第173話 渇きの神
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第173話 渇きの神

第6章 影の計量

砂道の終端に、小さな社(やしろ)があった。

石を積んだだけの、素朴な造りだ。石は大小ばらばらで、表面の色も違う。各地から運ばれてきた石を、ここで一つに積み上げたのだろう。屋根は板二枚を斜めに合わせただけで、隙間から砂が落ちている。それでも壁は崩れておらず、石と石の間に漆喰(しっくい)の跡(あと)が残っていた。漆喰(しっくい)は何度も塗り直された形跡がある。古い層と新しい層が縞(しま)になっている。誰かが定期的に修繕(しゅうぜん)してきた社(やしろ)だ。

社(やしろ)の前に井戸(いど)。  井戸(いど)の縁(ふち)は乾き、石の表面に白い析出物(せきしゅつぶつ)がこびりついている。かつて水が溢(あふ)れていた名残だ。桶(おけ)はひび割れ、底板が一枚外れている。綱(つな)は途中で切れ、切れた端が風に揺れて乾いた音を立てていた。  看板には掠(かす)れた字。木の表面が風化し、字の彫りだけが残っている。

『渇(かわ)きの神』

こよいは井戸(いど)を覗(のぞ)いた。  底は見えない。暗い穴が、地面の奥へまっすぐ落ちている。石壁は乾ききっていて、水の気配がまるでない。湿り気の跡(あと)すらなかった。壁の石が白く脱色しているのは、水が引いた時に残された塩の結晶だ。かつてここには水があった。それが完全に消えた。

あさひが桶(おけ)を持ち上げる。軽い。木の重さだけで、底に砂が溜(た)まっているだけだった。水の痕跡(こんせき)はない。

「空だな。供えもずっと途切れてる」

社(やしろ)の前に供物台(くもつだい)がある。石を平らに削った台で、角が擦り減っている。長年、供物(くもつ)を置き続けた跡(あと)だ。だが今は何も載っていない。台の上には砂だけが積もり、供物(くもつ)の代わりに風が通り過ぎていた。

久遠(くおん)は井戸(いど)壁の刻印(こくいん)を読んだ。蒼光(そうこう)が石壁に入り込み、風化で見えなくなった古い文字を浮かべる。文字は小さく、密に刻まれていた。井戸(いど)を掘った時代の記録だ。

「神が渇(かわ)いてるんじゃない。名を呼ばれないせいで、供給経路が閉じてる」

名前を呼ばれることが、神への供給だった。この井戸(いど)は、名前の力で水を汲(く)み上げる仕組みだ。呼ばれた名前が石壁を伝い、地下水脈を開く。水を注ぐ前に、名前が必要なのだ。名前が途絶えたから水が途絶えた。  こよいは順番が逆だと思っていた。水が枯れたから人が去り、人が去ったから名前が消えた、と。だがここでは名前のほうが先だった。名前が消えたから水が枯れ、水が枯れたから人が去った。

こよいは巾着(きんちゃく)の神々へ触れた。四柱(よはしら)の脈が、この社(やしろ)に反応して微(かす)かに速まっている。神々は神の気配を感じている。枯れてはいるが、まだここに何かが残っている。

「水を入れれば戻る?」

「水だけでは足りない。呼び方と順序が必要だ」

しおりの帳面に、古い儀式手順が一行だけ残っていた。しおりの筆跡(ひっせき)ではない。もっと古い字だ。角ばった、力の入った字。帳面に転記される前から、この手順は何世代にもわたって語り継がれてきたのだろう。

『先に謝(あやま)る。次に名を呼ぶ。最後に水』

あさひが眉を上げる。

「謝(あやま)るのが先か。水が先じゃないのか」

「放っておいたことを、まず認める。それが手順の最初にある」

久遠(くおん)が補足した。合理的な手順だ。名前を呼ぶ前に関係を認めることで、呼びかけが一方的な命令にならない。「水をくれ」と言う前に、「放っておいてごめん」と言う。順番が大事だ。

