天都の下層を抜けると、泥の匂いが薄れ、土の匂いに変わった。 崩れた石垣の隙間を這い出すように路地を抜け、三人は山裾の道へ出た。鈴音が言った「中陵の北」を目指し、半日歩いた。道は細く、草に覆われた獣道のような筋だったが、久遠の目録に写した座標が確かに北縁を指していた。
北縁の祠群へ着くと、風向きが変わった。
いままで逆流していた冷気が、山側へ戻っていく。木々の枝先が一斉に同じ方向へ靡き、葉裏の白い面が見えた。風が元の道を思い出したような、自然な流れだった。足元の落ち葉が、風に押されてゆっくりと祠の方へ集まっていく。
祠群は山の斜面に段を作って並んでいた。小さな石造りの社が七つ。苔に覆われたものもあれば、屋根だけが新しいものもある。手入れの度合いがばらばらで、信仰の濃淡がそのまま建物の状態に出ていた。
祠の鈴が、順番にひとつずつ鳴り始めた。手前から奥へ、低い音から高い音へ。誰が揺らしているわけでもない。風が運ぶ振動だけで、鈴の金属が共鳴している。音は澄んでいて、泥の下層で聞いた音とはまるで違った。ここには、まだ音の居場所がある。
「帰郷の合図だ」
久遠が目録を閉じる。蒼光を消した義眼は、ふだんの暗い色に戻っていた。この場所では、読む必要がない。記録ではなく、現象がそのまま語っている。
「散っていた神格片が、元の座標へ戻り始めてる。連鎖断絶で弾き飛ばされていた欠片が、帰る場所を見つけたんだ」
こよいは祠の前に小瓶を置いた。 鈴音から受け取った黒い粒が、鈴の音に合わせて微かに震える。硝子の中で粒同士がぶつかり、乾いた砂みたいな音がした。小さな音だが、静かな祠の空気の中では、はっきり聞こえた。
あさひは壊れかけの鳥居を支えながら言った。柱の根元が朽ちかけ、傾いたまま止まっている。あさひの肩が鳥居の重さを受け、足元の土が少しだけ沈んだ。
「神々が帰るって、つまり戦いが終わるってことか?」
久遠は首を振る。
「帰るだけだ。元の場所で何を選ぶかは、これから決まる」
戦いが終わるのではなく、戦いの形が変わるだけだ。こよいもそう感じていた。旅の初めから、終わりは一度も約束されていない。ただ次の形があるだけだ。
祠の奥に、三つの影が現れた。 人の姿に近いが、輪郭はまだ曖昧。光を透かすと消えそうで、影の中では確かに立っている。目がない。口もない。けれど向いている方角だけは分かった。三つの影が、こよいを見ている。 こよいは動けなかった。旅の始まりから、巾着の中でしか触れられなかった存在が、今は影とはいえ、姿を持って立っている。その距離が、こよいの胸を締めつけた。近いのに、まだ遠い。遠いのに、確かにここにいる。
雨の神、風の神、月の神。 こよいの巾着の神々がそれぞれ反応し、温度が揺れる。雨の神には温かさ、風の神には涼しさ、月の神には銀の冷たさ。四柱のうち三柱が、同時に胸元で震えた。
神々は言葉を発しない。 代わりに、祠の床へ水紋みたいな模様を描いた。石の上を水が走るのではなく、石そのものが紋様を浮かべている。戻る道を確認しているのだと分かる。帰る場所の地図を、自分の足元に投影している。
こよいは小瓶の蓋を開け、黒い粒を掌に乗せた。粒は思ったより軽かった。名前の芯にしては軽すぎるほどで、風が吹けば飛んでしまいそうだった。けれど掌の上で転がすと、芯の中に微かな重心がある。文字の名残が、まだここに宿っている。
「これ、落ちた名前の芯。返せる?」
風の神の影が、そっと近づく。 影の輪郭がこよいの掌に重なった瞬間、粒は光へ溶け、祠の石へ染み込んだ。石の表面に一瞬だけ文字が浮き、すぐ消える。読めなかったが、誰かの名前だったことだけは分かった。
鈴が一段高い音で鳴る。受理の音だ。
久遠が記録する。目録を開き、蒼光で短い一行だけ書き込んだ。
「受理された。完全復元ではないが、帰郷座標へ登録されたはずだ。芯が座標に紐づけば、あとは時間が育てる」
あさひは鳥居から手を離し、空を見た。 柱は傾いたまま、かろうじて立っている。倒れはしなかった。 灰色だった雲の切れ間に、細い青が見える。
「少しだけ、空が戻ったな」
細い青の隙間から、光が斜めに差した。祠の石段に光の筋が落ち、苔の緑が鮮やかに浮かび上がる。崩落の後の、最初の光だった。
こよいは祠へ一礼した。頭を下げた時、祠の中から温かい風が一筋だけ吹いた。髪が揺れ、巾着の布が膨らむ。中の神々が、帰る仲間を見送っている。
「戻る場所があるって、羨ましい」
久遠が静かに答える。
「俺たちにもある。形がまだ定まってないだけだ」
神々の影は、祠の奥へゆっくり退いていった。 去り際、三つの影は、揃っておたまの前で一拍だけ立ち止まった。頭を垂れたようにも見えた。猫は目を細めただけだった。 消えたわけではない。 在る場所へ帰ったのだ。影が薄れた後も、祠の中の空気は少しだけ温かかった。存在の余韻が、石に残っている。 巾着の中では、四柱がまだ脈打っていた。帰ったのは散っていた欠片であって、こよいの神々はここにいる。その温もりを掌で確かめて、こよいは小さく息を吐いた。
去り際、祠の床に新しい線が浮かぶ。 北東へ向かう細道の印。線は水紋の余韻のように震え、やがて石に定着した。
あさひが笑う。
「見送りじゃなく、道案内もしてくれるのか」
こよいは頷き、小瓶の空になった蓋を閉じた。 空の瓶を巾着に戻す。もう粒は入っていないが、瓶の内側には名前の芯が通った跡が、薄く白い膜になって残っていた。
神々の帰郷は、別れだけじゃない。 次へ進むための方角を残していく。
三人は北東の細道へ足を向けた。細道の入口には石が二つ積まれていて、目印のように道の始まりを示していた。 背後で祠の鈴が、もう一度だけ静かに鳴った。今度は全部の鈴が同時に、一音だけ。見送りの音だった。
