砂丘の尾根を越えた時、風が囁いた。
はっきりした言葉ではない。風の切れ目に、声の残骸のようなものが混じっている。母音だけの断片。意味を持たない音の連なり。 けれど、以前どこかで聞いた調子だ。月の峡で迷った夜、耳元をかすめたあの風。あの時は恐ろしかった。何を言っているか分からず、ただ風に追われているような気がした。闇の中で風だけが声を持ち、こよいたちを追い立てていた。 今は違う。風は追っていない。横に並んで、同じ方向を向いている。追い風ではなく、伴走する風だ。
「……風の囁き、ふたたびか」
久遠が呟く。義眼の蒼光を灯そうとして、やめた。指が義眼の縁に触れかけて、離れる。蒼光では風の言葉は読めない。文字ではないものを、文字の道具で捉えようとしても空転するだけだ。久遠はそれを経験的に知っている。
あさひは剣に手を置いたまま、耳を澄ませた。風が右耳のほうから来ている。砂を含んだ風は低く唸り、その下に薄い旋律がある。旋律は一定ではなく、風の強弱に合わせて途切れたり繋がったりする。
「今回は脅しじゃない。案内に近い」
あさひの判断は身体の勘だ。理屈ではない。脅しの風は筋肉を硬くする。身体が防御の姿勢を取り、肩が上がり、呼吸が浅くなる。案内の風は足を向かせる。身体が進みたがり、膝が緩み、歩幅が自然に広がる。今の風は、足のほうに来ている。身体が前へ行きたがっている。
こよいは立ち止まり、目を閉じた。 囁きは断片的だ。風の切れ間に、言葉の欠片が混じっている。全部を聞き取ることはできない。風が強い時は声が埋もれ、風が弱い時だけ欠片が浮かび上がる。聞き取れた部分だけを繋ぐ。
右へ。 低い方へ。 灯を隠せ。
全部を聞き取れたわけではない。間に何かあったかもしれない。だが聞き取れた部分だけを繋ぐと、この三つになった。方向の指示と、一つの注意。
しおりの帳面にも似た注記がある。砂の道の頁の端に、小さな字で。 『囁きは半分だけ信じる。残りは地形で確かめる』。
半分だけ。しおりらしい慎重さだった。全部信じれば風への依存になり、全部疑えば貴重な情報を捨てることになる。半分だけ信じて、残りは自分の足と目で確かめる。信じることと疑うことを、同時にやる。
三人は尾根の右斜面へ降りた。 斜面は急で、砂が崩れやすい。一歩踏み込むと足首まで沈み、次の一歩で膝下まで砂が崩れる。砂の下に石段があった。砂をかき分けると、石段の端がむき出しになる。古い石だ。表面に幾何学的な模様が彫られているが、何の模様かは風化して分からなかった。石段は浅く、一段ずつ慎重に降りる。風の圧が弱い。斜面の角度が風を上へ逃がしているのだ。
途中で古い見張り台跡を見つけた。 石を積み上げた低い壁に囲まれた、四畳ほどの空間だ。壁は胸の高さまであり、四方を見渡せる。見張り台として最適な構造。中には乾いた薪が束ねて置かれ、使える油壺が二つあった。壺の口に蝋が塗られ、密封されている。蝋は古いが割れていない。誰かが備蓄したまま、取りに来なかったのだろう。あるいは、次に来る人のために残したのかもしれない。
あさひが頷く。
「囁きは本物だったな。右へ降りて、ここに辿り着いた」
久遠はすぐ否定した。
「本物と断定するな。今回は当たった、が正しい。次も当たる保証はない」
記録者として、久遠は事実と解釈を分ける。風が案内したことと、風を信じてよいことは別の話だ。結果が良かったからといって、原因が正しかったとは限らない。
夜になると、遠くで追手の灯が揺れた。 観測者の巡回班だ。砂丘の稜線に沿って、等間隔の灯が動いている。三つか四つ。灯の間隔が均一なのは、訓練された集団の証だ。声は聞こえないが、灯の動きから規律正しい集団だと分かった。
こよいは帳面の指示通り、灯を布で半分覆った。 明かりを消さず、漏らしすぎない。完全に消せば闇の中で動けなくなる。漏らしすぎれば巡回に見つかる。半分だけが正解だ。布の端を調整し、光が下にだけ漏れるようにする。足元は見えるが、遠くからは見えない。 巾着の中で、風の神の震えが微かに鎮まった。灯を抑えるこよいの判断を、承認するような静かな収まりだった。
囁きがまた来る。今度は短い。
止まれ。 息を浅く。
三人は見張り台の影へ伏せた。石壁に背中をつけ、呼吸を抑える。砂の冷たさが腹に伝わる。夜の砂は急速に冷える。昼の熱を全部放出し、石のように冷たくなる。 巡回の灯が尾根を横切った。灯は見張り台の真上を通り、こちらに気づかず過ぎていく。石壁の高さがちょうど体を隠す高さで、灯の角度からは見えない。灯が遠ざかるまでの時間が、ひどく長く感じた。呼吸を止めたまま数えた拍が、五十を超えていた。
灯が消えた。遠ざかったのではなく、砂丘の向こうへ降りたのだ。
あさひが小声で言った。
「助かったな」
こよいは首を振る。
「助かった。でも、囁き任せにはしない。今回は当たった。次は自分の判断で動く」
翌朝、風向きが変わった。 囁きは聞こえなくなった。昨夜の風とは別の風が、乾いた砂の上を渡っていく。声のない風。ただの空気の流れだ。
代わりに、足元の石段が北東へ続いているのが見えた。朝の光が斜めに差し込み、石段の影が一段ずつ浮かび上がっている。 地形が答えを渡してきたのだ。風がなくても、石と砂が道を教えてくれる。風は一つの手がかりに過ぎない。複数の手がかりを重ねて、初めて道になる。
久遠は目録へ記す。
『囁き:補助情報として有効。単独採用禁止。地形情報と照合のこと』
こよいは見張り台の柱に短く刻んだ。
『半分信じる』
風は気まぐれだ。でも、もう恐れるだけの相手ではない。恐れも信頼もせず、半分だけ受け取る。それが砂の道での、風との付き合い方だった。
原初の術式の最後の条件だけが、まだ風の向こうにある。 三人は石段を下り、次の区画へ向かった。
おたまは尾を立て、次の一歩を静かに待っていた。
