回廊を抜けると、砂の道がまっすぐ伸びていた。
左右に建物はない。石壁も木柵も、人が作ったものの気配がない。ただ砂丘が並び、風が低く鳴る。砂丘の稜線は刃物で引いたように鋭く、光と影がくっきり分かれていた。砂の色は白に近い灰色で、太陽の位置によって銀にも鉛にも見える。空は高く、雲が少ない。日差しが砂に反射して、目を開けているだけで眩しかった。 足跡はすぐに消える。三人が歩いた場所を振り返ると、もう何の痕跡もなかった。砂が風に均され、一歩前の自分すら否定される。歩いているのに、歩いた証拠がない。こよいは振り返るのをやめた。振り返っても砂しかない。前を見て進むしかないのだ。
「ここ、地図が効かない」
こよいが言う。しおりの帳面を開いても、砂の道の頁には大まかな方角しか書かれていない。北東へ、と一言。詳細な地図がないのではなく、描いても無意味だから省かれているのだ。砂丘は毎日形が変わる。今日の丘が明日には谷になり、今日の道が明日には壁になる。固定された地図は嘘になる。
久遠は目録を閉じた。蒼光を消し、義眼を休ませる。砂の反射光が義眼に負荷をかけるのだ。
「地形が毎刻ずれてる。記録より現場優先だ」
記録が役に立たない場所がある。それを認めるのも記録者の仕事だと、久遠は知っている。記録に固執して現場を見失えば、記録者が一番先に迷う。
あさひは先頭に立ち、風向きだけで進路を取った。風が左頬に当たるように歩けば、おおむね北東を維持できる。身体の感覚だけで方角を測る技術は、地図がない場所でこそ力を発揮する。 砂は細かく、乾いているのに重い。靴の中へ入り、足首に溜まる。歩くたびに靴の中で砂が擦れ、皮膚が赤くなっていくのが分かった。三十歩ごとに靴を脱いで砂を払いたくなるが、立ち止まれば砂丘の間で時間を食う。こよいは歯を食いしばって歩いた。 おたまは早々に歩くのをやめ、あさひの背に負われた鞘の上に、当たり前の顔で乗っていた。あさひは何か言いかけて、やめた。熱い砂を猫に歩かせる理由もない。
半刻進んだところで、古い道標が現れた。 砂から突き出した石柱で、高さは腰ほどしかない。かつてはもっと高かったのだろう。砂が積もって根元が埋まっている。表面の文字は風に削られ、矢印だけが残っていた。彫りが深かったから、矢印だけが生き延びたのだ。矢印の先は右を指している。だが指した先は砂で埋もれ、何を示していたのか分からなくなっていた。
あさひが立ち止まる。目を風で細め、右方向の砂丘を見た。砂が舞い上がり、視界は百歩先で白く霞んでいる。
「右は風が強すぎる。道標は古い。この道標が正しかった時代の地形は、もうここにない」
久遠も同意した。
「過去の正解だな。今の正解とは限らない」
砂の道では、かつての正解が今の罠になることがある。地形が変わり、風が変わり、道が変わる。石に刻んだ矢印だけが、過去の形のまま残っている。矢印に従う者は、もうない道へ向かうことになる。
こよいはしおりの帳面を開いた。 砂の道の頁には、短い注記がある。しおりの筆跡だ。
『道標より、風の匂い』
こよいは目を閉じ、鼻を澄ませた。風の中に混じるものを嗅ぎ分ける。砂の匂い、乾いた空気の匂い。その下に、かすかに別の匂いがある。 右風は鉄臭かった。錆た金属の匂いだ。廃棄された機構の残骸がある方角だろう。削刃機の墜落跡か、それとも別の兵器の廃棄場か。どちらにしても、人の暮らす方角ではない。 正面風は乾いた麦の匂いがする。かすかだが、確かに植物の気配がある。穀物を干している匂い。人が穀物を干しているなら、その先に集落がある。
「正面。生活の匂いがある」
三人は正面へ進路を取った。 砂丘を二つ越え、低い谷間に出る。砂の下から石畳の角が顔を出していた。こよいは靴先で砂を払い、石の表面を確かめる。磨かれた石だ。人が何年も歩いて磨かれた石は、風化した石とは違う光沢を持っている。表面が滑らかで、角が丸い。足裏の形に窪んでいる石もあった。 しばらくして、砂丘の陰に井戸跡を見つける。石の縁が崩れかけているが、使われていない割に状態がいい。誰かが時々手入れしている。縁に新しい紐の擦れ跡があった。桶を吊り下ろした痕だ。
「人が通ってる。最近だ」
あさひが頷く。警戒の姿勢が少しだけ緩んだ。剣の柄から手を離しはしないが、握る力が弱まっている。人がいるということは、道があるということだ。
さらに進むと、砂の下から石畳が連なって顔を出した。一枚、二枚と続き、やがて道の形が見えてくる。 中陵へ続く旧道だ。砂に埋もれていたが、消えてはいなかった。
久遠が静かに笑う。珍しい笑顔だった。
「当たりだ。道標より匂い、は正しかった。しおりの注記に感謝する」
夕方、砂嵐が起きた。 前触れは風の温度だった。急に温かくなり、砂が膝の高さまで舞い上がる。次の瞬間、視界が一気に白む。白い壁が目の前に立ったように、何も見えなくなった。
こよいは巾着を布で包み、顔を伏せた。砂が肌を打つ。細かい粒が頬に当たり、痛みというより圧に近い。目を開ければ砂が入る。口を開ければ砂を食べる。呼吸は鼻だけで、布を通して空気を吸った。 あさひは三人の腰帯を紐で繋ぎ、離れないよう固定した。視界がなくても、紐が張れば互いの位置が分かる。腰帯が張るたび、生存を確認する。声は砂に呑まれて届かなかった。 久遠は風下側へ姿勢を低くし、目録を胸に抱いた。砂の下に伏せ、嵐が過ぎるのを待つ。
嵐は短かった。こよいが神々の脈で数えた百拍の前に、風が落ちた。嘘のように静かになる。さっきまでの轟音が消え、自分の呼吸だけが聞こえた。 顔を上げると、砂面には新しい線が引かれていた。風が砂を運んだ結果、石畳の上だけ砂が薄く残り、石の道が浮き彫りになっている。自然の線路みたいに、中陵の方角へ一直線に続いていた。偶然だろう。けれど偶然を読める目があれば、それは道になる。
こよいはその線を見て呟いた。
「道は消えるけど、道になりたい風は残るんだね」
あさひが笑う。腰帯の紐を解きながら。
「詩人みたいなこと言うな。歩けるならそれでいい」
久遠は目録の砂を払い、短く追記した。
『砂道:道標不可信。風匂優先。嵐後の石畳露出を活用せよ』
三人は線に沿って歩き出す。 砂の道は厳しい。足が沈み、視界が狭く、目印が消える。 だが進み方を覚えれば、ちゃんと通れる。 原初の術式の第三条件も、地図に載らない道のように、歩いてみなければ見つからないのだろう。
