第178話 あさひの訓練
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第178話 あさひの訓練

第6章 影の計量

次の区画へ向かう前に、あさひは訓練を申し出た。

「欠けた剣のまま、本番に入るのは危ない。動きの再調整をしたい」

削刃機(さくじんき)との戦闘で、刃はさらに一段短くなっていた。元の長さの三分の二ほどしか残っていない。断面は鋸(のこ)の歯のように不揃いで、振れば空気の切れ方が変わる。以前と同じ間合いで斬りかかれば、届かずに空振る。空振った隙(すき)は、砂漠(さばく)では命取りだ。刃の先端近くに、師匠の銘(めい)の一画が残っている。銘(めい)の大半は欠けた部分と一緒に失われたが、最後の一画だけが光っていた。

久遠(くおん)は即答した。

「賛成。三十分だけ取る」

目録(もくろく)の端に時刻を記し、蒼光(そうこう)で周囲を走査(そうさ)する。追手の気配がないことを確認してから、砂丘(さきゅう)の陰に即席の訓練場(くんれんじょう)を作った。砂丘(さきゅう)の陰は風が弱く、砂の舞い上がりが少ない。視界が確保できる場所を選んでいる。  あさひが木札を砂に立て、久遠(くおん)が石で踏み込み線を引く。石を砂に押し込み、半円形の線を描いた。踏み込みの限界線だ。こよいは巾着(きんちゃく)の神々の脈を数え、時間係を引き受けた。神々は一定の間隔で脈打つ。砂時計の代わりになる。

第一段階は、振らない訓練。  あさひは剣を抜いたまま、足運びだけを繰り返す。砂の上は足場が不安定で、普通の地面より踏み込みが二割ほど沈む。その沈みを前提にした歩幅を身体に覚え込ませる。靴が砂にめり込み、引き抜く時に小さな音がする。その音のリズムが安定するまで、あさひは繰り返した。

右踏み、左開き、半歩下がる。  呼吸を崩さない。吐く時に踏み、吸う時に引く。剣は構えたまま動かさず、重心の移動だけで位置を変える。腰の高さは一定だ。上下の動きがあれば砂に足を取られる。水平移動だけで距離を詰め、水平のまま離れる。

砂が靴の下で崩れるたびに、微調整が入る。あさひの目は木札を見ていない。自分の足元を見ている。足が信用できなければ、腕は使えない。十回ほど繰り返した後、足元を見なくなった。身体が砂の感触を覚えたのだ。

第二段階は、峰打ち《みねうち》限定。  刃を当てず、柄(つか)と鞘(さや)で制圧動作を作る。削刃機(さくじんき)の回転軸を止めるには、斬撃(ざんげき)より打撃のほうが有効だった。刃を使えば折れる。峰(みね)で、正確に軸だけを叩(たた)く。手首の角度が重要だ。峰(みね)を当てるには、剣を四十五度回す必要がある。この動作を一拍の中に収める。

あさひは最初、無意識に斬撃(ざんげき)へ入った。腕が記憶している動きだ。身体は長年の訓練を覚えている。欠けた剣のことを、筋肉がまだ知らない。右腕が伸び、手首が返り、刃が弧を描く。その弧は美しいが、今の剣には合わない。  久遠(くおん)が即座に指摘する。

「いまのは旧癖だ。削刃機(さくじんき)相手なら逆効果。刃が接触した瞬間に残りの刃が欠ける」

久遠(くおん)は蒼光(そうこう)で軌道を分析していた。剣の軌跡が空中に薄い光の線で残り、どこで角度が変わったか、どこで力が入りすぎたかが分かる。

あさひは舌打ちして、もう一度。  今度は踏み込みを浅くし、相手の軸だけを崩す動きに変えた。剣の先端ではなく、根元寄りの峰(みね)を当てる。短くなった分、懐(ふところ)に入る必要がある。危険だが、欠けた剣にはその距離しかない。腕を伸ばさず、肘(ひじ)を折ったまま打つ。近い。息が相手にかかるほどの距離だ。

