第021話 逃走
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第021話 逃走

第1章 霧の序章

「力ずくだ」

その言葉を聞いた瞬間、体が動いた。  考えるより先に、足が動いた。

走った。  観測者かんそくしゃに背を向けて、裏口うらぐちへ向かって、全力で走った。

後ろで、声が聞こえた。

「逃がすな」

観測者かんそくしゃの声。低く、平坦で、感情がない。でも、追ってくる気配がある。

里の人たちが、動いた。  観測者かんそくしゃの前に、立ちはだかった。

「行け!」

誰かの声。若い男の声。

「早く!逃げろ!」

女の声も。

振り返る暇はなかった。  ただ、走った。

裏口うらぐち木戸きどが見えた。  開いている。誰かが、開けてくれていた。

飛び込むように、木戸きどをくぐった。  後ろで、叫び声が聞こえた。里の人たちの声。でも、止まれなかった。止まったら、終わりだ。

森に入った。  木々の間を、走り抜ける。  枝が顔をく。根につまずきそうになる。  それでも、足を止めなかった。  後ろで、何かが壊れる音がした。木戸きどを叩き壊しているのかもしれない。考えると足が止まりそうになるので、前だけを見た。

湿った土の匂いが、鼻を突く。朝露あさつゆに濡れた葉が、腕を打つたびに冷たい水滴を散らす。視界は暗い。木々が空を覆い隠して、朝だというのに薄闇の中を走っているようだった。

巾着きんちゃくが、揺れている。  ほこらの神と空き地の神が、中で震えている。

「……はしれ」

ほこらの神の声が、かすかに聞こえた。

「……とまるな」

後ろから、気配が追ってくる。  足音は聞こえない。でも、分かる。  冷たい視線が、背中を刺している。  観測者かんそくしゃが、追ってきている。

木々の間を縫って走る。  道はない。獣道けものみちだけ。  薄暗い。朝なのに、森の中は暗い。  木の根を飛び越える。低い枝をくぐる。  里の灯りが見えなくなった。もう、引き返せない。

息が切れてきた。  足が重い。体が重い。でも、止まれない。

「……もうすこし」

空き地の神の声。

「……あとすこし」

木の幹に手をついて、方向を変えた。こけむした樹皮が、手のひらにざらりと触れる。足元は落ち葉と腐葉土ふようどで柔らかく、踏み込むたびに沈んで走りにくい。体力が削られていくのが分かる。  右へ走れば川が流れているはずだ。水音が聞こえない。まだ遠い。左の空がわずかに明るい。林の切れ間かもしれない。だが、開けた場所に出れば観測者かんそくしゃに見つかる。暗い方へ、木の濃い方へ走るしかない。

前方に、崖が見えた。  小さな崖。三メートルほどの段差。  下りれば、逃げ切れるかもしれない。

崖の縁まで来た。  下を見た。岩混じりの斜面。こけが生えている。  飛び降りるしかない。  巾着きんちゃくを脇に抱え、腕で押さえ込む。中の神々が、さらに強く震えた。  足を踏み出した。  その瞬間、こけで滑った。

体が、宙に浮いた。

落ちる。  岩が見えた。  ぶつかる。

衝撃。  左腕を打った。額を打った。  体中が、痛い。

「……っ」

声が出なかった。  痛みで、息ができない。

地面に倒れたまま、動けなかった。  空が見えた。木々の間から、わずかに光が漏れている。

「……たって」

ほこらの神の声が聞こえた。

「……はやく、たって」

空き地の神の声も。

額が、熱い。  手で触れた。赤い。血だ。  額から、血が流れている。  指で拭うと、血の筋がてのひらにべったりとついた。傷は浅いはずはない。だが、右目は見えている。

左腕も痛い。動くけど、痛い。  体中が、打撲だぼくだらけだ。でも。

後ろから、気配が近づいてくる。  冷たい気配。観測者かんそくしゃの気配。  まだ、追ってきている。

「……いきて」

神々の声が、重なった。

「……にげて」

「……たって」

立ち上がった。  体が悲鳴を上げている。でも、立てる。  走れる。まだ、走れる。  左腕をかばいながら、体勢を立て直す。指先がしびれて、巾着きんちゃくを握る力が弱まっている。

血が、目に入る。  手で拭った。視界がぼやける。  それでも、足を動かした。

走った。  痛みを無視して、走った。  血を流しながら、走った。膝が笑い、呼吸のたびに胸の奥が焼けるように熱い。枯れ枝を踏み砕く音が、自分の足音なのか追手の足音なのか、もう区別がつかなかった。

森の奥へ。  さらに奥へ。  観測者かんそくしゃから、離れるために。

どれくらい走っただろう。  足が止まりそうになる。何度も、止まりそうになる。  それでも、走り続けた。

やがて、気配が薄くなった。背中を刺していた重圧が、少しずつ軽くなる。  冷たい視線が、遠ざかっていく。  観測者かんそくしゃが、追跡をやめたのか。  それとも、見失ったのか。  足を止めて立ち耳を澄ませる。風の音だけ。木の葉を揺らす音だけ。あの気配は消えていた。

木々の間を抜ける風が、汗ばんだ肌を冷やした。血の匂いが、自分の周りに漂っている。鉄の味が、口の中に広がっていた。唇の端が切れて、舌で触れると痛みが走る。視界の端が暗くにじんでいた。

分からない。でも、追われている感覚が、薄れていく。

足が、止まった。もう、限界だった。

木に寄りかかる。  息が荒い。体中が痛い。  額から、まだ血が流れている。

巾着きんちゃくを確認した。  ほこらの神と空き地の神は、無事だ。  震えているけど、いる。

「……だいじょうぶ」

ほこらの神の声が、かすれた。

「……まだ、いる」

「……いっしょに、いる」

こよいは、巾着きんちゃくを握りしめた。  神々が、まだいる。  逃げ切った。まだ、生きている。でも、体が限界だ。  血が止まらない。痛みが引かない。  このままじゃ、動けなくなる。

森は、まだ続いている。木々の影が重なり合って、どこまでも暗い。  どこにいるのか、分からない。  どこへ行けばいいのかも、分からない。

ただ、分かることが一つだけある。  止まったら、終わりだ。  動き続けなければ、観測者かんそくしゃに追いつかれる。

こよいは、木から体を離した。  よろめきながら、一歩を踏み出す。  流れ落ちる血を拭うこともせず、ただひたすらに、森の奥へと歩き続けた。  風向きが変わった。湿ったこけの匂いの奥に、微かに腐った木の匂いが混じる。水場が近いのかもしれない。いずれにせよ、このままでは倒れる。水があれば、傷を洗える。神々も少しは落ち着くかもしれない。

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