第175話 影の避難所
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第175話 影の避難所

第6章 影の計量

石段の先で、がけをくり抜いた避難壕ひなんごうが見つかった。

入口は低く、腰をかがめなければ入れない。大人が立ったまま通れないように、わざと低く掘られている。追手が勢いよく突入できないための設計だ。入口の上にひさしのように石が突き出し、上からの視線を遮っている。  石の上に砂が薄く積もり、足跡は古いものばかりだった。最近のものはない。けれど入口の脇に、油で書かれた矢印がある。矢印は内側を指していた。入っていい、という意味だろう。油は乾いて茶色く変色しているが、まだ読める。

内部は意外と広かった。天井は立てるほどの高さがあり、奥行きは十歩ほどある。入口が低いから外からは想像できない広さだ。  壁にすすあと。何度も火をいたあとが、天井にまで広がっている。床には毛布の繊維せんいがこびりつき、角には空の水瓶みずがめが三つ。かめの口に布が被せてあり、中は乾ききっていた。壁際に小さな棚があり、棚の上に油壺あぶらつぼと火打ち石が置かれている。使い込まれた生活の痕跡こんせきが、薄暗いごうの中に散らばっていた。誰かがここで寝泊まりし、食べ、灯をき、やがて去った。何度もそれが繰り返された場所だ。

「影の避難所だな」

久遠くおんが壁の刻印こくいん蒼光そうこうで照らす。光が石壁に当たり、古い文字が浮かぶ。文字は小さく、壁の低い位置に刻まれていた。立っている大人ではなく、座っている人間の目線の高さだ。

『名を呼ぶな。人数だけ数えろ』

こよいはその文を声に出さず読んだ。唇が動いただけで、音は出さない。  この場所で何が起きてきたか、短い文字だけで伝わる。名前を呼べば追手に聞かれる。壁の向こう、石の外で、誰かが耳をませているかもしれない。だから人数だけで管理する。「三人入った」「五人出た」。名前を持ったまま、名前を使わない。それがここの規則だった。

あさひは入口側で耳をませた。背中を壁につけ、片足を入口に向けている。即座に動ける姿勢だ。外の風が砂を運ぶ音だけが聞こえる。

「追手の気配は薄い。ここで一晩休める」

三人はごうの奥へ入り、最低限の灯だけけた。棚の油壺あぶらつぼの一つを開け、布芯に火を移す。小さな炎が壁に影を投げた。影は三つ。ごうの壁に、三人分の影が揺れている。かつてここにいた人たちも、同じように壁に影を投げたのだろう。  こよいはしおりの帳面を開き、今日までの経路を整理した。砂道の地図は描けないが、方角と所要時間は記録できる。風向きと匂いの記録も追加する。次に来る人が、同じ判断を再現できるように。

帳面の空白へ、久遠くおんが指先で線を引いた。蒼光そうこうの光で、帳面の紙に薄い線を焼く。

「ここが連鎖れんさ切断点。ここが再接続点。次はこの間の空白を埋める作業になる」

指先で示した二点の間に、まだ何も書かれていない領域がある。広い空白だ。その空白が、これからの旅の範囲を表していた。

あさひは短剣で乾パンを割り、二人へ渡した。乾パンは固く、歯を立てるのに力がいる。むと砂の粒が歯に当たった。砂の中を歩いてきた証拠が、食べ物にまで入り込んでいる。水は少ない。一人あたり三口分だけ。唇を湿らせる程度だ。

「理屈は飯食ってからにしろ。判断力が落ちる」

三人は黙って食べた。ごうの中で炎が揺れ、天井のすすがぼんやり光る。すすに含まれる脂分が、炎の熱でかすかに光沢を帯びるのだ。何人もの旅人が、同じように火を見つめたのだろう。壁のすすは、その人数分の夜の重なりだった。

しばらくして、入口で小石が鳴った。石と石がぶつかる、乾いた音だ。  あさひが立ち上がる。音を立てずに立ち、反射的に剣のつかに手が伸びた。入口をにらむ。

「誰だ」

返ってきたのは、子どもの声だった。高く、細い声。

「……入っていい? 外、風が痛い」

声は震えていた。寒さと恐怖が混じった震えだ。

こよいが先に動いた。あさひの横をすり抜け、入口へ向かう。  入口には姉弟していらしき二人が立っている。姉は十二、三歳、弟はその半分くらいに見えた。服は砂まみれで、膝が擦り切れている。唇が乾き切り、白い皮がけていた。姉が弟の手を握り、弟が姉の腕にしがみついている。二人とも目が大きく見開かれていた。恐怖と安堵あんどが同時に浮かんでいる目だ。

久遠くおんが即座に人数札を作った。目録もくろくの端を裂き、番号だけを書いた小さな紙片を二枚。名前は聞かない。ごうの規則に従う。

「四人、五人。内部定員はまだ余裕」

姉弟していは温い水を飲み、毛布にくるまった。三人分の毛布から一枚を分け、二人で半分ずつ。弟が小さくつぶやいた。毛布から目だけを出して、こよいを見ている。

「名前、言っちゃだめなの?」

こよいは優しく答える。声を低くして、壁の外に漏れないように。

「ここでは言わないだけ。忘れるためじゃないよ。守るために、しまっておくの」

弟はうなずき、毛布の中に顔を引っ込めた。姉がその頭をでる。姉の手は弟の手より少しだけ大きいだけだったが、撫でる動きは大人のそれだった。

夜半やはん、遠くで金属音がした。  規則的で、等間隔に石をたたいている。巡回班が周辺を探っている索敵さくてきの音だ。石をたたいて、その反響からごう洞窟どうくつの位置を探る。

久遠くおんは灯をさらに落とした。芯を指でまみ、炎を豆粒ほどにする。ごうの中が暗くなり、目が闇に慣れるまで何も見えなかった。  全員へ手信号を出す。指を一本立て、下へ向ける。伏せろ。こよいが姉弟していの肩に手を置き、動かないように伝えた。弟が震えている。姉がその口を手で覆った。声を出さないように。  おたまが音もなく弟の腕の中へ入り込んだ。弟は猫を抱きしめ、震えが少しずつ収まっていく。猫は鳴かず、されるがままでいた。  沈黙。  呼吸だけそろえる。五人分の呼吸が、ごうの暗闇で重なった。吸う音も吐く音も、限りなく小さく。

金属音が近づき、ごうの入口の真上を通った。石をたたく音が天井に響き、砂粒が落ちる。こよいの鼻先に砂が落ちたが、払わなかった。動けば音がする。

巡回は入口を通り過ぎ、去っていった。金属音が遠ざかり、やがて砂の音だけに戻る。

明け方、姉弟していは先に出発することになった。  こよいは帳面の端を裂き、避難所の位置を簡易符で記した紙を渡す。次のごうの方角と、入口の目印を簡潔に書いた。

「困ったら、同じ符を探して。誰かが残してくれた道だから」

姉は深く頭を下げた。弟も、毛布から出た手で頭を押さえて下げる。

「ありがとう。今度はわたしたちが残す」

姉弟していが出ていった後、ごうは三人に戻った。

避難所は、逃げるためだけの穴じゃない。  渡すべき手順を一時的に保管する場所だ。

三人はごうを出る前に、壁の刻印こくいんの下へ一行加えた。

『灯は半分、食料は分ける』

還す者のとは、こうして渡し続ける手のことかもしれない。術式じゅつしきの第三条件が、まだ形にならない。  影の避難所は、今日も誰かの朝をつないでいた。

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