第196話 しおりの遺した地図
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第196話 しおりの遺した地図

第7章 灯の距離

崩れかけた建物の二階に、棚が残っていた。

壁は半分崩落(ほうらく)し、砂(すな)が床を覆っている。棚板も傾いて、載っていたものの大半は砂(すな)に埋もれていた。あさひが階段の残骸を踏みしめ、床の強度を確かめた。軋(きし)むが、抜けはしない。  棚の前には、おたまが先に座っていた。いつ二階へ上がったのか、誰も見ていない。猫は棚の一点を見つめたまま、動かなかった。  こよいはその視線を辿(たど)り、棚の隙間に手を入れ、砂(すな)を払った。指先に革の感触が当たる。

帳面だった。  掌(てのひら)に収まるほどの大きさで、革の表紙が乾いて硬くなっている。綴(と)じ糸が切れかけているが、頁(ページ)はばらけていない。革紐(かわひも)で一巻きにして留めてあった。砂埃(すなぼこり)を払うと、表紙に文字が浮かんだ。

こよいの指が止まった。

「しおり」

声が出た。自分の声なのに、胸の奥から絞り出されたように聞こえた。

「……しおりの字だ」

あさひが振り向いた。久遠(くおん)が近づき、帳面を覗(のぞ)き込む。  表紙に刻まれた名前は、墨(すみ)ではなく刃物で彫られていた。砂(すな)に削られても消えないように。革の繊維を断ち切る深さで、一画ずつ丁寧に彫り込まれている。迷いのない刃運びだった。

こよいは帳面を開いた。  白い頁(ページ)が広がる。何も書かれていない。次の頁(ページ)も、その次も。全て白紙だった。

「空っぽだ……」

こよいの声が萎(しぼ)んだ。期待が大きかった分、落差が胸を抉(えぐ)る。

久遠(くおん)が手を伸ばした。

「貸せ」

久遠(くおん)は指先をなめ、頁(ページ)の表面をゆっくりなぞった。指が止まる。

「溝(みぞ)がある」

「溝(みぞ)?」

「インクじゃない。先の尖ったもので、紙に押し付けて書いている。油を塗った針のようなもので、紙の繊維を潰(つぶ)さずに窪(くぼ)ませている。目には見えないが、触れば分かる」

久遠(くおん)は義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)を頁(ページ)に近づけた。光の角度を変え、紙の表面に走る微かな凹凸(おうとつ)を読み取ろうとする。だが、溝(みぞ)は浅すぎた。

「見えるか」

あさひが訊(き)いた。

「辛うじて線があるのは分かる。だが、全体の形が掴(つか)めない。油の窪(くぼ)みは横から光を当てなければ影が出ない。正面からでは、ただの白紙と区別がつかない」

あさひが帳面を横から覗(のぞ)き、指の腹で頁(ページ)を撫(な)でた。

「……確かに何かある。爪で引っ掻(か)いたんじゃない。もっと細い」

「油針(あぶらばり)だろう。針の先に油を含ませて、紙の表面だけを凹(へこ)ませる。乾けば紙と同じ色に戻る。古い隠密(おんみつ)の技法だ」

久遠(くおん)が腕を組んだ。

こよいは巾着(きんちゃく)を見た。  雨の神が脈打っている。温かい。帳面を見つけてから、温度が上がっていた。

こよいは巾着(きんちゃく)を帳面の上にそっと置いた。  神々の温もりが革の表紙を通り、綴(と)じ糸を伝い、紙に沁(し)みていく。数秒の沈黙。部屋の外で砂(すな)が崩れる音がした。それから、頁(ページ)の表面に淡い光が走った。

油の溝(みぞ)が、神々の温度に反応していた。  窪(くぼ)みに沿って薄い光の線が浮かび上がり、白紙だった頁(ページ)に図形が現れる。線と点。交差する道。三つの丸印。油の溝(みぞ)の深さが均一で、線の太さにぶれがない。定規は使っていないのに、手だけでこの精度を出している。

