第165話 神々の帰郷
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第165話 神々の帰郷

第6章 影の計量

天都(てんと)の下層を抜けると、泥の匂いが薄れ、土の匂いに変わった。  崩れた石垣(いしがき)の隙間を這(は)い出すように路地を抜け、三人は山裾(やますそ)の道へ出た。鈴音(すずね)が言った「中陵(ちゅうりょう)の北」を目指し、半日歩いた。道は細く、草に覆われた獣道(けものみち)のような筋だったが、久遠(くおん)の目録(もくろく)に写した座標(ざひょう)が確かに北縁(ほくえん)を指していた。

北縁(ほくえん)の祠群(ほこらぐん)へ着くと、風向きが変わった。

いままで逆流(ぎゃくりゅう)していた冷気が、山側へ戻っていく。木々の枝先が一斉に同じ方向へ靡(なび)き、葉裏の白い面が見えた。風が元の道を思い出したような、自然な流れだった。足元の落ち葉が、風に押されてゆっくりと祠(ほこら)の方へ集まっていく。

祠群(ほこらぐん)は山の斜面に段を作って並んでいた。小さな石造りの社(やしろ)が七つ。苔(こけ)に覆われたものもあれば、屋根だけが新しいものもある。手入れの度合いがばらばらで、信仰の濃淡(のうたん)がそのまま建物の状態に出ていた。

祠(ほこら)の鈴が、順番にひとつずつ鳴り始めた。手前から奥へ、低い音から高い音へ。誰が揺らしているわけでもない。風が運ぶ振動だけで、鈴の金属が共鳴している。音は澄んでいて、泥の下層で聞いた音とはまるで違った。ここには、まだ音の居場所がある。

「帰郷(ききょう)の合図だ」

久遠(くおん)が目録(もくろく)を閉じる。蒼光(そうこう)を消した義眼(ぎがん)は、ふだんの暗い色に戻っていた。この場所では、読む必要がない。記録ではなく、現象がそのまま語っている。

「散っていた神格片(しんかくへん)が、元の座標(ざひょう)へ戻り始めてる。連鎖(れんさ)断絶で弾(はじ)き飛ばされていた欠片(かけら)が、帰る場所を見つけたんだ」

こよいは祠(ほこら)の前に小瓶を置いた。  鈴音(すずね)から受け取った黒い粒が、鈴の音に合わせて微かに震える。硝子(ガラス)の中で粒同士がぶつかり、乾いた砂みたいな音がした。小さな音だが、静かな祠(ほこら)の空気の中では、はっきり聞こえた。

あさひは壊れかけの鳥居(とりい)を支えながら言った。柱の根元が朽(く)ちかけ、傾いたまま止まっている。あさひの肩が鳥居(とりい)の重さを受け、足元の土が少しだけ沈んだ。

「神々が帰るって、つまり戦いが終わるってことか?」

久遠(くおん)は首を振る。

「帰るだけだ。元の場所で何を選ぶかは、これから決まる」

戦いが終わるのではなく、戦いの形が変わるだけだ。こよいもそう感じていた。旅の初めから、終わりは一度も約束されていない。ただ次の形があるだけだ。

祠(ほこら)の奥に、三つの影が現れた。  人の姿に近いが、輪郭(りんかく)はまだ曖昧(あいまい)。光を透かすと消えそうで、影の中では確かに立っている。目がない。口もない。けれど向いている方角だけは分かった。三つの影が、こよいを見ている。  こよいは動けなかった。旅の始まりから、巾着(きんちゃく)の中でしか触れられなかった存在が、今は影とはいえ、姿を持って立っている。その距離が、こよいの胸を締めつけた。近いのに、まだ遠い。遠いのに、確かにここにいる。

雨の神、風の神、月の神。  こよいの巾着(きんちゃく)の神々がそれぞれ反応し、温度が揺れる。雨の神には温かさ、風の神には涼(すず)しさ、月の神には銀の冷たさ。四柱(よはしら)のうち三柱(みはしら)が、同時に胸元で震えた。

