第164話 泥の中の再会
164

第164話 泥の中の再会

第6章 影の計量

崩れた天都(てんと)の下層は、泥の匂いで満ちていた。

雨は降っていない。  それでも石畳(いしだたみ)の隙間から泥が湧き、靴底へまとわりつく。ただの土ではない。溶けた記録が混ざった泥だ。色は灰褐色(はいかっしょく)で、触れると指に薄い膜(まく)が残る。拭(ぬぐ)っても消えない。肌に染み込むような粘(ねば)りがあった。

こよいは一歩ごとに、胸のどこかが軽く削られる感覚を覚えた。巾着(きんちゃく)の神々が微(かす)かに揺れる。泥が持つ記録の残滓(ざんさ)が、神々の温度を乱しているのだった。足を止めるたびに揺れは収まり、歩き出すとまた始まる。この泥は、踏む者の中にある名前に反応している。

「……この泥、嫌だ」

あさひが低く言う。顔をしかめ、靴底の泥を石の角でこそぎ落とそうとしたが、すぐにまた絡みつく。

久遠(くおん)は義眼(ぎがん)を灯さないまま答えた。

「光を当てると拡散(かくさん)する。足を止めず、浅く踏め」

義眼(ぎがん)を使わないのは、この泥に含まれた記録の断片を読んでしまうことを避けるためだ。読めば記憶に残る。記憶に残れば、久遠(くおん)の中の座標(ざひょう)が狂う。だから目を閉じたまま、足の裏の感触だけで歩いている。

三人は路地を抜け、崩れた屋根の下をくぐった。天都(てんと)の下層は迷路のように入り組んでいて、壁の高さが均一でない。崩落(ほうらく)で上層の石材が落ち、路地を塞(ふさ)いでいる箇所もあった。あさひが先に立ち、拾った角材で石を退(ど)かしながら進む。欠けた剣は、もう道具にはしない。

路地の角で、こよいは板切れを見つけた。  泥に半分埋もれている。  拾い上げると、ぬるい。体温に近い温度で、指の間から泥水が滴(したた)った。木目が荒く、何かの看板か、あるいは机の天板だったのかもしれない。

表面に掠(かす)れた字。  『こよ——』

そこで線が切れていた。筆圧は最初の二文字だけ強く、三文字目から力が抜けている。書きかけで止まったのではない。書く力が途中で奪われたのだ。

こよいの呼吸が止まる。

「これ……ぼくの名前?」

先に気づいたのは、おたまだった。  猫は泥の海の一点へ歩み寄り、濡れるのも構わず座り込んで、じっと見つめた。

泥の向こうから声がした。

「その続きを、書けなかったの」

少女だった。  泥だらけの外套(がいとう)、裂けた袖(そで)。頬は痩(や)せ、首筋に泥が筋を引いているが、目だけが妙にはっきりしている。声は揺れていなかった。  見覚えが、あった。  市場(いちば)の空白で、白の中に膝を折って何かを拾っていた——あの少女だ。淡い着物は泥に汚れ、色を失いかけている。それでも、まっすぐにこよいを見るこの目を、忘れようがなかった。  あさひが反射的に剣の柄(つか)に手を伸ばしたが、久遠(くおん)が目で制した。敵ではない。泥から出てきたものは全て警戒すべきだが、これは違う。名前を持って現れた存在だ。

こよいは板を抱えたまま立ち尽くした。

「……誰? なんでぼくの名前を」

少女は苦笑する。

「鈴音(すずね)。ここで泥掘りを続けてる間だけ、形を保てるの。あなたの名前は……泥の中で拾った」

すずね。  こよいの胸の奥で、何かが噛(か)み合った。名前の洪水のあと、手の甲で溶けた二文字——すず。あれは、この子の名前の欠片(かけら)だったのだ。

「……市場(いちば)の空白に、いたよね。灯見町(とうみまち)の穴も。書庫(しょこ)の帳面も——あれ、きみ?」

鈴音(すずね)は少しだけ目を見開き、それから短く笑った。

「見られてたんだ。……穴は、わたし。帳面も」

そして、足元のおたまへ目をやった。

「その子は、昔から知ってる」

それ以上は言わなかった。喋(しゃべ)った分だけ、削れるから。  自分の手を見せた。指先が透けかけている。泥の色が皮膚を通して見える。実体と記録の境目が曖昧(あいまい)になっている証拠だった。

