第195話 名前を捨てる神
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第195話 名前を捨てる神

第7章 灯の距離

半分砂すなに埋もれたほこらの奥に、くぼみがあった。

人ひとりが座れるほどの空間で、壁は滑らかに磨かれている。砂嵐すなあらしにさらされた外壁とは違い、内側だけが丁寧に整えられていた。誰かがここで長い時間を過ごした痕跡こんせきだった。  ほこらの外は乾いていた。風がすなを巻き上げ、肌を刺す冷たさがある。けれどくぼみの中に入ると、空気が変わった。外の風が届かない。壁の石が薄いぬくもりを帯びていて、こよいの頬に触れる空気がほんの少し柔らかい。砂漠さばくの中に、ここだけ別の季節がある。誰もいないはずなのに、誰かの体温が残っているような場所だった。  あさひが入り口に背を向けて立ち、外を見張った。砂風とほこらの境目で、あさひの髪が半分だけ揺れている。外の冷気と内の温もりが、あさひの背中を境にして分かれていた。

久遠くおん義眼ぎがん蒼光そうこうくぼみの奥へ向けた。  壁面に文字がある。だが文字というより、爪で引っいた線に近い。浅い溝が何本も走り、重なり合っている。

「読めるか」

あさひが壁を覗き込んだ。

「読めない。文字じゃない。……これは、名前を削った跡だ」

久遠くおんの声が硬くなった。  義眼ぎがん蒼光そうこうが壁面をめるように走る。溝の深さ、角度、重なりの順序を読み取っている。

観測者かんそくしゃがされたんじゃない。自分で削っている。一画ずつ、意図的に」

こよいは息を飲んだ。

「自分で……?」

「ああ。この溝は外から加えられた力じゃない。内側から、繰り返し同じ場所をなぞっている。消すために。自分の名前を、自分で」

こよいは壁の溝に指を近づけた。触れる前に、指先が震えた。削り跡は深い場所と浅い場所がある。最初の一画は浅い。迷いがある。二画目はさらに浅く、途中で止まりかけている。けれど三画目から深くなり、四画目には壁の石が白く粉を吹くほどの力が込められていた。迷って、迷って、それでも最後は自ら決めたのだ。自分の名前の画を、一本ずつ。

巾着きんちゃくが冷たくなった。  こよいは胸元を押さえた。神々の脈動が急に弱くなっている。温もりが引いていく。おびえている。巾着きんちゃくの中の小さな神たちが、壁のくぼみからただようものにおびえている。  名前を奪われる恐怖なら、神々は知っている。けれどこれは違う。自分から名前を手放すという選択の痕跡こんせきに、神々は震えていた。理解できない。名前を守ってほしくて巾着きんちゃくの中にいる彼らには、名前を捨てるという行為が、存在そのものへの否定に映るのだろう。

名前を捨てた神。  観測者かんそくしゃに奪われたのではなく、自ら手放した神。  こよいにはその選択が理解できなかった。名前は、自分が自分であるための証だ。こよいがしおりの名前を探しているのも、名前がなければしおりに会えないからだ。それなのに、自分で消すとは。追われることが、名前を持つことより辛かったのか。それとも、名前の重さそのものに耐えられなくなったのか。

久遠くおんは目を閉じ、記憶を辿たどった。白紙になる前の写しに、確かに在ったページ。失われた文字を、久遠くおんは覚えていた。

「記録があった。……名称不明の小神、自発的名称放棄。観測対象から除外。以降、追跡不能」

久遠くおんは目を開けた。

観測者かんそくしゃは名前を持つものしか測れない。名前を捨てれば、観測の網から消える。……だが、同時に、誰の記憶にも残れなくなる」

あさひが腕を組み、壁にもたれた。

「逃げたってことか」

「逃げた、というより……消えることを選んだ。観測されず、記録されず、呼ばれることもない場所へ」

久遠くおんの声に、普段にない揺れがあった。  こよいはそれに気づいた。久遠くおんの分析の枠組みが、この事実を上手く収められずにいる。名前を守るために戦う相手なら分かる。名前を奪う観測者かんそくしゃも分かる。けれど、名前を自ら捨てる神は、久遠くおん目録もくろくのどこにも載っていない。  目録もくろくは名前を記すためのものだ。名前を持たぬことを選んだ者は、記す欄がない。分類できない。久遠くおんの指が、閉じた目録もくろくの表紙を無意識に撫でていた。

三人とも、しばらく黙った。外から吹き込む砂風は入り口で途切れ、ほこらの中の温もりが沈黙を包んでいた。  ほこらの奥から、微かな風が吹いた。  外の砂風とは違う。ぬるい。すなの匂いもしない。壁の石が吐く息のような、古くて柔らかい風だった。

こよいは壁に手を当てた。  冷たいはずの石が、てのひらの下で温かった。ほこらの外壁は砂風にさらされて凍えているのに、この内壁だけが別の温度を持っている。呼吸のようなものが、壁の向こうにあった。吸って、吐いて。遅く、深く。名前を削り取った石の下で、何かがまだ息をしている。

「……いる」

こよいはささやいた。

「名前はないけど、まだ、ここにいる。壁が温かい」

おたまが、するりとくぼみの奥へ入った。誰かが長い時間を過ごした形に、猫の身体はぴったりと収まり、低く喉を鳴らし始める。その音は、石の呼吸と同じ拍だった。  巾着きんちゃくの冷たさが、少しだけやわらいだ。  神々はおびえたまま、けれど壁の温もりに反応して、微かに脈を打ち始めた。

久遠くおん義眼ぎがんを伏せた。壁から目を逸らし、目録もくろくを胸に抱えた。

「名前がなければ記録できない。記録できなければ、俺の目録もくろくにも残せない。……こいつは、俺の手の届かない場所にいる」

あさひが久遠くおんの肩を叩いた。短く、一度だけ。

「届かないなら、届かないまま覚えておけ。それで充分だろう」

こよいは壁から手を離した。  てのひらに温もりが残っている。名前のない神の息が、皮膚の奥に染みていた。名前を捨てても消えなかったもの。それが何なのか、こよいにはまだ分からない。けれど確かに温かかった。

ほこらを出ると、すな混じりの風が真正面から頬を叩いた。外は乾いて冷たい。ほこらの中のあの柔らかさが嘘のように、風は容赦なく肌を削る。一歩、外に出ただけで、肌の温度が奪われていく。けれど、てのひらだけがしばらく温かいままだった。石の呼吸がてのひらに染みて、外の冷たさを弾いている。  あさひが先に歩き出した。無言だった。久遠くおんが続く。こよいは巾着きんちゃくを握り、二人の後を追った。  振り返らなかった。名前のない神は、振り返られることを望んでいない。ただ、忘れないでいることだけが、今できる礼儀だった。  すなを踏む三人分の足音だけが、乾いた地面に刻まれていく。てのひらの温もりが薄れるまで、こよいは何も言わずに歩いた。

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