足が、動かなかった。 観測者の視線が、こよいを縛りつけている。
観測者は、ゆっくりと近づいてきた。 足音がない。地面を踏んでいるはずなのに、音がしない。 一歩。また一歩。 距離が詰まっていく。 こよいの呼吸が、浅くなる。脇腹に押し込んだ巾着から、神々の震えが掌を通って伝わってきた。
周囲の里人たちは、凍りついたように動かない。 逃げようとする者もいない。叫ぶ者もいない。 みんな、観測者を見つめている。見つめることしか、できないでいる。 足元の土が朝露で濡れて冷たい。逃げなければならないのに、膝が曲がらない。
「……見つけた」
観測者の声が聞こえた。 低く、平坦な声。抑揚がない。機械のような声。
「お前を、探していた。集め手」
集め手。 その言葉に、こよいの背筋が凍った。 知っている。この人は、こよいのことを知っている。
観測者は、こよいの三歩手前で止まった。 顔が、はっきりと見えた。 青白い肌。薄い唇。そして、灰色の目。 目だけが、異様に生きていた。観察する目。測る目。冷たく、正確な目。
「……だれ」
声が震えた。
「私は観測者だ」
観測者は、淡々と答えた。
「測る者。世界を、正しく記録する者」
手に持った道具が、かすかに光った。 コンパスのような形。金属製。先端が尖っている。
「……なにを、する」
「固定だ」
観測者の目が、こよいを捉えて離さない。
「お前も、固定してやろう」
固定。 しおりが言っていた言葉。長も言っていた言葉。 測られたら、固定される。動けなくなる。変われなくなる。
「……いやだ」
こよいは、後ずさった。 一歩。たった一歩。でも、足が重い。 足の裏に湿った土の冷たさが残った。もう一歩踏み出せそうになかった。背中の向こうに裏口がある。あと数歩。でも、体が動かない。
「逃げても無駄だ」
観測者は、追ってこなかった。 代わりに、ゆっくりと話し始めた。
「楽になれる」
その言葉に、こよいは足を止めた。
「固定されれば、苦しみから解放される」
「もう、重い荷物を持って歩く必要はない」
「神々を集める必要も、届ける必要もない」
「全てが、終わる」
観測者の声は、穏やかだった。 穏やかで、冷たい。 観測者はじっと動かない。まるで自分が測るための基準点のように、一点に定まっている。その静けさが、逆にこよいの足を奪っていた。
「完全固定だ」
観測者が、一歩近づいた。
「世界を、標本にする」
「揺らぎを消す。変化を止める」
「永遠に、そのまま。美しいだろう?」
こよいは、その言葉の意味を、少しずつ理解していった。 標本。 理科室で見た、動かない蝶。ピンで刺されて、ガラスの中に閉じ込められた蝶。 羽の模様は美しいまま。色も褪せない。でも、もう飛べない。風を感じることも、花の蜜を吸うこともない。 あれと、同じになる。 生きているのに、動けない。存在しているのに、変われない。 頬を撫でた風さえ、観測者の言葉に染まって冷たく感じられた。
「……なぜ」
こよいは聞いた。
「なぜ、そんなことを」
観測者は、首を傾げた。 人間らしい仕草。でも、どこか不自然だった。
「世界は、揺らぎすぎている」
「不確定なものが、多すぎる」
「神は生まれ、消え、移動する。定まらない」
「人は、迷い、変わり、死ぬ。予測できない」
「その不安定さが、世界を壊している」
観測者の目が、細くなった。
「私たちは、それを正す」
「全てを測り、全てを記録し、全てを固定する」
「そうすれば、世界は完璧になる」
「変わらない。壊れない。永遠に、そのまま」 その言葉が空気を押しのけ、里人は誰もが息を止めていた。
巾着が、氷のように冷たい。 祠の神と空き地の神が、震えている。
「……ちがう」
祠の神の声が、かすかに聞こえた。
「……それ、ちがう」
空き地の神の声も。
「……うごかない、せかい」
「……しんでる」
こよいは、巾着を握りしめた。 神々が、恐れている。でも、反論している。 動かない世界は、死んでいる。 その言葉が、胸に響いた。 握りしめた巾着の中で、二つの震えが重なっているのが分かった。恐怖だけではない。抗おうとする微かな意志。
「お前は、揺らぎを運んでいる」
観測者が言った。
「神々は、揺らぎそのものだ」
「お前が運ぶ限り、世界は揺らぎ続ける」
「だから、お前を固定する」
「お前と、お前の神々を」
道具が、また光った。 今度は、強く。 観測者の目も、光っている。
「どうだ」
観測者は、手を差し出した。
「楽になれるぞ」
「もう、歩かなくていい。悩まなくていい。失わなくていい」
「全てが、終わる」
その手は、冷たそうだった。 触れたら、凍ってしまいそうだった。 指は細く、白く、血の通っている気配がない。爪の先まで、完璧に整っている。人間の手のようで、人間の手ではない。
こよいは、その手を見つめた。 楽になれる。 その言葉が、少しだけ魅力的に聞こえた。 重い巾着。長い道。観測者から逃げ続ける日々。 全てが終われば、楽になれる。でも。 足元に落ちた自分の影が、朝日を背に観測者の足元まで伸びていた。動かない影が、二つの間を結んでいるようだった。
道標の神の顔が、浮かんだ。
「……わからない」
また会えるか、わからない。 あの言葉が、胸に刺さっていた。
「神雧」という言葉が、浮かんだ。
全ての神が、一箇所に集まる。 その日が来るまで、届け続ける。 それが、集め手の仕事だ。
固定されたら、届けられない。 届けられなければ、神々は集まれない。 集まれなければ、神雧は起きない。
こよいは、観測者の手を見つめた。 冷たい手。終わりの手。
「……断る」
その言葉が、口から出た。 震えていた。でも、はっきりと言えた。 その一言を口にした瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。重い紐が少しだけ緩んだような、小さな感覚。
観測者の目が、わずかに細くなった。
「……そうか」
声には、感情がなかった。 残念そうでも、怒っているようでもなかった。 ただ、事実を確認しただけのような声。
「なら」
観測者が、道具を構えた。
「力ずくだ」
