第001話 霧の始まり
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第001話 霧の始まり

第1章 霧の序章

朝、こよいが目を覚ましたとき、窓の外は白かった。  白はただの白じゃない。見えるものの輪郭りんかくだけを、鋭い刃物で削り取っていくような、冷たく攻撃的な白だった。

町の角が消え、屋根の端が溶け、遠くの山の形が半分しか見えない。

こよいは布団の中で、耳を澄ませた。  夜の声が、まだ耳の奥に残っている。甘い声。

「……ねえ」

声のようで、声じゃない。  呼ばれている気がした。  返事をしたら、自分の名前の端がほどけて霧に吸い込まれてしまう気がして、口は開かなかった。のどの奥が引きるように痛い。

台所から、母の包丁の音がする。トントントン、と規則正しいリズム。  味噌の匂いが、霧より先に部屋へ届いた。

「起きたの?」

母の声は、いつも通りだった。

「うん」

母は鍋の蓋をずらし、湯気を逃がした。  立ち上る湯気と外の霧が重なり、部屋の中がぼんやりと白くなる。

「霧が濃いね」

「うん」

「足元、気をつけて」

それは毎朝繰り返される呪文のようなものだ。  こよいは頷いた。

朝餉あさげの卓は、いつも通り。  白く輝く米の粒。箸が器に当たる硬い音。茶碗のふちの欠け。  母は余計なことを言わない。  こよいも、夜の声のことを言わない。  言えば、言葉が形を持って自分を遠くへ連れ去ってしまう気がした。

顔を洗うと、水が氷のように冷たく、指先を刺す。  吐く息が白く、目の前で消えた。

弁当を包んで、鞄を背負う。革のベルトが肩に食い込む感触だけが確かだ。  玄関を開けると、霧が濡れた布のように肌に触れた。

道標は滲み、文字が読みにくい。墨が流れて、黒い涙のようだ。  霧原町きりはらちょうの名前だけが、かろうじて残っている。「霧」の字だけがやけに濃く、「町」の字は今にも消えそうだ。

掲示板の紙は湿り、文字が波打っている。

「祭」の字だけが読めて、その先が溶けていた。

何の祭りなのか、いつあるのか、肝心なことは何も分からない。

商店の暖簾のれんが揺れ、店の奥が見えない。  人の気配だけが、白の中を動く。影法師かげぼうしのように、音もなく、質量しつりょうもなく。

学校へ向かう道は、半分だけ見えた。  足音が、少し遅れて返ってくる。カツ、カツ、という音が、地面の底から響いてくるような違和感。

川の音は近くて、ごうごうと鳴っているのに、流れが見えない。  橋を渡ると、欄干の冷たさが掌に残った。

校舎の白い壁が、霧の奥から巨大な船のように浮かぶ。  玄関で伊佐夫いさお先生が名簿めいぼを開いていた。

「おはようございます」

「おはよう。霧が濃いから、帰りは寄り道しないように」

先生の声は、くぐもって聞こえた。  霧が、声を吸っている気がした。

教室の窓は白い紙のようだった。  外は見えず、外と内の境目が薄い。

伊佐夫先生は出席を取り、子どもたちは声を揃える。  名簿の端で、先生の指が一度だけ止まった。  誰の名か、こよいは見たくなかった。  黒板に擦れるチョークの音。机のきしむ音。

それでも、こよいの耳は、別の音を探していた。

昼前、先生は授業を切り上げた。

「今日はここまで。早く帰りなさい」

誰も不満を言わない。  霧の日は、そういうものだ。

こよいは、いつもの帰り道を思い出した。  けれど今日は、違う道を選びたかった。  真っ直ぐ帰れば、母の待つ家がある。何かが足を引く。

校門を出ると、霧はまだ厚かった。  見慣れた商店通りが、遠くの方で切れている。

こよいは家とは逆の道に足を向けた。  駅へ続く道。  家へ帰るには遠回りになる。  母に叱られるかもしれない。  それでも、足は勝手に動いた。見えない糸に引かれるあやつ人形にんぎょうのように。

