第172話 砂の道
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第172話 砂の道

第6章 影の計量

回廊かいろうを抜けると、砂の道がまっすぐ伸びていた。

左右に建物はない。石壁も木柵も、人が作ったものの気配がない。ただ砂丘さきゅうが並び、風が低く鳴る。砂丘さきゅう稜線りょうせんは刃物で引いたように鋭く、光と影がくっきり分かれていた。砂の色は白に近い灰色で、太陽の位置によって銀にも鉛にも見える。空は高く、雲が少ない。日差しが砂に反射して、目を開けているだけでまぶしかった。  足跡はすぐに消える。三人が歩いた場所を振り返ると、もう何の痕跡こんせきもなかった。砂が風にならされ、一歩前の自分すら否定される。歩いているのに、歩いた証拠がない。こよいは振り返るのをやめた。振り返っても砂しかない。前を見て進むしかないのだ。

「ここ、地図が効かない」

こよいが言う。しおりの帳面を開いても、砂の道のページには大まかな方角しか書かれていない。北東へ、と一言。詳細な地図がないのではなく、描いても無意味だから省かれているのだ。砂丘さきゅうは毎日形が変わる。今日の丘が明日には谷になり、今日の道が明日には壁になる。固定された地図はうそになる。

久遠くおん目録もくろくを閉じた。蒼光そうこうを消し、義眼ぎがんを休ませる。砂の反射光が義眼ぎがんに負荷をかけるのだ。

「地形が毎刻ずれてる。記録より現場優先だ」

記録が役に立たない場所がある。それを認めるのも記録者の仕事だと、久遠くおんは知っている。記録に固執して現場を見失えば、記録者が一番先に迷う。

あさひは先頭に立ち、風向きだけで進路を取った。風が左頬に当たるように歩けば、おおむね北東を維持できる。身体の感覚だけで方角を測る技術は、地図がない場所でこそ力を発揮する。  砂は細かく、乾いているのに重い。靴の中へ入り、足首にまる。歩くたびに靴の中で砂がこすれ、皮膚が赤くなっていくのが分かった。三十歩ごとに靴を脱いで砂を払いたくなるが、立ち止まれば砂丘さきゅうの間で時間を食う。こよいは歯を食いしばって歩いた。  おたまは早々に歩くのをやめ、あさひの背に負われたさやの上に、当たり前の顔で乗っていた。あさひは何か言いかけて、やめた。熱い砂を猫に歩かせる理由もない。

半刻進んだところで、古い道標みちしるべが現れた。  砂から突き出した石柱で、高さは腰ほどしかない。かつてはもっと高かったのだろう。砂が積もって根元が埋まっている。表面の文字は風に削られ、矢印だけが残っていた。彫りが深かったから、矢印だけが生き延びたのだ。矢印の先は右を指している。だが指した先は砂で埋もれ、何を示していたのか分からなくなっていた。

あさひが立ち止まる。目を風で細め、右方向の砂丘さきゅうを見た。砂が舞い上がり、視界は百歩先で白くかすんでいる。

「右は風が強すぎる。道標みちしるべは古い。この道標みちしるべが正しかった時代の地形は、もうここにない」

久遠くおんも同意した。

「過去の正解だな。今の正解とは限らない」

砂の道では、かつての正解が今のわなになることがある。地形が変わり、風が変わり、道が変わる。石に刻んだ矢印だけが、過去の形のまま残っている。矢印に従う者は、もうない道へ向かうことになる。

こよいはしおりの帳面を開いた。  砂の道のページには、短い注記がある。しおりの筆跡ひっせきだ。

道標みちしるべより、風の匂い』

こよいは目を閉じ、鼻をませた。風の中に混じるものをぎ分ける。砂の匂い、乾いた空気の匂い。その下に、かすかに別の匂いがある。  右風は鉄臭かった。さびた金属の匂いだ。廃棄された機構きこう残骸ざんがいがある方角だろう。削刃機さくじんきの墜落跡か、それとも別の兵器の廃棄場か。どちらにしても、人の暮らす方角ではない。  正面風は乾いたむぎの匂いがする。かすかだが、確かに植物の気配がある。穀物を干している匂い。人が穀物を干しているなら、その先に集落がある。

「正面。生活の匂いがある」

三人は正面へ進路を取った。  砂丘さきゅうを二つ越え、低い谷間に出る。砂の下から石畳いしだたみの角が顔を出していた。こよいは靴先で砂を払い、石の表面を確かめる。磨かれた石だ。人が何年も歩いて磨かれた石は、風化した石とは違う光沢こうたくを持っている。表面が滑らかで、角が丸い。足裏の形にくぼんでいる石もあった。  しばらくして、砂丘さきゅうの陰に井戸いど跡を見つける。石のふちが崩れかけているが、使われていない割に状態がいい。誰かが時々手入れしている。ふちに新しいひもの擦れあとがあった。おけを吊り下ろしたあとだ。

「人が通ってる。最近だ」

あさひがうなずく。警戒の姿勢が少しだけ緩んだ。剣のつかから手を離しはしないが、握る力が弱まっている。人がいるということは、道があるということだ。

さらに進むと、砂の下から石畳いしだたみが連なって顔を出した。一枚、二枚と続き、やがて道の形が見えてくる。  中陵ちゅうりょうへ続く旧道だ。砂に埋もれていたが、消えてはいなかった。

久遠くおんが静かに笑う。珍しい笑顔だった。

「当たりだ。道標みちしるべより匂い、は正しかった。しおりの注記に感謝する」

夕方、砂嵐が起きた。  前触れは風の温度だった。急に温かくなり、砂が膝の高さまで舞い上がる。次の瞬間、視界が一気に白む。白い壁が目の前に立ったように、何も見えなくなった。

こよいは巾着きんちゃくを布で包み、顔を伏せた。砂が肌を打つ。細かい粒が頬に当たり、痛みというよりあつに近い。目を開ければ砂が入る。口を開ければ砂を食べる。呼吸は鼻だけで、布を通して空気を吸った。  あさひは三人の腰帯をひもつなぎ、離れないよう固定こていした。視界がなくても、ひもが張れば互いの位置が分かる。腰帯が張るたび、生存を確認する。声は砂にまれて届かなかった。  久遠くおんは風下側へ姿勢を低くし、目録もくろくを胸に抱いた。砂の下に伏せ、嵐が過ぎるのを待つ。

嵐は短かった。こよいが神々の脈で数えた百拍の前に、風が落ちた。うそのように静かになる。さっきまでの轟音ごうおんが消え、自分の呼吸だけが聞こえた。  顔を上げると、砂面には新しい線が引かれていた。風が砂を運んだ結果、石畳いしだたみの上だけ砂が薄く残り、石の道が浮き彫りになっている。自然の線路みたいに、中陵ちゅうりょうの方角へ一直線に続いていた。偶然だろう。けれど偶然を読める目があれば、それは道になる。

こよいはその線を見てつぶやいた。

「道は消えるけど、道になりたい風は残るんだね」

あさひが笑う。腰帯のひもを解きながら。

「詩人みたいなこと言うな。歩けるならそれでいい」

久遠くおん目録もくろくの砂を払い、短く追記した。

『砂道:道標不可信。風匂優先。嵐後の石畳露出を活用せよ』

三人は線に沿って歩き出す。  砂の道は厳しい。足が沈み、視界が狭く、目印が消える。  だが進み方を覚えれば、ちゃんと通れる。  原初げんしょ術式じゅつしきの第三条件も、地図に載らない道のように、歩いてみなければ見つからないのだろう。

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