第201話 砂の境の深淵
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第201話 砂の境の深淵

第7章 灯の距離

星降町(ほしふりまち)の井戸(いど)は、霜里(しもざと)のものとは姿が違った。

場所も違った。町の南の外れ——石畳(いしだたみ)が尽き、砂(すな)がはじまる、ちょうどその境目に、それは口を開けていた。半分は町の水に、半分は砂の乾きに属する場所。境の上に穿(うが)たれた、深い穴。  石畳(いしだたみ)ではなく、黒い岩盤(がんばん)に穿(うが)たれた穴。縁(ふち)は滑らかに削られ、人の手が入った痕跡(こんせき)があった。穴の周囲に小さな石柱が等間隔に並び、その影が地面に短く落ちている。

石柱の頂部の窪(くぼ)みに、水が溜まっていた。凍っていない。

「温い」

こよいが指を浸(ひた)した。体温よりわずかに低い。霜里(しもざと)では、あらゆる水が凍っていた。ここでは違う。指を包む水がやわらかい。皮膚の表面で霜が溶け、指先の感覚が戻ってくる。忘れていた温度だった。

久遠(くおん)が蒼光(そうこう)を水面に落とした。光が水を透過し、底で細かな粒がゆらめいている。

「名前の断片だ。凍結から溶け出した記録が、水に混じっている」

あさひが井戸(いど)の縁(ふち)に立ち、中を覗(のぞ)き込んだ。暗い穴の奥から湿った風が吹き上がる。

「壁が濡れてる。水が垂れてる」

霜里(しもざと)の井戸(いど)は完全な氷だった。何もかもが静止し、光すら動きを止めていた。だがここでは壁面の氷が緩んでいた。水滴が石の凹凸(おうとつ)を伝って落ちていく。ぴちゃん、と小さな音が底から返った。

三人は壁面の足場を使い、井戸(いど)の中へ降り始めた。足場は壁に穿(うが)たれた浅い窪(くぼ)みで、拳(こぶし)ひとつ分ほどの奥行きしかない。階段と呼ぶには粗末すぎた。ただの穴だった。

最初の一段で、こよいの足が滑った。壁に張り付いた薄い水膜(すいまく)が、靴底の摩擦を奪う。指が岩の突起を掴(つか)み、爪の先に痛みが走った。ぶら下がった身体の重さが肩から腕を伝い、指の関節に集中する。

「足元見ろ。苔(こけ)が生えてる」

あさひが下から声を投げた。先に二段ほど降り、壁の窪(くぼ)みに片足を置いている。水に濡れた苔が足場の縁(ふち)を覆い、石の境目が見えない。足の裏に伝わるのは硬さだけで、幅が分からない。片足を下ろすたびに、足場の端がどこなのかを爪先で探る。見えない崖(がけ)の上に立つのと変わらなかった。

こよいは身体を壁に押し付け、頬が冷たい岩に触れた。心臓の音が岩を通して返ってくるような錯覚。降りるたびに足場が小さくなり、つま先だけで身体を支える段があった。膝が震え、ふくらはぎが引き攣(つ)る。手を離したら底まで落ちる。その距離が、降りるほどに短くなるはずなのに、暗さが深さを曖昧(あいまい)にして恐怖だけが正確だった。

久遠(くおん)が上から蒼光(そうこう)を落とし、足場を照らした。光の中で水滴が壁を伝い、こよいの手の甲を流れていく。冷たさの質が変わっていた。刺すような霜里(しもざと)の冷たさではなく、肌を撫(な)でる冷たさ。指が岩を離せなくなる恐怖と、水の温(ぬる)さが溶かしていく緊張が、交互にこよいの身体を揺らした。

あさひが下から手を伸ばし、こよいの足首を掴(つか)んで足場へ導いた。手の力が強い。無言のまま位置を正し、すぐに自分の次の段へ降りていく。

降りるにつれ、空気が湿った。土と石を含んだ水の匂い。壁に手を当てると、岩が温かい。壁面を伝う水滴が合流し、細い流れを作っている。流れの中に光の粒が混じっていた。淡い橙色(だいだいいろ)。温かみのある色だった。

底に着いた。最後の一段を降りたとき、足が水を踏んだ。足首まである。水底(みなそこ)の石は滑らかで、足裏に角がない。長い時間をかけて水に磨かれた形だった。

おたまが、水際の岩の上に座っていた。  いつ降りたのか。あの足場を、四つ足でどう降りたのか。誰も見ていない。猫は濡れてもいない毛を一度舐(な)め、三人が揃うのを待っていたような顔をした。