神々は言葉を発しない。  代わりに、祠(ほこら)の床へ水紋(すいもん)みたいな模様を描いた。石の上を水が走るのではなく、石そのものが紋様を浮かべている。戻る道を確認しているのだと分かる。帰る場所の地図を、自分の足元に投影(とうえい)している。

こよいは小瓶の蓋(ふた)を開け、黒い粒を掌(てのひら)に乗せた。粒は思ったより軽かった。名前の芯(しん)にしては軽すぎるほどで、風が吹けば飛んでしまいそうだった。けれど掌(てのひら)の上で転がすと、芯(しん)の中に微(かす)かな重心がある。文字の名残(なごり)が、まだここに宿っている。

「これ、落ちた名前の芯(しん)。返せる?」

風の神の影が、そっと近づく。  影の輪郭(りんかく)がこよいの掌(てのひら)に重なった瞬間、粒は光へ溶け、祠(ほこら)の石へ染み込んだ。石の表面に一瞬だけ文字が浮き、すぐ消える。読めなかったが、誰かの名前だったことだけは分かった。

鈴が一段高い音で鳴る。受理の音だ。

久遠(くおん)が記録する。目録(もくろく)を開き、蒼光(そうこう)で短い一行だけ書き込んだ。

「受理された。完全復元ではないが、帰郷(ききょう)座標(ざひょう)へ登録(とうろく)されたはずだ。芯(しん)が座標(ざひょう)に紐(ひも)づけば、あとは時間が育てる」

あさひは鳥居(とりい)から手を離し、空を見た。  柱は傾いたまま、かろうじて立っている。倒れはしなかった。  灰色だった雲の切れ間に、細い青が見える。

「少しだけ、空が戻ったな」

細い青の隙間から、光が斜めに差した。祠(ほこら)の石段に光の筋が落ち、苔(こけ)の緑が鮮やかに浮かび上がる。崩落(ほうらく)の後の、最初の光だった。

こよいは祠(ほこら)へ一礼した。頭を下げた時、祠(ほこら)の中から温かい風が一筋だけ吹いた。髪が揺れ、巾着(きんちゃく)の布が膨(ふく)らむ。中の神々が、帰る仲間を見送っている。

「戻る場所があるって、羨ましい」

久遠(くおん)が静かに答える。

「俺たちにもある。形がまだ定まってないだけだ」

神々の影は、祠(ほこら)の奥へゆっくり退いていった。  去り際、三つの影は、揃っておたまの前で一拍だけ立ち止まった。頭を垂れたようにも見えた。猫は目を細めただけだった。  消えたわけではない。  在る場所へ帰ったのだ。影が薄れた後も、祠(ほこら)の中の空気は少しだけ温かかった。存在の余韻(よいん)が、石に残っている。  巾着(きんちゃく)の中では、四柱(よはしら)がまだ脈打っていた。帰ったのは散っていた欠片(かけら)であって、こよいの神々はここにいる。その温もりを掌(てのひら)で確かめて、こよいは小さく息を吐いた。

去り際、祠(ほこら)の床に新しい線が浮かぶ。  北東へ向かう細道の印。線は水紋(すいもん)の余韻(よいん)のように震え、やがて石に定着した。

あさひが笑う。

「見送りじゃなく、道案内もしてくれるのか」

こよいは頷(うなず)き、小瓶の空になった蓋(ふた)を閉じた。  空の瓶を巾着(きんちゃく)に戻す。もう粒は入っていないが、瓶の内側には名前の芯(しん)が通った跡が、薄く白い膜(まく)になって残っていた。

神々の帰郷(ききょう)は、別れだけじゃない。  次へ進むための方角を残していく。

三人は北東の細道へ足を向けた。細道の入口には石が二つ積まれていて、目印のように道の始まりを示していた。  背後で祠(ほこら)の鈴が、もう一度だけ静かに鳴った。今度は全部の鈴が同時に、一音だけ。見送りの音だった。

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