避難所を離れて半刻、空に鈍い羽音が響いた。
鳥ではない。風車でもない。規則的で、冷たい機械音だ。金属の羽が空気を切る音が、砂丘の間に反響して方角が掴めない。上空のどこかにいるが、霧に紛れて姿が見えなかった。音だけが降ってくる。頭上を旋回する音は、獲物を探す鷹の飛び方に似ていた。 こよいは首をめぐらし、音の発信源を探る。巾着の中で、風の神が鋭く震えた。警告の振動だ。布越しに、刺すような細かい震えが指に伝わる。
久遠が顔色を変える。義眼の蒼光を最大に灯し、霧の中を走査した。
「観測者の新兵器だ。追跡式の名前削刃機」
あさひが空を睨む。剣の柄に手をかけ、膝を落として重心を低くした。 霧の中に、円盤状の機体が三機。下面に細い光刃を吊っている。光刃は白く、冷たい光を帯びていた。見た目は薄いが、触れた場所の名前を物理的に削り取る力がある。光刃の先端が霧を切り、白い筋を引いている。
「人間相手に飛ばす道具じゃないな」
「本来は記録層の剪定用だ。記録の枝葉を刈り込むための機構を、対人転用された」
久遠の声に怒りが滲んでいた。道具の本来の使い方から外れた運用。それは観測者の堕落を端的に表している。
機体が低空へ降り、光刃が地面を掠めた。 砂面に走った線が白く漂白される。色が抜ける。砂の灰色が、紙のような白へ変わった。触れた場所の記録が、物質ごと消されていく。白い線が砂丘の斜面を走り、通り過ぎた後に色のない帯が残った。
こよいは息を呑む。
「触れた場所の名前が消える……」
直接浴びれば、身体に刻まれた名前ごと削られる。名前を失った身体がどうなるか、こよいは旅の中で何度も見てきた。目から光が消え、声が空洞になり、やがて輪郭ごと薄れていく。
久遠が即座に指示する。声は低く、速い。
「直線移動するな。曲線で散れ。あさひ、刃の根元を狙え。回転軸が弱点だ」
三人が散った。こよいは右へ、久遠は左へ、あさひは正面へ。三方に分かれることで、機体の追跡対象が分散する。砂を蹴り、足跡が三方向に広がった。
あさひは崖際の岩へ駆け、跳躍して一機に斬りつけた。 欠けた剣でも、関節部なら届く。訓練で覚えた軸制圧の動きだ。斬るのではなく、回転を止める。剣の峰が回転軸に当たり、金属同士がぶつかる甲高い音がした。 光刃の角度がずれ、地面へ刺さる。機体が傾き、砂を巻き上げて旋回する。旋回の風圧があさひの髪を乱し、砂が目に入った。
こよいは巾着を開き、雨の神の温もりで漂白線の進行を遅らせる。温もりを白い線に重ねると、漂白の速度が落ちた。完全停止はできない。だが避難時間は稼げる。指先が冷える。神々の温度を使いすぎると、こよい自身の体温も下がる。掌の色が白くなっていくのが分かった。
久遠は目録に挟んでいた控えの紙を細く裂き、風へ放った。 紙片が機体の吸気口へ吸われ、内部で回転を乱す。記録の断片を含んだ紙は、機械の読み取り部を混乱させる効果がある。紙片に書かれた文字と記号が、機体の識別系統を撹乱するのだ。一機、二機が失速し、高度を下げた。回転音が不規則になり、機体が左右に揺れる。
残る一機が上空で旋回し、再照準を始めた。砂丘の上空で静止し、光刃の角度を調整している。光刃が回転を上げ、白い光が強くなった。照準が定まる前の溜めだ。
あさひが叫ぶ。
「来るぞ、伏せろ!」
光刃が一直線に走る。白い光の帯が、砂面を切り裂きながら迫ってくる。砂が左右に弾け、白い溝が地面に刻まれていく。 こよいは地面へ倒れ、久遠を引き寄せる。手を伸ばし、久遠の腕を掴んで引き倒した。砂が口に入り、ざらつく。 刃は髪先を掠めただけで、背後の岩へ突き刺さった。風圧が頬を叩く。熱くも冷たくもない、無機質な風だった。
岩面の文字が一斉に白化する。 古い道標が消えた。石に刻まれていた矢印も、地名も、全部白い面になった。何百年も風化に耐えた文字が、一瞬で消えた。
久遠は歯を食いしばる。義眼の蒼光が怒りで明滅した。
「やっぱり地形情報を優先して削ってる。道を消して孤立させる戦術だ」
名前を消すだけではない。道を消す。記録を消す。歩いてきた足跡を全部消して、進むことも戻ることもできなくする。
あさひが最後の機体へ突進した。 足場は悪い。砂が崩れ、踏み込みが効かない。砂の上を走ると、一歩ごとに足首まで沈む。それでも一瞬の隙を拾い、剣の峰で回転軸を叩く。 峰打ちだ。刃を使えば折れる。だから峰で、正確に軸だけを叩いた。欠けた剣の重心は先端寄りにずれている。その分だけ踏み込みを深くし、腕の角度で補正した。訓練で身体に刻んだ修正だ。
甲高い破断音。 機体が傾き、砂丘の向こうへ墜ちた。砂煙が上がり、金属が地面にぶつかる重い音がした。続いて、光刃が消える音。低い唸りが細くなり、やがて無音になった。
静寂が戻る。 羽音はもう聞こえない。砂を渡る風の音だけが、耳に残った。
こよいは荒い呼吸を整えながら言った。砂を吐き出し、膝についた砂を払う。
「これ、また来るよね」
久遠は頷く。
「来る。だから対策を標準化する」
三人は墜落機を回収し、使える部品を抜き取った。 回転軸、光刃制御片、識別符。久遠が部品を並べ、義眼で構造を読む。蒼光が部品の一つ一つを照らし、接合部と配線を記録していく。弱点は吸気口と回転軸。光刃は動力が止まれば無力化する。動力源は回転軸の中にあり、回転が止まれば光刃も消える。
久遠がまとめる。
「次からは先に吸気を塞ぐ。正面から受けるな」
あさひは欠けた刃を見て笑った。刃がまた一段短くなっている。断面が新しく光っている。
「剣が折れる前に、こっちが手順を増やす。上等だ」
こよいは白化した岩面へ木炭で太く書いた。木炭は柔らかく、白化した石の上でよく映える。黒い字が白い面に浮かび上がった。
『空を見るな。足元を守れ』
道標を消されても、術式の手がかりまで消させるわけにはいかない。原初の第三条件を見つけるまで、足を止めない。 新兵器の時代でも、最後に頼れるのは現場で残す短い文だった。
おたまも、こよいの足元を離れずに進んだ。
