次の区画へ向かう前に、あさひは訓練を申し出た。
「欠けた剣のまま、本番に入るのは危ない。動きの再調整をしたい」
削刃機との戦闘で、刃はさらに一段短くなっていた。元の長さの三分の二ほどしか残っていない。断面は鋸の歯のように不揃いで、振れば空気の切れ方が変わる。以前と同じ間合いで斬りかかれば、届かずに空振る。空振った隙は、砂漠では命取りだ。刃の先端近くに、師匠の銘の一画が残っている。銘の大半は欠けた部分と一緒に失われたが、最後の一画だけが光っていた。
久遠は即答した。
「賛成。三十分だけ取る」
目録の端に時刻を記し、蒼光で周囲を走査する。追手の気配がないことを確認してから、砂丘の陰に即席の訓練場を作った。砂丘の陰は風が弱く、砂の舞い上がりが少ない。視界が確保できる場所を選んでいる。 あさひが木札を砂に立て、久遠が石で踏み込み線を引く。石を砂に押し込み、半円形の線を描いた。踏み込みの限界線だ。こよいは巾着の神々の脈を数え、時間係を引き受けた。神々は一定の間隔で脈打つ。砂時計の代わりになる。
第一段階は、振らない訓練。 あさひは剣を抜いたまま、足運びだけを繰り返す。砂の上は足場が不安定で、普通の地面より踏み込みが二割ほど沈む。その沈みを前提にした歩幅を身体に覚え込ませる。靴が砂にめり込み、引き抜く時に小さな音がする。その音のリズムが安定するまで、あさひは繰り返した。
右踏み、左開き、半歩下がる。 呼吸を崩さない。吐く時に踏み、吸う時に引く。剣は構えたまま動かさず、重心の移動だけで位置を変える。腰の高さは一定だ。上下の動きがあれば砂に足を取られる。水平移動だけで距離を詰め、水平のまま離れる。
砂が靴の下で崩れるたびに、微調整が入る。あさひの目は木札を見ていない。自分の足元を見ている。足が信用できなければ、腕は使えない。十回ほど繰り返した後、足元を見なくなった。身体が砂の感触を覚えたのだ。
第二段階は、峰打ち《みねうち》限定。 刃を当てず、柄と鞘で制圧動作を作る。削刃機の回転軸を止めるには、斬撃より打撃のほうが有効だった。刃を使えば折れる。峰で、正確に軸だけを叩く。手首の角度が重要だ。峰を当てるには、剣を四十五度回す必要がある。この動作を一拍の中に収める。
あさひは最初、無意識に斬撃へ入った。腕が記憶している動きだ。身体は長年の訓練を覚えている。欠けた剣のことを、筋肉がまだ知らない。右腕が伸び、手首が返り、刃が弧を描く。その弧は美しいが、今の剣には合わない。 久遠が即座に指摘する。
「いまのは旧癖だ。削刃機相手なら逆効果。刃が接触した瞬間に残りの刃が欠ける」
久遠は蒼光で軌道を分析していた。剣の軌跡が空中に薄い光の線で残り、どこで角度が変わったか、どこで力が入りすぎたかが分かる。
あさひは舌打ちして、もう一度。 今度は踏み込みを浅くし、相手の軸だけを崩す動きに変えた。剣の先端ではなく、根元寄りの峰を当てる。短くなった分、懐に入る必要がある。危険だが、欠けた剣にはその距離しかない。腕を伸ばさず、肘を折ったまま打つ。近い。息が相手にかかるほどの距離だ。
三度目で、木札の上部だけを峰で弾いた。札が半回転して砂に落ちる。斬れてはいない。だが軸を崩すには十分な衝撃だった。砂の中に倒れた木札が、小さな穴を作った。
こよいが神々の脈を数え、報告する。
「二秒短縮。姿勢も安定してる」
あさひの呼吸が落ち着いている。最初の焦りが消えていた。肩の力が抜け、足の位置が自然になった。焦りがある時は右肩が上がる癖があるが、今は両肩が同じ高さだ。
第三段階は、連携。 こよいが囮の動線を作り、久遠が目録の頁を裂いて視界を遮る。紙片が風に舞い、一瞬だけ木札の前に白い壁ができる。紙片は薄く、光を通す。だが一瞬の目くらましには十分だ。 その隙にあさひが関節部だけを叩く。
一度目は、こよいの動きが遅れた。囮の位置が近すぎて、あさひの踏み込み線と重なった。こよいの足があさひの動線を塞ぎ、あさひが一歩分ずれた。一歩のずれが、結果を変える。 二度目は、久遠の紙片が風に流されて、壁が十分にできなかった。風向きが変わったのだ。砂丘の陰でも、風は完全には止まらない。 三度目で、ようやく動きが揃った。こよいが右へ走り、久遠が紙を放ち、あさひが中央を突く。三つの動きが同時に終わる。木札が峰に弾かれ、砂に埋まった。
あさひは汗を拭い、欠けた剣を眺めた。刃に朝日が当たり、欠けた断面が鈍く光る。不揃いな断面が、光を複雑に散らしている。完品の刃なら真っ直ぐに光を返す。欠けた刃は、光を砕く。
「前より地味だな」
久遠が答える。蒼光を消し、目録を閉じながら。
「地味でいい。生存率が上がる。派手な斬撃は、完品の剣に持たせておけ」
こよいも笑った。砂に座り、膝を抱えて。
「派手さは観客がいる時だけで十分だよ」
訓練の最後に、あさひは木札を一枚だけ切った。峰打ちではなく、刃を使った一振り。切断面は荒いが、狙いは正確だった。師匠の銘が刻まれた側の刃を使い、札の中央を一息で断つ。切った瞬間、空気が鳴った。短い、鋭い音。欠けた剣でも、一撃に込めれば音は出る。 欠けた剣でも、一撃なら通る。問題は、二撃目以降を峰に切り替えられるかだ。刃から峰への切り替えは、手首の回転一つ。一拍の中で、殺傷から制圧に切り替える。
「本番でも、これでいく。初撃だけ刃、あとは峰」
久遠は訓練結果を分冊『風』の余白へ記した。
『欠剣運用:斬撃比率を下げ、軸制圧優先。初撃のみ刃使用可。連続使用禁止』
こよいは訓練場の石線を消し、砂でならした。足跡も、木札の切れ端も、全部砂の下に埋める。痕跡を残しすぎれば、追手に訓練場所を特定される。砂を手で均し、風が仕上げを引き受けた。数分もすれば、ここで訓練があったことは分からなくなる。
あさひの訓練は、剣を強くするためじゃない。 欠けた条件の中で、判断を遅らせないための訓練だった。原初の術式も同じだ。第三の条件が欠けたまま、それでも前に進むしかない。完全な武器がなくても戦える。完全な状況がなくても進める。それを身体に刻む三十分だった。
砂丘の向こうから風が変わる。乾いた風が湿り気を帯び始めていた。中陵深部が近い。湿った風には土の匂いが混じっている。砂だけの匂いから、土と水の気配がある匂いへ。地形が変わりつつある証拠だ。
三人は荷を整え、訓練場の砂を踏み越えて、次の道へ向かった。
振り返ると、おたまの三毛の背がすぐそばにあった。
