第202話 理の階段
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第202話 理の階段

第7章 灯の距離

井戸いどを出ると、光が変わっていた。

さっきまで灯籠とうろうの蒼白だけだった通りに、別の色が混じっている。壁の表面に薄いだいだいの筋が走り、石畳いしだたみ水溜みずたまりに揺れている。井戸いどの底から昇ってきた光が、地上まで届いたのだ。服のすそはまだ湿っていた。井戸いどの底の水の匂いが、身体から立ち昇っている。名前の断片を含んだ水。てのひらにはまだ、あの光の粒が寄っては離れた感触が残っていた。

「ここからどこへ行く」

あさひがいた。剣のつかに手を置いたまま、通りの先を見ている。

久遠くおん目録もくろくふところから取り出した。革の表紙を開く。蒼光そうこうページを照らす。だが文字の輪郭りんかくにじんでいた。前に見たときよりも、はっきりと崩れている。すみが紙に溶けるように広がり、文字と文字の境目が消えかけていた。

「……劣化れっかが進んでる。この区域を通るたびに、書き戻した文字の層が削られている」

久遠くおんページをめくった。次のページで、指が止まった。列車の中で薄くなっていた紙が、さらに痩せていた。もう紙とは呼べない。光にかすまでもなく、向こう側の文字が表ににじみ出している。

「……列車で見たときより、格段に速い。この町は記録を溶かす」

指先でページの端をつまむと、紙がしなるのではなく、崩れた。粉のように細かい欠片が蒼光そうこうの中を舞い落ちる。久遠くおんの指が止まった。義眼ぎがんの光が揺れ、すぐに戻った。動揺を押し込んだ顔だった。

こよいは久遠くおんの手元を見た。前回なかった変化だった。崩れた紙片が蒼光そうこうに照らされて銀色に光り、地面に落ちて消えた。一瞬だけ文字の形が見えた気がしたが、それも砕けて、ただの粉になった。

「あと何回通れるの」

久遠くおんは答えなかった。ページを閉じ、表紙を手ででた。革の表面にもひびが入り始めている。ことわりに管理された情報は、ことわりの及ぶ場所で消耗する。仕組みの中にある記録は、仕組みに食われる。

「読めるうちに、読む」

それだけ言って、再びページを開いた。蒼光そうこうの出力を上げている。額に汗が浮いた。残っている文字を一度で焼き付けようとしている。時間を惜しむ手つきだった。

あさひが黙ってそれを見ていた。口は挟まない。ただ剣を持つ手が少しだけ強張こわばっている。久遠くおんが焦る姿を、これまでほとんど見たことがなかったからだ。

しおりの帳面を思い出した。

こよいは胸の内側に仕舞った革表紙の感触を確かめた。油で押した凹凸おうとつ。神々の温度でしか浮かばない地図。三つの町を結ぶ裏道の印。経蔵きょうぞうの二文字。

目録もくろくと帳面は、同じ紙に同じ道を記していた。けれど成り立ちがまるで違う。目録もくろくことわりの写し。ことわりに属するから、ことわりに消される。帳面は油のみぞ。物理的なくぼみだけで作られた記録だ。文字ですらない。紙の肉体に刻んだ傷痕きずあとだった。

しおりは知っていたのだ。この世界ですみが消え、情報が削られ、ことわりに管理されたものが朽ちることを。だから言葉を使わなかった。消されない方法を選んだ。油と圧力。紙を燃やさない限り、剥がしようのない記録を。

そのことが、今ここで意味を持ち始めている。久遠くおん目録もくろくが一枚崩れるたびに、しおりが油を押し付けた夜の重みが増す。あの人は遠くから、この瞬間を支えている。

久遠くおん目録もくろくが消えても、しおりの地図がある。油のみぞは、水でもことわりでも消せない。観測者かんそくしゃの目にも映らない。見えないものは、奪えない。しおりの実務性は、そこまで見通していた。

久遠くおんくん。目録もくろくがだめになっても、道は分かる」

久遠くおんが顔を上げた。蒼光そうこうで照らしていたページから目を離し、こよいを見た。

「しおりの帳面がある。三つの町と経蔵きょうぞうの位置。目録もくろくとは別の記録が、ここにある」

こよいは胸元を叩いた。革の硬さがてのひらに返った。久遠くおん義眼ぎがんが一瞬だけ揺れた。蒼光そうこうの震え。驚きか、安堵あんどか。

「……写しが二つあるということか」

「写しじゃない」

こよいは首を振った。

「しおりが刻んだ原本だよ」

久遠くおんは口を閉じた。目録もくろくの崩れかけた表紙を見下ろし、それからこよいの胸元を見た。ことわりの記録と、ことわりの外にある記録。前者は消え、後者は残る。その事実を、久遠くおんは数秒かけて飲み込んだ。

小さくうなずいた。それから目録もくろくを丁寧に閉じた。壊れかけた道具を、最後までいたわる手つきだった。  足元に、おたまが身体を寄せた。崩れていくものをいたわるように、久遠くおんすねに一度だけ額を擦り付けて、離れた。

「……記録媒体きろくばいたいとしては、あちらの方が上位だ。ことわりに依存しない。物理層だけで情報を保持している」

久遠くおんは、崩れかけた目録もくろくと、こよいの胸元とを見比べた。

「記録には段がある。ことわりの写し、すみの文字、彫った銘、油のみぞ——階段のように、一段ずつ。上の段ほど便利で、消えやすい。下の段ほど不便で、消えない。世界は今、そのことわりの階段を、上から順に降りている」

久遠くおんらしい言い方だった。しおりの帳面を「上位」と呼ぶことが、久遠くおんにとっての最大の賛辞であることを、こよいは知っていた。

あさひが鼻を鳴らした。

「つまりあの帳面が本命で、こっちは予備ってことか」

あさひが目録もくろくあごで指した。久遠くおんが眉を動かしたが、否定しなかった。

「道が二本あるなら、一本消えても歩ける。行くぞ」

あさひは待たなかった。もう歩き出している。背中を向けたまま、手だけを振った。ついて来い、の合図だった。

三人は通りを抜け、停車場ていしゃじょうへ向かった。壁のだいだいの筋が、歩くにつれて薄くなっていく。井戸いどの光は地上では長く保たない。灯籠とうろうの蒼白が戻り、三人の影が石畳いしだたみに落ちた。

こよいは歩きながら、服越しに帳面の輪郭りんかくを指で辿たどった。角が丸く、背がふくらんでいる。ページの間に挟まれた押し花の分だけ、帳面は厚い。花の匂いはもう分からなかった。けれど油のみぞは確かにそこにある。目を閉じて指で触れれば、線が道を教えてくれる。

久遠くおんが少し前を歩いていた。目録もくろくふところに戻し、蒼光そうこう灯籠とうろう代わりにして道を照らしている。背中はいつもと変わらない。けれど歩調がわずかに速い。

巾着きんちゃくの神々が穏やかに脈打っていた。帳面の革越しに、乾いた花弁かべんのかすかな記憶が伝わってくる。

しおりが残した道は、ことわりの外にある。だから消えない。だから、歩ける。

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