砂道の終端に、小さな社があった。
石を積んだだけの、素朴な造りだ。石は大小ばらばらで、表面の色も違う。各地から運ばれてきた石を、ここで一つに積み上げたのだろう。屋根は板二枚を斜めに合わせただけで、隙間から砂が落ちている。それでも壁は崩れておらず、石と石の間に漆喰の跡が残っていた。漆喰は何度も塗り直された形跡がある。古い層と新しい層が縞になっている。誰かが定期的に修繕してきた社だ。
社の前に井戸。 井戸の縁は乾き、石の表面に白い析出物がこびりついている。かつて水が溢れていた名残だ。桶はひび割れ、底板が一枚外れている。綱は途中で切れ、切れた端が風に揺れて乾いた音を立てていた。 看板には掠れた字。木の表面が風化し、字の彫りだけが残っている。
『渇きの神』
こよいは井戸を覗いた。 底は見えない。暗い穴が、地面の奥へまっすぐ落ちている。石壁は乾ききっていて、水の気配がまるでない。湿り気の跡すらなかった。壁の石が白く脱色しているのは、水が引いた時に残された塩の結晶だ。かつてここには水があった。それが完全に消えた。
あさひが桶を持ち上げる。軽い。木の重さだけで、底に砂が溜まっているだけだった。水の痕跡はない。
「空だな。供えもずっと途切れてる」
社の前に供物台がある。石を平らに削った台で、角が擦り減っている。長年、供物を置き続けた跡だ。だが今は何も載っていない。台の上には砂だけが積もり、供物の代わりに風が通り過ぎていた。
久遠は井戸壁の刻印を読んだ。蒼光が石壁に入り込み、風化で見えなくなった古い文字を浮かべる。文字は小さく、密に刻まれていた。井戸を掘った時代の記録だ。
「神が渇いてるんじゃない。名を呼ばれないせいで、供給経路が閉じてる」
名前を呼ばれることが、神への供給だった。この井戸は、名前の力で水を汲み上げる仕組みだ。呼ばれた名前が石壁を伝い、地下水脈を開く。水を注ぐ前に、名前が必要なのだ。名前が途絶えたから水が途絶えた。 こよいは順番が逆だと思っていた。水が枯れたから人が去り、人が去ったから名前が消えた、と。だがここでは名前のほうが先だった。名前が消えたから水が枯れ、水が枯れたから人が去った。
こよいは巾着の神々へ触れた。四柱の脈が、この社に反応して微かに速まっている。神々は神の気配を感じている。枯れてはいるが、まだここに何かが残っている。
「水を入れれば戻る?」
「水だけでは足りない。呼び方と順序が必要だ」
しおりの帳面に、古い儀式手順が一行だけ残っていた。しおりの筆跡ではない。もっと古い字だ。角ばった、力の入った字。帳面に転記される前から、この手順は何世代にもわたって語り継がれてきたのだろう。
『先に謝る。次に名を呼ぶ。最後に水』
あさひが眉を上げる。
「謝るのが先か。水が先じゃないのか」
「放っておいたことを、まず認める。それが手順の最初にある」
久遠が補足した。合理的な手順だ。名前を呼ぶ前に関係を認めることで、呼びかけが一方的な命令にならない。「水をくれ」と言う前に、「放っておいてごめん」と言う。順番が大事だ。
こよいは社前に膝をつき、砂の上に両手を置いた。砂は意外にも冷たかった。日が当たっているのに、社の周りだけ温度が低い。渇きの神の領域は、水が消えた分だけ熱も奪っている。冷たさが掌から腕を伝い、肩まで届いた。
ゆっくり言った。声は小さく、砂の上に落ちる水滴のように。
「長く放っておいて、ごめんなさい」
声は砂に吸われ、遠くへは届かない。けれど社の石の間を、声の振動がすり抜けていくのを感じた。石が声を通している。砂ではなく、石が道になって、声を社の奥へ運んでいく。
風が一度、社の鈴を揺らした。鈴は錆て変色し、紐も朽ちかけている。 音は鳴らない。鈴の中の舌が錆で固まっているのだ。だが縄が動いた。揺れは伝わっている。音が出なくても、動きがある。応答だ。
久遠が名を読み上げた。蒼光を消し、道具を使わず、自分の声だけで。義眼の光ではなく、喉から出る振動で。
「渇きの神。帰ってきてくれ」
声は低く、静かだった。命令ではない。依頼でもない。ただ名前を呼んだ。名前を呼ぶことが、ここでは最大の供物だ。
最後に、こよいが巾着を開き、神々の温度を一滴だけ井戸へ落とした。 水ではない。温度だけだ。神々から分けた一粒の熱。熱の粒が暗い穴を落ちていく。見えないが、落ちていく気配が手のひらに伝わった。 井戸底で小さな反響が起きる。温度が底の石に触れ、跳ね返った振動が筒を上がってきた。石壁を伝い、縁に届き、三人の足元を揺らした。
最初に気づいたのは、おたまだった。 猫が井戸の縁に前脚をかけ、暗い穴の奥へ耳を澄ませる。 しばらくして、井戸の奥から冷たい風が上がった。乾いた風ではない。かすかに湿気を含んだ、地下の風だ。湿気が顔に触れ、乾いていた唇が少しだけ楽になる。 続いて、桶の底へ透明な水滴がひとつ落ちた。
ぽつん。
それだけで、空気が変わった。 乾いていた喉が少し楽になる。社の周りの温度が、ほんのわずか上がった。冷たかった砂が、掌の下でぬるくなっている。
あさひが笑う。口の端が上がり、目が柔らかくなった。
「一滴でも、神は神だな」
久遠は慎重に言う。感情に流されず、事実を確認する声だ。
「復帰は初期段階。継続供給がないとまた枯れる。次にここを通る人が、同じ手順を踏めるかどうかだ。一度の呼びかけでは、経路が完全には開かない」
こよいは社の柱へ木札を括った。しおりの帳面から書き写した手順を、大きな字で記す。字は太く、砂嵐でも消えにくいように深く彫り込んだ。
『謝ってから呼ぶ』
短い手順。 次に来る人のための備忘録だ。この四文字を読んで、同じ順番で声をかけてくれれば、井戸の経路はもう少し開く。
去り際、井戸からもう一滴。 今度は二つ落ちた。桶の底で、小さな水溜りが光を反射する。太陽の光が桶の底で揺れ、石の壁に光の輪を投げた。
渇きは終わっていない。でも、戻り始めている。 謝ってから呼ぶ——この手順は、原初の術式の第三条件にも繋がっている気がした。還す者の手とは、こうした一つ一つの作法の積み重ねなのかもしれない。
三人は社へ一礼し、再び砂道へ戻った。背後で、鈴が微かに揺れた気がした。
