第212話 涙の灯明
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第212話 涙の灯明

第7章 灯の距離

霧列車きりれっしゃは、線路の尽きる場所で三人を降ろした。中陵ちゅうりょうへまっすぐ届く線路は、ここにはない。この先は、足で越えるしかなかった。

きりの底から突き出すようにそびえる石段があった。いただききりの向こうに隠れている。階段の両側に手すりも壁もなく、一歩踏み外せば闇が口を開けている。

石の表面に、文字が刻まれていた。細く、浅く、人の手で彫られた名前。だが輪郭りんかくは薄れ、半ばまで石の色にまれかけている。漂白ひょうはくが進んでいた。

こよいは膝をつき、指先で文字をなぞった。冷たい。氷よりも深い冷たさが、指の腹から手首まで走った。

そのとき、右手の爪の下に白いものが見えた。霜里しもざとの霜。井戸いどの縁に触れたときに入り込んだ氷の粒が、いまだに溶けずに残っている。体温で溶けるはずの氷が、指先にだけ冬を閉じ込めたまま光っていた。

左手の指の腹には、星降町ほしふりまちの水が薄いまくのように張りついて乾かない。いてもまたにじむ。井戸いどに手を差し入れたときのぬるい感触が、皮膚の下に染みこんだまま消えなかった。

手の甲には海図のかいずのまちの泥がしわに沿って茶色い筋を描いていた。乾いた泥は地図の等高線とうこうせんのように走り、爪のきわまで入り込んでいる。

三つの井戸いど痕跡こんせきが、洗ってもいても消えずに手に残っている。こよいは不思議に思いながらも、その手を握ったり開いたりした。霜の冷たさ、水のぬるさ、泥の重さ。三つの温度がてのひらの上で混ざらずに共存していた。

巾着きんちゃくが震えた。神々が硬く冷たい粒になって身を寄せ合っている。

久遠くおん目録もくろくを開いた。蒼光そうこうページを照らした瞬間、文字が動いた。読もうとした行の端から、インクがにじむように薄れていく。

「読んでいるかたわらから消される」

久遠くおんは消えゆく行を追い、残った断片を記憶に刻みつけるように目を走らせた。額に汗が浮いている。

だが次の瞬間、白くなりかけたページの隅に、別の文字が浮かんだ。既存の記述とは違う筆跡だった。癖のある崩し字が、すみが紙の繊維せんいを伝うようにゆっくりと形を成していく。消えていく文字とは逆の方向に、一画ずつ濃くなる。

八重やえだ」

久遠くおんの声が硬くなった。義眼ぎがんの蒼が鋭さを増す。

文字は古い医療記法で書かれていた。薬草の名に見せかけた場所の指定。分量に見せかけた手順の記号。せんじ方の間に、本当の意味が織り込まれている。八重やえが薬草の調合記録に使う、あの独特の崩し字だった。

久遠くおんは文字を指で辿たどりながら、低く読み上げた。

「『霜一匁いちもんめ、水一合、泥三寸。三味さんみを合わせ、患者の手にすでに薬あり。服用のこと』」

八重やえ処方箋しょほうせん。治療師は病を治すのではなく、患者の体がすでに持っている力に気づかせる。傷をふさぐのではなく、治る順番を整える。八重やえはずっとそういうやり方をしてきた。観測者かんそくしゃの体系が人に与えた傷を手当てしながら、体系の弱点を——傷口の裏側を見てきた者の書き方だった。

こよいは自分の両手を見下ろした。

霜と水と泥。三つの温度がてのひらの上で重なっている。凍った名前、流れる名前、沈んだ名前。三つの井戸いどを巡る旅の中で、手が覚えたもの。ずっとそこにあったのに、意味が見えなかった。

「……ぼくたち、もう持ってる」

声が震えた。驚きではない。もっと静かな、に落ちるときの震えだった。

「鍵を探す必要はなかった」

久遠くおん目録もくろくページを指で押さえた。八重やえの文字はもうにじまない。漂白ひょうはくあらがうように、紙の上に定着している。

「俺たちの手が、もう鍵になっている。三つの保存形式——霜里しもざとの氷、星降町ほしふりまちの水、海図のかいずのまちの泥。それを同時に差し出せば経蔵きょうぞうが開く」

あさひが自分のてのひらを見た。剣を握り続けた手に、泥のあとと水の冷たさと霜の白さが混ざっている。

「最初から仕組んでたのか、あの薬師くすしは」

「仕組んだんじゃない。道を敷いた」

久遠くおん目録もくろくを閉じた。八重やえの文字が加わったせいか、残り少ないページがほんのわずかだけ厚みを取り戻したように見えた。

「患者が自分で歩けるように、痛くない順番で導く。治療師の処方とはそういうものだ。八重やえ霜里しもざと星降町ほしふりまちも、痛みの少ない順に俺たちへ歩かせた」

あさひは鼻を鳴らした。だが自分の手をもう一度見て、泥のあとを親指でこすった。落ちない。落ちないことを確かめるように、もう一度こすった。それから先に立ち、剣のつかに手を添えてきりの奥を見る。

「足元だけ見ろ。上は俺が見る」

石段を昇り始めた。おたまが先に立ち、狭くなる段を苦もなく踏んで、時折り振り返っては三人の遅れを測るように待った。二段目で二人並ぶのがやっと、三段目で肩が触れ、五段目を過ぎると一人分しかない。一段ごとに刻まれた名前の数が増えた。ここまで辿たどり着いた者は多かった。女の名前、子どもの名前、見たこともない文字でつづられた遠い国の誰かの名前。すべてが等しく消されようとしている。

こよいの頬を涙が伝った。声は出さない。ただ、止められなかった。

涙が石段に落ちた瞬間、氷が割れるような音がした。涙が触れた場所の文字が、ほんのわずかだけ濃くなっていた。すぐにまた薄れ始める。けれど一瞬だけ、名前は戻った。  灯明とうみょうみたいだ、とこよいは思った。消えかけた名前の前に、一粒ずつ供える、小さな灯。長くは保たない。それでも、供えられたことは残る。

久遠くおんが静かに言った。

「涙の成分が漂白ひょうはくを遅延させている。理論的にはあり得ない。だが、事実だ」

あさひは立ち止まらなかった。一度だけ肩越しに振り返り、こよいの顔を見た。何も言わない。代わりに剣のつかたたく音がひとつ、石段に響いた。

三人は昇り続けた。きりが濃くなり、石段の幅がさらに狭まる。こよいは霜と水と泥の残る手で石の縁をつかんだ。三つの温度が石に触れるたびに、消えかけた文字がかすかに震える。

巾着きんちゃくが微かに光った。蝋燭ろうそくの火より頼りない光。弱りきっていたはずの四柱が、処方箋しょほうせんの言葉に応えたのか。小さな脈がとくん、と打った。先ほどより間隔が短い。

光が石段に落ちるたびに、消えかけた名前が一瞬だけ浮かんだ。

石段の下では、涙に触れた名前が漂白ひょうはくあらがいながら、最後の輪郭りんかくを留めている。三人の足音がきりに吸い込まれていく。

こよいは霜と水と泥の残る両手を、そっと握った。三つの井戸いどの記憶がてのひらの中で脈打っている。

薬はすでに手の中にある。あとは、飲むだけだった。

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