「地図だ」

久遠(くおん)が呟(つぶや)いた。義眼(ぎがん)が大きく開き、蒼光(そうこう)が地図の細部を追う。

「三つの町を結ぶ道が描かれている。表の道じゃない。……裏道だ。観測者(かんそくしゃ)の目が届かない経路。分岐の角度、道幅の違い、行き止まりの印まで入っている。実際に歩いた人間にしか描けない地図だ」

こよいは帳面を両手で持ち、神々の光が消えないように巾着(きんちゃく)を押し当て続けた。地図の線は細く、少しでも巾着(きんちゃく)を離すと消えてしまいそうだった。  あさひが身を乗り出し、地図の道筋を目で追った。

「ここの二本線は何だ」

「壁だ。通れない。その手前で曲がれという意味だろう」

久遠(くおん)が即座に答えた。記号の意味を読み取る速さに、あさひが一瞬黙った。

「しおりは、インクを使わなかった」

久遠(くおん)が静かに言った。

「インクは観測者(かんそくしゃ)に読まれる。だから物理的な凹凸(おうとつ)だけで記録した。神々の熱でしか浮かび上がらない地図を。……こよいが来ることを、前提にして」

こよいの目が熱くなった。  帳面を握る指に力が入る。しおりはここに来ていた。この棚の前に立ち、一本一本の線を油針(あぶらばり)で押し込んだ。何百という溝(みぞ)を、見えないと知りながら刻み続けた。こよいがいつか辿(たど)り着くことを信じて。

地図の中心に、一つだけ文字があった。  光が弱く、輪郭(りんかく)がぼやけている。こよいは巾着(きんちゃく)を強く押し当てた。神々が応え、温度が少し上がる。文字が浮かんだ。

経蔵(きょうぞう)。

三つの町を結ぶ裏道の、交差する一点。その場所に、しおりは二文字だけを残していた。

こよいは頁(ページ)をめくった。二頁(ページ)目にも溝(みぞ)があった。巾着(きんちゃく)を当てると、光が走る。今度は道の断面図だった。地上の道と、その下を走る水路。水路の深さを示す数字まで刻まれている。三頁(ページ)目には、各裏道の距離と目印。崩れた柱、枯れた井戸、壁の罅(ひび)の形。全て、足で測った情報だった。

あさひが帳面を覗(のぞ)き込み、短く息を吐いた。

「道が分かったな」

こよいは帳面を胸に抱いた。  革の硬さと、神々の温もりが重なる。しおりの指が押し付けた溝(みぞ)の一本一本が、こよいの掌(てのひら)に伝わってくる。想いではなく、情報だった。感情を込める代わりに、正確な道順を刻んだ。それがしおりだった。

「……待っててくれたんだ」

声は小さかった。  砂風に攫(さら)われそうなほど小さかったが、こよいはそれでよかった。聞こえるべき相手には、もう届いている。

久遠(くおん)は窓の外を見た。崩れた壁の向こうに、砂(すな)に埋もれた町並みが広がっている。しおりが歩いた裏道が、あの砂(すな)の下にまだ残っている。

「四頁(ページ)目以降は白紙だ。溝(みぞ)もない」

久遠(くおん)が帳面を返しながら言った。最後の頁(ページ)には、押し花が一枚挟まっていた。乾いて色の抜けた、小さな花。しおりが挟んだのだろう。こよいはそれを崩さないよう、そっと頁(ページ)を閉じた。

「描き終える前に、ここを離れたか。あるいは、ここまでが伝えるべき全てだったか」

こよいは帳面を巾着(きんちゃく)と一緒に胸元にしまった。革の角が鎖骨に当たる。冷たくて、硬い。けれどその硬さが、しおりの手の力を思い出させた。

巾着(きんちゃく)の奥で硝子(びいどろ)の神が澄んだ一打を返し、帳面の革が微かに温まった。  道は、覚えた。

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