壁の岩には、層があった。濡れて黒い層と、乾いて白い砂(すな)の層が交互に重なり、井戸(いど)の深さぶんだけ縞(しま)をなしている。水の記録と、砂の忘却。二つのものが何百年ぶんも折り重なった深淵(しんえん)。ここは町の底であると同時に、砂の境の底でもあった。

靴を通して温度が伝わった。冷たくない。霜里(しもざと)で凍えきった足に、水の温(ぬる)さが沁(し)み込んでくる。感覚の戻る速さに、こよいは息を呑(の)んだ。痛みに似ていた。凍った肌が解けるとき、最初に来るのは温もりではなく痺(しび)れだった。足首から脛(すね)へ、水の温度がじわじわと昇っていく。長く凍えていた身体が思い出す順番があるように、皮膚の奥の感覚が一枚ずつ剥(は)がれて戻ってくる。

見上げると、井戸(いど)の口が遠い。丸く切り取られた空は灯籠(とうろう)の光で薄く白んでいる。あの高さから降りてきたのだ。壁に刻まれた足場の列が、蒼光(そうこう)の残照で点々と浮かんでいた。

無数の名前の断片が、水中で光りながら漂(ただよ)っている。こよいはしゃがみ、両手を水に沈めた。袖口(そでぐち)が濡れたが、構わなかった。

光の粒が指の間をすり抜けていく。掌(てのひら)の周りを巡り、離れ、また寄ってくる。触れているのに掴(つか)めない。けれど確かにそこに在る。ひとつひとつの粒に、かつて誰かの名前だったものの輪郭(りんかく)が残っていた。文字ではない。音でもない。水の中で光るとき、指先にだけ伝わるかすかな振動。名前が呼ばれていた頃の記憶が、まだ粒の芯(しん)に宿っている。

「起きようとしてる」

「解凍だ。目覚めとは違う」

久遠(くおん)が訂正した。けれど声にいつもの冷たさがない。壁面の水を蒼光(そうこう)で追いながら、書き戻した頁(ページ)と照らし合わせている。

「……だが、確かに動いている。霜里(しもざと)では微動だにしなかったものが、ここでは自ら動いている」

巾着(きんちゃく)の神々が反応した。脈動が速くなり、温度も上がっている。水中の名前たちと呼応するように、光の粒が巾着(きんちゃく)の方へわずかに集まった。水面が巾着(きんちゃく)を中心にゆるやかな渦(うず)を描く。  光の粒のひとつが、布に触れた。  その瞬間、温(ぬる)い一拍が布を通ってこよいの掌(てのひら)に届いた。ゆるやかで、丸い、水の律動。霜里(しもざと)で刻まれた白銀の拍の隣に、琥珀(こはく)色の拍がひとつ、並んで灯る。神々が受け取ったのが分かった。溶けかけた名前たちの記録が、四柱(よはしら)の中に二つ目の拍として刻まれた。

「この子たちは、戻りたがってるんだ」

久遠(くおん)は否定しなかった。目録(もくろく)を閉じ、壁面から滴り落ちる水を見上げた。天井の氷が少しずつ痩せている。溶けた水が名前を連れて底に集まる。ここでは理(ことわり)の力が緩んでいるのか、それとも水そのものが理(ことわり)を押し返しているのか。

井戸(いど)が低く唸(うな)った。足裏から腰骨まで振動が昇り、内臓が揺れた。水が震え、光の粒が一斉にゆらめく。地鳴りのようでもあり、深い呼吸のようでもあった。壁の氷から溶け出した雫(しずく)が水面を打ち、波紋が光の粒を散らしてはまた集める。

「……生きてんな」

「解凍だと言っただろう」

「同じだよ。動いてるなら、生きてる」

久遠(くおん)は何も返さなかった。ただ蒼光(そうこう)が、ほんの少しだけ柔らかくなった気がした。

こよいは水中で掌(てのひら)を開いたまま、名前たちが寄っては離れるのを見つめた。水の温(ぬる)さと光の揺らぎが、手首から腕へ、腕から胸へ伝わっていく。巾着(きんちゃく)の神々が脈打つのと同じ速さで、こよいの心臓も鳴っていた。井戸(いど)の底で、凍りついていたものが緩み、動き出していた。

壁を伝い、滴り落ち、底に集まる水の音。三人の呼吸と、水の脈動と、名前たちの微(かす)かな光。穏やかな、生き物の呼吸のような音だけが井戸(いど)の底に響いていた。

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