崩れた天都の下層は、泥の匂いで満ちていた。
雨は降っていない。 それでも石畳の隙間から泥が湧き、靴底へまとわりつく。ただの土ではない。溶けた記録が混ざった泥だ。色は灰褐色で、触れると指に薄い膜が残る。拭っても消えない。肌に染み込むような粘りがあった。
こよいは一歩ごとに、胸のどこかが軽く削られる感覚を覚えた。巾着の神々が微かに揺れる。泥が持つ記録の残滓が、神々の温度を乱しているのだった。足を止めるたびに揺れは収まり、歩き出すとまた始まる。この泥は、踏む者の中にある名前に反応している。
「……この泥、嫌だ」
あさひが低く言う。顔をしかめ、靴底の泥を石の角でこそぎ落とそうとしたが、すぐにまた絡みつく。
久遠は義眼を灯さないまま答えた。
「光を当てると拡散する。足を止めず、浅く踏め」
義眼を使わないのは、この泥に含まれた記録の断片を読んでしまうことを避けるためだ。読めば記憶に残る。記憶に残れば、久遠の中の座標が狂う。だから目を閉じたまま、足の裏の感触だけで歩いている。
三人は路地を抜け、崩れた屋根の下をくぐった。天都の下層は迷路のように入り組んでいて、壁の高さが均一でない。崩落で上層の石材が落ち、路地を塞いでいる箇所もあった。あさひが先に立ち、拾った角材で石を退かしながら進む。欠けた剣は、もう道具にはしない。
路地の角で、こよいは板切れを見つけた。 泥に半分埋もれている。 拾い上げると、ぬるい。体温に近い温度で、指の間から泥水が滴った。木目が荒く、何かの看板か、あるいは机の天板だったのかもしれない。
表面に掠れた字。 『こよ——』
そこで線が切れていた。筆圧は最初の二文字だけ強く、三文字目から力が抜けている。書きかけで止まったのではない。書く力が途中で奪われたのだ。
こよいの呼吸が止まる。
「これ……ぼくの名前?」
先に気づいたのは、おたまだった。 猫は泥の海の一点へ歩み寄り、濡れるのも構わず座り込んで、じっと見つめた。
泥の向こうから声がした。
「その続きを、書けなかったの」
少女だった。 泥だらけの外套、裂けた袖。頬は痩せ、首筋に泥が筋を引いているが、目だけが妙にはっきりしている。声は揺れていなかった。 見覚えが、あった。 市場の空白で、白の中に膝を折って何かを拾っていた——あの少女だ。淡い着物は泥に汚れ、色を失いかけている。それでも、まっすぐにこよいを見るこの目を、忘れようがなかった。 あさひが反射的に剣の柄に手を伸ばしたが、久遠が目で制した。敵ではない。泥から出てきたものは全て警戒すべきだが、これは違う。名前を持って現れた存在だ。
こよいは板を抱えたまま立ち尽くした。
「……誰? なんでぼくの名前を」
少女は苦笑する。
「鈴音。ここで泥掘りを続けてる間だけ、形を保てるの。あなたの名前は……泥の中で拾った」
すずね。 こよいの胸の奥で、何かが噛み合った。名前の洪水のあと、手の甲で溶けた二文字——すず。あれは、この子の名前の欠片だったのだ。
「……市場の空白に、いたよね。灯見町の穴も。書庫の帳面も——あれ、きみ?」
鈴音は少しだけ目を見開き、それから短く笑った。
「見られてたんだ。……穴は、わたし。帳面も」
そして、足元のおたまへ目をやった。
「その子は、昔から知ってる」
それ以上は言わなかった。喋った分だけ、削れるから。 自分の手を見せた。指先が透けかけている。泥の色が皮膚を通して見える。実体と記録の境目が曖昧になっている証拠だった。
久遠が一歩進む。
「泥の残留現象か。崩落で落ちた記録を、自分の声で仮固定してるんだな」
鈴音は頷いた。
「声を出さないと、すぐ溶ける。でも喋りすぎると、喋った分だけ削れる。だから短く話すの」
その言い方に慣れがあった。何度も試して、失敗して、辿り着いた手順なのだろう。短く話す。余計なことは言わない。感情を込めすぎない。それが泥の中で形を保つ唯一の方法だと、鈴音は体で覚えていた。
あさひが周囲を警戒しながら訊く。
「ここで何を掘ってる?」
鈴音は泥の中から小瓶を取り出した。 中には黒い粒が数個。瓶の硝子は濁り、中身は光を吸って沈んでいる。
「名前の芯。漂白の途中で落ちたやつ。集めておけば、あとで戻せるかもしれないから」
名前を消す過程で、芯だけが泥に落ちる。文字は消えても、発音の核が物質として残ることがある。それを鈴音は一粒ずつ拾い集めていた。気が遠くなる作業だ。泥は毎日動く。昨日拾えた場所が、今日は沈んでいる。それでも掘り続ける。掘ることが、鈴音の形を保つ行為そのものだから。
こよいは巾着を開き、硝子の神の澄んだ一振を板へ移す。 透明な振動が板の木目に沁み込んでいく。振動が木を伝い、掠れた字の続きが、ほんの少しだけ浮いた。
『こよい、急ぐな』
鈴音が小さく笑った。
「……よかった。届いた」
「また、会える?」
こよいが訊くと、鈴音は手の中の小瓶を見て、少しだけ考えた。
「名前が落ちてる場所に、わたしはいる」
泥の流れが急に速くなる。 足元の泥が渦を巻き始め、路地の奥から冷たい風が吹いた。時間切れの合図だ。 鈴音の輪郭が滲み始めた。足元から順に、泥と同じ色になっていく。
「時間切れ」
鈴音は小瓶をこよいに押し付ける。硝子越しに、手の温度だけがかすかに伝わった。
「これ、持ってって。中陵の北で使って。あと……しおりって子の痕跡、まだ消えてない」
「どこに?」
問い返す前に、鈴音の肩が泥へ沈む。
「灯の少ない側を……」
声が途切れた。 泥面は波紋だけを残し、元の濁りへ戻る。鈴音がいた場所には、靴跡ひとつ残っていない。泥がすべてを均した。
こよいは膝をつき、小瓶を握った。硝子が手の中で温まっていく。鈴音の体温の残りか、自分の熱か、区別がつかなかった。 あさひが背中に手を置く。掌の重さが、こよいの身体を今この場所へ繋ぎとめている。
「行こう。ここに長居すると、向こうまで引かれる」
久遠も静かに頷いた。
「あの子の声には嘘がなかった。次に会える保証はないが、繋がりはできた」
こよいは立ち上がる。膝についた泥を払おうとして、やめた。鈴音がいた泥だ。名前も知らなかった相手なのに、払いたくなかった。 板切れの文字を胸にしまい、小瓶を巾着へ入れた。神々が小瓶を包むように脈を変えた。受け入れている。
泥の中の出会いは短い。 それでも、短いからこそ嘘じゃないと分かる。 還す者の手とは、こうして誰かの名の芯を拾い上げる手のことなのかもしれない——こよいの胸に、かすかな予感が灯った。