こよいは社(やしろ)前に膝をつき、砂の上に両手を置いた。砂は意外にも冷たかった。日が当たっているのに、社(やしろ)の周りだけ温度が低い。渇(かわ)きの神の領域は、水が消えた分だけ熱も奪っている。冷たさが掌(てのひら)から腕を伝い、肩まで届いた。

ゆっくり言った。声は小さく、砂の上に落ちる水滴のように。

「長く放っておいて、ごめんなさい」

声は砂に吸われ、遠くへは届かない。けれど社(やしろ)の石の間を、声の振動がすり抜けていくのを感じた。石が声を通している。砂ではなく、石が道になって、声を社(やしろ)の奥へ運んでいく。

風が一度、社(やしろ)の鈴を揺らした。鈴は錆(さび)て変色し、紐(ひも)も朽ちかけている。  音は鳴らない。鈴の中の舌(ぜつ)が錆(さび)で固まっているのだ。だが縄が動いた。揺れは伝わっている。音が出なくても、動きがある。応答だ。

久遠(くおん)が名を読み上げた。蒼光(そうこう)を消し、道具を使わず、自分の声だけで。義眼(ぎがん)の光ではなく、喉から出る振動で。

「渇(かわ)きの神。帰ってきてくれ」

声は低く、静かだった。命令ではない。依頼でもない。ただ名前を呼んだ。名前を呼ぶことが、ここでは最大の供物(くもつ)だ。

最後に、こよいが巾着(きんちゃく)を開き、神々の温度を一滴だけ井戸(いど)へ落とした。  水ではない。温度だけだ。神々から分けた一粒の熱。熱の粒が暗い穴を落ちていく。見えないが、落ちていく気配が手のひらに伝わった。  井戸(いど)底で小さな反響(はんきょう)が起きる。温度が底の石に触れ、跳ね返った振動が筒を上がってきた。石壁を伝い、縁(ふち)に届き、三人の足元を揺らした。

最初に気づいたのは、おたまだった。  猫が井戸(いど)の縁(ふち)に前脚をかけ、暗い穴の奥へ耳を澄ませる。  しばらくして、井戸(いど)の奥から冷たい風が上がった。乾いた風ではない。かすかに湿気を含んだ、地下の風だ。湿気が顔に触れ、乾いていた唇が少しだけ楽になる。  続いて、桶(おけ)の底へ透明な水滴がひとつ落ちた。

ぽつん。

それだけで、空気が変わった。  乾いていた喉が少し楽になる。社(やしろ)の周りの温度が、ほんのわずか上がった。冷たかった砂が、掌(てのひら)の下でぬるくなっている。

あさひが笑う。口の端が上がり、目が柔らかくなった。

「一滴でも、神は神だな」

久遠(くおん)は慎重に言う。感情に流されず、事実を確認する声だ。

「復帰は初期段階。継続供給がないとまた枯れる。次にここを通る人が、同じ手順を踏めるかどうかだ。一度の呼びかけでは、経路が完全には開かない」

こよいは社(やしろ)の柱へ木札を括(くく)った。しおりの帳面から書き写した手順を、大きな字で記す。字は太く、砂嵐でも消えにくいように深く彫り込んだ。

『謝(あやま)ってから呼ぶ』

短い手順。  次に来る人のための備忘録だ。この四文字を読んで、同じ順番で声をかけてくれれば、井戸(いど)の経路はもう少し開く。

去り際、井戸(いど)からもう一滴。  今度は二つ落ちた。桶(おけ)の底で、小さな水溜(みずたま)りが光を反射する。太陽の光が桶(おけ)の底で揺れ、石の壁に光の輪を投げた。

渇(かわ)きは終わっていない。でも、戻り始めている。  謝(あやま)ってから呼ぶ——この手順は、原初(げんしょ)の術式(じゅつしき)の第三条件にも繋がっている気がした。還す者の手(て)とは、こうした一つ一つの作法(さほう)の積み重ねなのかもしれない。

三人は社(やしろ)へ一礼し、再び砂道へ戻った。背後で、鈴が微(かす)かに揺れた気がした。

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