霧原駅の時計は、針だけが空中に浮かんで見える。文字盤は白に溶けている。

切符売りの清蔵せいぞうが、小さな窓から顔を出した。  指先で硬貨を揃え、箱の中でジャラリと音を立てる。

「今日は列車、来るの?」

こよいが聞くと、清蔵は首を振った。

「霧の日は遅れる。さかいが落ち着くまでな」

笑った顔は、霧の中でぼやけた。目だけが、静かに光っている。磨り減った銀貨のような光。

こよいはうなずき、ホームの端を見た。  霧の向こうから、遠い鈴の音が混じった気がした。チリン、という高い音。でも、それは自分の耳鳴りかもしれない。

駅へ向かう道の脇に、板塀いたべいで囲われた空き地がある。

「立入禁止」の札が、錆びた釘で留められている。

札の向こう、空き地の真ん中に老人が座っていた。  霧より濃い影のような老人だ。着ている着物は古びていて、色がわからないほど汚れている。  杖を膝に置き、手を組んでいる。  彼の周りだけ空気が淀んでいる。

こよいは足を止めた。  夜の声が、また耳の奥で揺れた。

「……こっちへ」

「この霧はいつまで?」

こよいがそう言うと、老人は目を細めた。皺の奥の瞳が、一瞬だけ、別の何かに入れ替わった気がした。

さかいが動くまでだ」

老人はそう言い、手元の闇から何かを弾いた。  鈴の欠けた巾着きんちゃくだった。  地面を滑るようにしてこよいの足元へ収まった。布は古く、手触りはざらついている。

「……それ」

「持っておけ」

老人の声は、しゃがれていて、聞き取りにくい。

「見えるなら、持っておけ。呼ぶな。見ておけ。見えるだけで残る」

こよいは一歩だけ近づいた。

草の生えない丸い場所が、空き地の中心にあった。

こよいはその痕を避け、巾着の重さを確かめた。  軽いのに、軽くない。

「どうして、ぼく?」

老人は、少し笑った。  その笑い方が、おかしかった。  口元は笑っている。けれど、目が笑っていない。  井戸の底から覗く、濡れた闇のような目。  笑いはすぐに消えた。

「耳が空いてる」

意味は分からない。でも、否定できない。自分の中に、ぽっかりと開いた穴があることを、こよいはずっと知っていたからだ。

「……どういうこと?」

老人は答えなかった。ほこらの方角から、風のようで風ではない囁きが混じった。  名を呼びかけられた気がした。でも、その名は「こよい」ではなかった。

坂の上の木立こだちの間に、ほこらの影が沈んでいる。  こよいは振り返りたくなった。でも、振り返れば消える気がした。

鈴は鳴らない。  それでも、巾着は確かに手の中にある。指に絡む紐の感触が、現実へのアンカーだ。

老人の姿が、おかしい。  霧の中で、さらに薄くなっていく。  溶けている。老人自身が、霧の中に染み出していく。  まるで最初から、霧で出来ていたかのように。

「……帰りな」

その声だけが、はっきりと残った。  四方八方から聞こえた。霧そのものが喋っているようだった。

こよいは答えず、巾着の紐を結び直した。  母が教えてくれた、固い結び方。  駅のレールが、かすかに鳴った。

振り返った。

老人は、いなかった。草の生えない円い場所に、杖だけが立っていた。

「……おじいさん?」

声は、霧に吸い込まれた。  返事はない。  杖の先端に、水滴ではない、もっと冷たい金属のような光が宿った。

こよいは、その場から動けなかった。  巾着の紐が、手首に食い込む。

杖が、一度だけ、ゆっくりと傾いた。  北を指している。山の方。境の方。

霧の奥で、人影ではない、もっと大きな曖昧な何かが動いた。  それが、こちらを見ている気配がした。

こよいは走った。  家へ向かって、霧の中を、転びそうになりながら。

背中に、視線を感じた。  振り返ってはいけない。  振り返ったら、もう戻れなくなってしまう。

手の中の巾着が、微かに震えた。  鈴は、まだ鳴らない。

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