第177話 八重の懸念
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第177話 八重の懸念

第6章 影の計量

兵器の残骸ざんがいを片付けた夜、久遠くおんは珍しく黙り込んでいた。

焚き火の向こうで、帳面の同じページを何度も見返している。蒼光そうこうは消していた。義眼ぎがんを使わず、炎の明かりだけで文字を追っている。火の揺れに合わせて、久遠くおんの影が壁に伸びたり縮んだりしていた。影の動きは不規則で、久遠くおんの身体がかすかに揺れていることを示している。考え事をしている時の癖だ。  焚き火の炎は低く、まきの端が赤くおこっている。煙は少ない。乾いたまきを選んだのは、煙で位置を知られないためだ。

こよいが声をかける。

「どうしたの?」

久遠くおんは少し迷ってから答えた。迷う時間があるということは、答えを持っているが、言いたくないということだ。言えば三人の気持ちが重くなることを、久遠くおんは分かっている。それでも言わなければならない。記録者は、不都合な事実も共有する義務がある。

八重やえの予測が当たり始めてる」

あさひがまきを割る手を止めた。短剣をまきに食い込ませたまま、動きが止まる。割りかけのまきが膝の上に残った。

懸念けねんって、どれだ。あいつは懸念けねんだらけだったぞ」

久遠くおんページを見せた。しおりの帳面ではない。久遠くおん自身の目録もくろくだ。迷宮の設計者・八重やえとの会話を記録したページ。字は小さく、正確で、日付と発言者が分類されている。その中の一行を指差した。

観測者かんそくしゃが兵器化に踏み切る場合、次段は民間手順の模倣もほうである』

「つまり?」

こよいが問う。

「俺たちの記録手順、避難手順、余白よはく守りの手順を盗んで、逆利用ぎゃくりようしてくる。避難所の符を偽造し、記録の形式を真似てわなを仕込む。信じたい手順を使って、信じた人間をめる」

声は低く、淡々としていた。だが淡々としているのは感情がないからではなく、感情を混ぜると分析がゆがむからだ。

火が小さく爆ぜた。まきの中の水分が蒸発する音だ。パチン、と一つだけ鳴って、火の粉が夜空へ飛んだ。火の粉は一瞬だけ星のように光り、すぐに消えた。  沈黙が落ちた。炎の音と、遠くの風の音だけが、砂丘さきゅうの夜に響いている。

あさひが低く言う。まきを割る手は、まだ止まったままだ。

「それ、最悪だな。善意の手順がわなになる」

善意の手順を信じて動いた人間が、わなにかかる。善意そのものが武器にされる。剣で防ぐことも、壁で遮ることもできない種類の攻撃だ。信頼を破壊する攻撃。一度でもわなにかかれば、次から誰も手順を信じなくなる。手順を信じない人間は、助けを求めなくなる。助けを求めない人間は、孤立して消える。

久遠くおんうなずく。

八重やえはずっとそこを恐れていた。だから手順を公開しすぎるな、と。手順が広まれば広まるほど、敵に利用される余地が増える」

こよいはしおりの帳面を膝の上に抱え、考えた。帳面の角を指ででながら、しおりの規則を思い出していた。しおりは記録を二重化にじゅうかし、写しを作り、残し、渡した。それは公開することで人を助ける行為だった。手順を隠さず、誰でも読めるようにする。それがしおりの信念だった。

「でも、隠しすぎると現場が死ぬ。公開しないと助からない人がいる」

今日、避難壕ひなんごうで出会った姉弟していのことを思い出す。あの子たちは、壁に刻まれた規則のおかげで安全な場所を見つけた。『名を呼ぶな、人数だけ数えろ』。あの規則が公開されていなければ、二人はごうの存在すら知らず、砂の中で迷っていただろう。公開が二人の命をつないだ。

久遠くおんは苦く笑った。焚き火の光が顔の半分だけを照らし、もう半分は闇に沈んでいる。

「その板挟いたばさみが八重やえ懸念けねんだ。公開すれば利用される。隠せば助けられない。正解はたぶんひとつじゃない」

あさひは割りかけのまきを膝から外し、焚き火へ足した。炎が大きくなり、三人の顔が明るく照らされる。影が後ろへ跳ね、壁に三つの大きな影ができた。

「じゃあ公開範囲を分ければいい。全手順を一冊にまとめない。現場ごとに必要分だけ渡す。避難なら避難だけ。修復なら修復だけ。全体像は一冊の中に収めない」

こよいの目が上がった。あさひの顔を見る。

「手順の分割か」

一冊の帳面に全部書けば、盗まれた時に全てが露出する。避難手順も、修復手順も、連絡経路も、全部が一度に敵の手に渡る。けれど必要な部分だけを小分けにすれば、仮に一冊が盗まれても全体は守れる。部分は危険でも、全体は安全に近づく。

久遠くおんうなずいた。目録もくろくを閉じ、膝の上で手を組む。

「いい。断片化すれば、盗まれても被害を局所化できる。一冊の漏洩ろうえいが全体の崩壊ほうかいつながらない。そして連結方法だけは口伝くでんにして、紙に残さない。分冊ぶんさつ同士をどう組み合わせるかは、人から人へ直接伝える」

三人はその夜、帳面の複製ふくせい方針を組み直した。焚き火の明かりの中で、しおりの帳面を開き、内容を分類していく。

避難は避難だけ。  修復は修復だけ。  連結手順は口伝くでんのみ。

しおりの帳面は原本を維持し、配布版は用途別に分冊ぶんさつ化する。こよいが内容を書き分けた。しおりの筆跡ひっせきを真似るのではなく、自分の字で書く。しおりの内容を、こよいの手で新しい形にする。久遠くおんが分類を確認し、内容の重複と矛盾を潰した。あさひが紙を裁断する。短剣の刃で紙を切り、帳面の大きさにそろえる。三人の手順がみ合い、作業は思ったより速く進んだ。

夜明け前、こよいは新しい小冊子の表紙に書いた。

『風』『門』『避難』

三冊の薄い帳面が、焚き火の残り火の横に並ぶ。表紙は白く、中の紙は黄ばんでいる。新しい表紙と古い内容。継承と更新が、一冊の中に同居していた。

あさひが笑う。

八重やえが見たら、文句を言いながらめるやつだ。『遅い』って怒りながら『悪くない』って言うタイプの」

久遠くおんは静かに焚き火を見つめた。炎は小さくなり、炭が赤く光っている。夜が明ける直前の、一番暗い時間だ。

懸念けねんは消えない。分冊ぶんさつにしても、利用される可能性はある。だが懸念けねんを理由に止まるのは違う。懸念けねんがあるなら、手順を改めながら進む。止まることが一番危険だ」

こよいはうなずく。  懸念けねんはブレーキじゃない。  かじを切るための情報だ。恐れるためにあるのではなく、方向を変えるためにある。

火が消えるころ、三冊の分冊ぶんさつができた。  八重やえ懸念けねんに対する、最初の具体的な返答だった。

出発の支度をしていた夜明け前、見張りに立っていたあさひが、砂に半ば埋もれた紙片を拾ってきた。  避難の符だ。三人の様式に、そっくり似せてある。だがつづじ紐の結び方が違う。しおりの規則では紐は左結び。これは右だった。  偽物の、第一号。

「……もう、始まってる」

久遠くおんの声が硬かった。八重やえ懸念けねんは予測ではない。進行中の事実だった。

おたまは小鈴を鳴らさず、三人の後をついてきた。

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