三度目で、木札の上部だけを峰(みね)で弾(はじ)いた。札が半回転して砂に落ちる。斬れてはいない。だが軸を崩すには十分な衝撃だった。砂の中に倒れた木札が、小さな穴を作った。

こよいが神々の脈を数え、報告する。

「二秒短縮。姿勢も安定してる」

あさひの呼吸が落ち着いている。最初の焦りが消えていた。肩の力が抜け、足の位置が自然になった。焦りがある時は右肩が上がる癖があるが、今は両肩が同じ高さだ。

第三段階は、連携。  こよいが囮(おとり)の動線を作り、久遠(くおん)が目録(もくろく)の頁(ページ)を裂いて視界を遮る。紙片が風に舞い、一瞬だけ木札の前に白い壁ができる。紙片は薄く、光を通す。だが一瞬の目くらましには十分だ。  その隙(すき)にあさひが関節部だけを叩(たた)く。

一度目は、こよいの動きが遅れた。囮(おとり)の位置が近すぎて、あさひの踏み込み線と重なった。こよいの足があさひの動線を塞(ふさ)ぎ、あさひが一歩分ずれた。一歩のずれが、結果を変える。  二度目は、久遠(くおん)の紙片が風に流されて、壁が十分にできなかった。風向きが変わったのだ。砂丘(さきゅう)の陰でも、風は完全には止まらない。  三度目で、ようやく動きが揃(そろ)った。こよいが右へ走り、久遠(くおん)が紙を放ち、あさひが中央を突く。三つの動きが同時に終わる。木札が峰(みね)に弾(はじ)かれ、砂に埋まった。

あさひは汗を拭(ふ)い、欠けた剣を眺めた。刃に朝日が当たり、欠けた断面が鈍く光る。不揃いな断面が、光を複雑に散らしている。完品の刃なら真っ直ぐに光を返す。欠けた刃は、光を砕く。

「前より地味だな」

久遠(くおん)が答える。蒼光(そうこう)を消し、目録(もくろく)を閉じながら。

「地味でいい。生存率が上がる。派手な斬撃(ざんげき)は、完品の剣に持たせておけ」

こよいも笑った。砂に座り、膝を抱えて。

「派手さは観客がいる時だけで十分だよ」

訓練の最後に、あさひは木札を一枚だけ切った。峰打ちではなく、刃を使った一振り。切断面は荒いが、狙いは正確だった。師匠の銘が刻まれた側の刃を使い、札の中央を一息で断つ。切った瞬間、空気が鳴った。短い、鋭い音。欠けた剣でも、一撃に込めれば音は出る。  欠けた剣でも、一撃なら通る。問題は、二撃目以降を峰(みね)に切り替えられるかだ。刃から峰(みね)への切り替えは、手首の回転一つ。一拍の中で、殺傷から制圧に切り替える。

「本番でも、これでいく。初撃だけ刃、あとは峰(みね)」

久遠(くおん)は訓練結果を分冊(ぶんさつ)『風』の余白へ記した。

『欠剣運用:斬撃比率を下げ、軸制圧優先。初撃のみ刃使用可。連続使用禁止』

こよいは訓練場の石線を消し、砂でならした。足跡も、木札の切れ端も、全部砂の下に埋める。痕跡(こんせき)を残しすぎれば、追手に訓練場所を特定される。砂を手で均(なら)し、風が仕上げを引き受けた。数分もすれば、ここで訓練があったことは分からなくなる。

あさひの訓練は、剣を強くするためじゃない。  欠けた条件の中で、判断を遅らせないための訓練だった。原初(げんしょ)の術式(じゅつしき)も同じだ。第三の条件が欠けたまま、それでも前に進むしかない。完全な武器がなくても戦える。完全な状況がなくても進める。それを身体に刻む三十分だった。

砂丘(さきゅう)の向こうから風が変わる。乾いた風が湿り気を帯び始めていた。中陵(ちゅうりょう)深部が近い。湿った風には土の匂いが混じっている。砂だけの匂いから、土と水の気配がある匂いへ。地形が変わりつつある証拠だ。

三人は荷を整え、訓練場の砂を踏み越えて、次の道へ向かった。

振り返ると、おたまの三毛の背がすぐそばにあった。

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