに響いていた。空気は冷たいが、どこからか温もりが漂っている。
誰かが、火を焚いてくれていたのだ。 体の下には、何かが敷いてあった。毛皮のような粗い感触だ。岩の冷たさが直接肌に触れないよう、気を使ってくれていた。
「……」
声を出そうとしたけど、喉が乾いていた。
「起きたか」
声がした。 首を動かした。痛い。でも、動く。
誰かが、そこにいた。 壁に背を預けて、座っている。 顔は、よく見えない。油灯の光が、逆光になっている。 影の輪郭から、長い腕と広い肩幅が読み取れる。座り方は穏やかだが、その空気には張り詰めものがある。
「ここは……」
「森の中の隠れ家だ」
その人が答えた。
「観測者は、ここまでは来ない。たぶん」
観測者。 その言葉で、記憶が戻ってきた。 逃げていた。追われていた。崖から落ちた。血を流した。
「……あなたは」
「境の里の者だ」
短く答えた。
「お前が森に逃げ込んだのを見て、追いかけてきた」
境の里の人。 あの騒ぎの中で、追いかけてきてくれたのか。
「傷は、塞いでおいた」
その人が言った。
「額は深いが、命に別状はない。左腕は打撲だ。折れてはいない」
こよいは、自分の体を見た。 額に、布が巻かれている。左腕も、何かで固定されている。 手当てしてくれたのだ。
布は丁寧に巻かれていた。きつすぎず、緩すぎず。慣れた手つきで処置したことが分かる。包帯からは、薬草の匂いがした。苦くて、青い匂い。 こよいは、左腕をそっと動かしてみた。関節がきしむが、骨は折れていない。布の下の肌に、薬草の成分が滲んでいるのか、微かな熱が残っていた。
「……なぜ」
こよいは聞いた。
「……どうして、助けてくれたの?」
沈黙。 油灯の炎が、揺れている。 その人の顔が、一瞬だけ見えた。背の高い少年。厳しい顔。でも、目は穏やかだった。
「集め手を見捨てるわけにはいかない」
その人が言った。
「お前が運んでいるものは、里にとっても大切なものだ」
集め手。 この人も、知っている。こよいが何者か、知っている。
「観測者に追われていただろう」
その人が続けた。
「あいつらは、境を越えてきた。里は今、大騒ぎだ」
「里人たちは……」
「無事だ。あいつらは、お前だけを追っていた。里人には手を出さなかった」
それを聞いて、少しだけ安心した。 里の人たちが、時間を稼いでくれた。あの叫び声。無理やり押し開けられた木戸。みんなが、こよいのために動いてくれた。そのおかげで、今、ここにいる。 巾着を握る指に、少しだけ力が戻った。
「水、飲めるか」
竹筒を差し出された。 こよいは、それを受け取った。水が、喉を潤す。冷たい。おいしい。乾き切った唇に沁みて、体の芯まで染み渡るようだった。 竹筒は、使い込まれたもので、表面に無数の細い割れ目が入っていた。飲み干した後、こよいはそれを自分の膝の脇に置いた。
「しばらく、ここにいろ」
声の主は、淡々と言った。
「傷が癒えるまで、動くな」
こよいは、頷いた。 頷きながら、考えていた。
この人は、本当に味方なのか。 本当に、信用していいのか。
巾着に、手を伸ばした。 腰にある。無事だ。中の神々も、いる。
「……どう?」
心の中で聞いた。
「……わからない」
祠の神の声。
「……ようすをみて」
空き地の神の声。
神々も、判断がつかないらしい。でも、少なくとも、警戒はしていない。巾着の温度が穏やかなことが、その証だった。 巾着は、冷たくない。 こよいは、そのまましばらく目を閉じていた。水滴の音と、自分の呼吸だけが、洞窟の中に響いている。
少年は、静かに立ち上がった。 体格の良い背中が、油灯の光に淡く浮かぶ。洞窟の奥へと歩き出す。岩肌を踏む足音が、規則的に響いた。
こよいは、その背中を見つめた。 境の里の人。集め手のことを知っている人。 助けてくれた人。
この温かさを、信じてもいいのか。
分からない。
まだ、なにも分からない。