久遠(くおん)が一歩進む。

「泥の残留現象(ざんりゅうげんしょう)か。崩落(ほうらく)で落ちた記録を、自分の声で仮固定(こてい)してるんだな」

鈴音(すずね)は頷(うなず)いた。

「声を出さないと、すぐ溶ける。でも喋(しゃべ)りすぎると、喋った分だけ削れる。だから短く話すの」

その言い方に慣れがあった。何度も試して、失敗して、辿(たど)り着いた手順なのだろう。短く話す。余計なことは言わない。感情を込めすぎない。それが泥の中で形を保つ唯一の方法だと、鈴音(すずね)は体で覚えていた。

あさひが周囲を警戒しながら訊(き)く。

「ここで何を掘ってる?」

鈴音(すずね)は泥の中から小瓶を取り出した。  中には黒い粒が数個。瓶の硝子(ガラス)は濁(にご)り、中身は光を吸って沈んでいる。

「名前の芯(しん)。漂白の途中で落ちたやつ。集めておけば、あとで戻せるかもしれないから」

名前を消す過程で、芯だけが泥に落ちる。文字は消えても、発音の核(かく)が物質として残ることがある。それを鈴音(すずね)は一粒ずつ拾い集めていた。気が遠くなる作業だ。泥は毎日動く。昨日拾えた場所が、今日は沈んでいる。それでも掘り続ける。掘ることが、鈴音(すずね)の形を保つ行為そのものだから。

こよいは巾着(きんちゃく)を開き、硝子(びいどろ)の神の澄んだ一振を板へ移す。  透明な振動が板の木目に沁(し)み込んでいく。振動が木を伝い、掠(かす)れた字の続きが、ほんの少しだけ浮いた。

『こよい、急ぐな』

鈴音(すずね)が小さく笑った。

「……よかった。届いた」

「また、会える?」

こよいが訊(き)くと、鈴音(すずね)は手の中の小瓶を見て、少しだけ考えた。

「名前が落ちてる場所に、わたしはいる」

泥の流れが急に速くなる。  足元の泥が渦を巻き始め、路地の奥から冷たい風が吹いた。時間切れの合図だ。  鈴音(すずね)の輪郭(りんかく)が滲(にじ)み始めた。足元から順に、泥と同じ色になっていく。

「時間切れ」

鈴音(すずね)は小瓶をこよいに押し付ける。硝子(ガラス)越しに、手の温度だけがかすかに伝わった。

「これ、持ってって。中陵(ちゅうりょう)の北で使って。あと……しおりって子の痕跡(こんせき)、まだ消えてない」

「どこに?」

問い返す前に、鈴音(すずね)の肩が泥へ沈む。

「灯の少ない側を……」

声が途切れた。  泥面は波紋(はもん)だけを残し、元の濁(にご)りへ戻る。鈴音(すずね)がいた場所には、靴跡(くつあと)ひとつ残っていない。泥がすべてを均(なら)した。

こよいは膝をつき、小瓶を握った。硝子(ガラス)が手の中で温まっていく。鈴音(すずね)の体温の残りか、自分の熱か、区別がつかなかった。  あさひが背中に手を置く。掌(てのひら)の重さが、こよいの身体を今この場所へ繋(つな)ぎとめている。

「行こう。ここに長居すると、向こうまで引かれる」

久遠(くおん)も静かに頷(うなず)いた。

「あの子の声には嘘(うそ)がなかった。次に会える保証はないが、繋(つな)がりはできた」

こよいは立ち上がる。膝についた泥を払おうとして、やめた。鈴音(すずね)がいた泥だ。名前も知らなかった相手なのに、払いたくなかった。  板切れの文字を胸にしまい、小瓶を巾着(きんちゃく)へ入れた。神々が小瓶を包むように脈を変えた。受け入れている。

泥の中の出会いは短い。  それでも、短いからこそ嘘(うそ)じゃないと分かる。  還す者の手(て)とは、こうして誰かの名の芯(しん)を拾い上げる手のことなのかもしれない——こよいの胸に、かすかな予感が灯った。

お読みいただきありがとうございます

4つの小説投稿サイトでお読みいただけます